第二章 ~『もう一つの集落』~
ハンスが怪我をして、拠点に戻ってから、数日が経過した。
日差しは柔らかく、森を渡る風には湿り気が混じっている。リサとハンスは機体の外へ出て、簡単な朝の見回りをする。
リサは隣を歩くハンスの肩を一瞥する。傷跡はほとんど残っておらず、毒も完全に抜けきっている。動きに違和感もなくなっていた。
「そろそろ探索を再開できそうだ」
「……無理はしていませんよね?」
「してないさ。万全の状態だから、どこへでも付いていくよ」
穏やかな笑みを零すハンスの表情に嘘はない。その言葉を信じたリサは、ゆっくりと口を開く。
「あれから、ずっと考えていたのですが……水で呼吸する魔法はどのくらい持続できるものなのでしょうか?」
「魔力量次第だけど、数分が限界だろうね。体力の問題もあるし、せいぜい五分程度だろうね」
「つまり、海に飛び込んだ後、長時間潜って逃げられるわけではないのですね?」
「そうなるね」
「ならあの崖の周辺で陸地にあがったはずです。そこから拠点までの距離はそう遠くはないと思うのです」
「なるほど。一理あるね」
脱出ルートを計算していたのなら、拠点の位置も考慮したはずだ。リサの推測にハンスも同意する。
「もし犯人が島の外から来た暗殺者なら船が手に入るかもね」
「そうなれば、大きな前進ですね」
調べる価値はありそうだと結論を下した二人は、準備を整えて、再びあの海辺の崖へと足を運ぶ。
「潮が引いています」
崖下を除くと、海面は遠ざかり、代わりに濡れた岩肌が姿を現していた。リサは周囲に視線を配ると、傾斜が緩やかな斜面を見つける。
「ここから降りられそうです」
リサたちは慎重に足場を選びながら降りていく。足で岩の感触を確かめながら、一歩ずつ岩肌を下へと進む。
足元が滑りそうになるたびに、体がこわばる。風が強く吹いて、バランスを崩しそうになるが、なんとか崖下まで降りる。
「ハクは余裕だったようだね」
「にゃ~」
リサが後ろを振り返ると、ハクはまるで遊ぶように岩場を跳ねている。満足げな鳴き声に、ハンスが小さく笑う。
「さすが虎の子だ。足取りが人間とは違う」
リサも小さく息をつく。ハクが警戒していないということは、今のところ敵の気配は感じていないということだ。
「崖沿いに回ってみましょう」
ハクが先導する形で岩場を進む。海風が湿っていて、足元の岩肌は滑りやすい。それでも、ハクの足取りは一切の迷いがなかった。
「あれ……」
やがて数分歩いたところで、ハンスが声をあげる。視線の先に広がっていたのは、森へと続く斜面だ。その先にはぽっかりと開けた空間が広がっている。
「集落ですね」
リサたちは足を踏み入れ、視線を巡らせる。風にさらされた柱、崩れかけた屋根、積まれた石の土台。自然の中に埋もれた失われた集落だった。
「探していたもう一つの集落かな?」
「おそらくそうだと思います。これを見てください」
地面にタバコの吸い殻が落ちている。乗客の誰かが残したものだろう。
「もう一つの集落よりも随分とボロボロだね」
建物の幾つかが火災にあったかのように黒く焦げている。残った木壁には鋭く裂かれた痕も残されていた。
「何かに襲われたのかもね」
「乗客同士が争ったのでしょうか?」
「いいや、可能性は低いんじゃないかな。随分前の被害なのに、まだ魔力の残滓が残っているからね」
人間とは思えない威力の魔法だと、ハンスは続ける。リサはその正体に心当たりがあった。
「魔物ということですね……」
「しかも特別に強い力を持った個体だね」
二人の頭に真っ先に浮かんだのは四獣だ。その内の一体が暴れたのだと知り、ゴクリと息をのむ。
「乗客の皆さんは無事だったのでしょうか……」
「それを知るためにも調査するしかないね」
ハンスの視線は集落の奥、一段高くなった地形の先にある建物へと向けられる。
そこには石造りの屋敷が建っていた。
重く厚い石材が組まれた壁。屋根は半壊していたが、建物自体はまだしっかりと形を保っている。
屋敷に向かったリサたちは、正面の扉を開く。軋む音と共に扉が開き、埃と湿気の混ざった空気が流れ出る。
割れた食器、カビの生えた寝具、そして床の片隅に落ちているのは見慣れた黒い物体だった。
「これは……スマホ?」
リサが拾い上げたそれは、角に傷の入ったスマートフォンだ。
電源ボタンを押してみるが反応はない。完全にバッテリーが切れている。
(裏面に印字がありますね)
リサは埃をぬぐいながら背面を確認する。そこには『社員専用端末』と記されており、航空会社のマークも添えられている。
(客室乗務員さんが住んでいた屋敷のようですね)
リサはそのまま隣の部屋に移動する。机や棚が並ぶ中、埃をかぶった一冊の日記を見つける。
ゆっくりと近づき、そっと手を伸ばして表紙をめくる。インクが滲み、ところどころ文字が崩れているが、それでも確かに記録は残っていた。
『この島には四体の怪物が生息している。四獣と呼ばれているらしい』
最初のページにはそう記されていた。筆跡は乱れており、記録というより、心情を吐き出すような勢いがある。
『その内、鳳凰によって龍と亀は倒された……残りは虎だけ。怪物同士の争いなんて放っておけば良いのに、あの裏切り者たちは闘うことを選んだ』
裏切り者とは探索派の人たちのことだろう。そう理解しながら読み進めていく。
『私たちは平和に生きていたいだけなのに。鳳凰は人間の区別がつかないのか、私達の集落を襲撃した。無実の私たちにも、被害が及んだのだ』
筆者の筆圧が増している。怒りをぶつけるような文体だ。
『日本に帰りたい気持ちは理解できる……でも、それ以上に死にたくなかった。あんな化け物に勝てるわけがない。そう思っていた』
インクが滲み、文字が読めない箇所が続く中、湿気でくっついたページをそっと剥がす。そこに書かれていたのは『虎が鳳凰を倒した』の一文だった。
『条件が整った。四獣が残り1体になる。それで神殿の扉が開く。わたしたちは日本に帰れるのだ』
それを最後に日記は終わる。ふぅと息を漏らすと、ハンスが興味深そうな目を向ける。
「収穫があったようだね」
「故郷に帰るための条件が分かりました」
「本当かい!」
「ですが、信憑性を疑っています。この日記には矛盾がありますから」
「矛盾?」
「はい。四獣を残り一体にして、彼らは日本に帰還したとあります。ですが鳳凰はまだ生きていますから」
ハンスが息を呑む。先日、空に現れた怪物の威圧感を彼も忘れてはいなかった。
「たしかにね……でも、もしかしたら鳳凰だけは特別なのかもしれない」
「特別?」
「鳳凰は炎の中から自然発生的に生まれる存在だと伝承されている。親も子もなく、始まりも終わりも持たない、不死の鳥だと……もしそうなら、一度は倒されて、それから復活したと考えれば筋が通る。そう思わないかい?」
ハンスの問いに、リサは神妙な面持ちで頷く。
日記の内容が正しいとしたら、彼女が日本に帰るためには鳳凰を倒す必要がある。その事実を改めて直視したからだ。
「何か弱点のようなものがあれば……」
「あるよ、弱点」
「あるのですか!」
「伝承ではね……鳳凰は水を浴びると力が弱まるとされている。魔力が減り、翼の輝きも鈍るそうだ」
その言葉を聞いた瞬間、リサの胸の中に微かな光が灯る。暗闇の中に一筋の道が示されたような感覚だった。
「水……」
瞳の奥に暗殺者が放った水の弾丸が鮮明によみがえる。周囲の空気を切り裂き、淡く輝きながら一直線に放たれた魔法が脳内で再生される。
「勝機があるかもしれません」
リサは静かに目を閉じ、指先に意識を集中させる。彼女の周囲の空気がわずかに揺らぎ、小さな水の球がふわりと浮かび上がる。
「……ッ――ど、どうして水魔法を!」
「暗殺者が逃げるときに放った水魔法をお手本にしました」
「だからといって見ただけで……いや、忘れていたよ。君は天才だったね」
驚愕と賞賛を共に受け取り、リサは苦笑いを浮かべる。
「もちろん、鳳凰に勝利するにはまだまだ成長が必要です。ですが……いつか、必ず倒します。そして私は日本に帰ってみせます!」
その言葉は誰に向けたのでもない、自らへの誓いだった。




