第二章 ~『スープとハンスの優しさ』~
飛行機の機内に戻ったリサは、ファーストクラスのシートにそっと腰を下ろす。長時間の移動と緊張で疲弊した身体を柔らかさが包みこんでくれる。
窓の外からは夕日が差し込んでおり、地平線近くに沈みかけた陽の光が、機内を染めている。
重たい身体をシートに預けながら、リサは目を閉じる。瞼の裏に、一日の出来事が次々に浮かんでは消えていく。
(たくさんの出来事がありましたね……)
集落と鳳凰を発見し、日本へ帰るための条件も明確になった。成果も大きかったが、その分、疲労も大きい。
眠るために目にギュッと力を込める。
だが眠れない。どれほど体が重くても、頭だけが冴えていた。
(こういう時はもう眠れないでしょうね……)
隣に視線を向けると、ハンスが寝息を立てている。その足元では、ハクが丸くなり、白い毛並みをわずかに揺らしながら安らかに眠っていた。
(ハンス様たちも疲れたでしょうからね……)
子供のような寝顔を見て、リサは自然と口元をほころばせる。
暇を持て余した彼女は、懐から機長の残した日記を取り出す。
ページが破れ、濡れた跡が染みになっているだけでなく、インクが湿気でにじみ、文字の輪郭がぼやけている。
さらに筆跡には強い癖があり、走り書きのように流れる線、崩れた漢字、判読の難しいひらがなも多い。
(読みにくいのは急いで書いたからでしょうね……)
文明の利器がない無人島での生活だ。きっと毎日が多忙だったはずだ。隙間時間に記録を残したのだろうと機長の事情を推し量りながら、じっと文字を睨みつける。
(この文体……どこかで見たような……)
ぼんやりとした違和感が浮かぶ。
記憶の奥底を探り、その違和感の正体に辿り着くと、リサは立ち上がって通路を前方に進む。
機体の先端、コックピットへ辿り着くと、ドアはすでに壊れていた。以前、リサが調べる時に鍵を壊したからだ。
中に入ると、内部の操作盤や椅子がうっすらと埃をかぶっている。
リサは中に入り、慎重に視線を巡らせる。乱雑に散らばった書類、落ちたヘッドセット、割れた計器のガラス。
その中で、座席の脇に押し込まれていた黒いメモ帳に気づく。
(これだ!)
リサはメモ帳を開いて確認すると、中にはフライト情報や天候、整備チェックの記録などが書かれている。
手書きの文字は、驚くほど明瞭だ。クセはあるが内容を十分に解読できる。
「これを参考にすれば日記を読めます」
リサはメモ帳を持って後方の席へ戻ると、機長の日記と並べて広げる。
ふたつの筆跡を、丁寧に見比べることで、解読の難しかった文章が次第に解き明かされていく。
その結果、乗客たちに起きた新たな事実が明らかになる。
(乗客の人たちは探索派と安全派で争っていたのですね……)
危険を犯してでも日本へ帰る術を探そうとする探索派と、生存を第一に優先する安全派。
乗客は二つのグループに分かれて、それぞれで集落を形成したとある。
極限状態で二つに分かれた人々の間には、亀裂が生じた。その確執は深刻だったようで、日記には食料の分配を巡る争いなどの出来事が淡々と綴られている。
(ですが最後には和解して、共に日本へ帰ったようですね)
リサは日記を閉じる。この島にはもう一つ、別の集落があると知れたのは大きな発見だ。
(明日、探しに行くとしましょう)
次の目的地を決めたなら、今は体力を回復しなければならない。
リサはシートの背に体を預け、目を閉じる。しかし、眠れない。不安が胸を締めつけ、意識は鮮明なままだった。
何度も寝返りを繰り返し、やがて、隣から静かな声が届く。
「眠れないようだね」
思わず振り向くと、ハンスが目を覚ましていた。
「ハンス様も起きていたのですね」
「うん。ただ仮眠は取れたから、体調は悪くないよ」
そう言うと、ハンスは手に持っていたカップをそっと差し出す。中から湯気と共にコンソメの香りが漂っている。
「どうぞ。たしか君がカップスープと呼んでいたやつだよね?」
「ありがとうございます。ですが、どうやって、これを?」
「火の魔法でお湯を沸かしただけさ。あまり上手くいかなくて、ちょっとぬるいかもしれないけど……」
思わず、リサの頬がゆるむ。
異世界の貴族であるはずのハンスが、慣れない道具とスープの素で作ってくれたのだ。その気遣いのおかげで、胸が温かくなる。
「ハンス様は、日本に行っても適応できそうですね」
「異国の飲み物を振る舞うくらいは、できるかもしれないね」
くすっと笑い合った後、リサはスープをそっと口に含む。
コンソメの優しい塩気と、ほどよい熱が、冷えた身体にじんわりと染み込んでいく。
「眠れない理由は、何か考え事でも?」
「少し興奮してしまって……実は新しい発見があったんです」
リサは日記から得られた情報をハンスに説明する。彼は神妙な面持ちで頷くと、ゆっくりと口を開く。
「もう一つの集落か……もしかしたらそこに、神殿の扉を開けるための手がかりがあるかもね」
「私もそれを期待しています」
「明日が楽しみだね」
二人の間に、穏やかな空気が流れる。再びシートに身を預けたリサは、ようやく重たいまぶたを閉じることができたのだった。




