第二章 ~『機長の日記』~
寝床にしている飛行機の窓から朝日が差し込む。金属の壁に反射した光は、機内の薄暗い空間を照らしている。
リサはファーストクラスの座席に身体を預けたまま、ゆっくりとまぶたを開ける。レザー張りのシートは厚みがあり、背もたれの角度も自由に調整できる。枕代わりにしていた毛布の柔らかさも相まって、寝床としては、申し分ない快適さだった。
(さすが、ファーストクラスですね……)
目をこすりながら、リサは小さく伸びをする。座席に深く腰を沈めると、全身を優しく包み込むような感覚があり、つい二度寝しそうになった。
だが傍らで丸くなっていたハクの気配に気づき、リサはぱちりと目を開ける。
「ハク様、おはようございます」
リサが声をかけると、ハクはふわりとしっぽを揺らしながら、胸元に頭を擦りつけてくる。ぬくもりと柔らかな毛並みに思わず頬が緩んでしまった。
リサはそっと席を立ち、機内の中央通路を歩くと、すでに目を覚ましていたハンスが、外の空気を取り込むためドアを開けている。
潮と森の匂いが混ざった空気は、少し冷たいが心地よかった。
「おはよう、リサ。よく眠れたかい?」
「はい。ありがとうございます、ハンス様」
挨拶を交わすと、リサは身支度を整える。昨夜の残りの果実と干し肉で腹を満たすと、砂浜に集合する。
「ハク様、今日は森の奥まで行きますが、勝手に離れてはいけませんよ」
母の咆哮と誤解し、オークの元へ向かってしまった前科がある。同じ過ちを犯さないようにと釘を刺すと、ハクは「にゃ~」と元気に答える。
「ハクは分かってくれたかな?」
「大丈夫ですよ。ハク様は賢いですから。私との約束を破ったりはしません」
「それならいいが……なにせ森の奥にはどんな怪物が潜んでいるかも分からない。危険は今までの比ではないからね」
ハンスの声には、確かな警戒が滲んでいる。彼が言う通り、これまで遭遇したオークなどとは比べものにならない、凶暴な魔物がいる可能性もある。
実際、ハクの母親を倒した強敵がいるのは間違いないのだ。その事実を思い出し、緊張に包まれていく。
(油断はできませんね……)
気を引き締め直し、森の入口へ向かう。
陽射しは木々に遮られ、空気がひんやりと湿っている。これまで何度も歩いた小道を越え、未踏の地へと足を踏み入れたその瞬間、まるで世界が変わったかのように空気が重くなる。
木々の密度が増し、陽光の差し込む量が減る。地面は湿り気を増し、ところどころに大きな根や岩が突き出していた。
普通なら迷ってしまいそうな地形だが、リサたちには先導役がいた。確かな足取りで進むハクを追いかけていく。
「ハクは随分と迷いがないね」
「人や動物が通った匂いを感じ取っているのだと思います。それに、この道、よく見ると木々の成長が不自然なんです。樹の幹が細くて育ちが悪いのは、踏み固められていたせいかもしれません」
「なるほど、だからこの道を進むわけだね」
道を通ったのが獣ではなく、過去にこの島に流れ着いた人だとすれば、その先に拠点としていた場所を発見できるかもしれない。
その意図を理解したハンスの表情から迷いが消える。
「さすが、リサ。凄い観察眼だね」
「これもテレビで得た知識ですから」
「知識は持っていても引き出せなければ意味がない。リサだからこそ活かせているんだよ」
ハンスは尊敬の眼差しをリサに向ける。その視線に頬を掻きながら、リサたちはハクの選んだ進路をじわじわと進んでいく。
どれくらい歩いただろうか。
途中、湿地や倒木の下をくぐるような体力を奪う場所も存在した。
本来なら幼い少女の体では力尽きてしまうだろうが、魔力を取り込み、身体能力が向上しているおかげか、足場の悪い森の中でも意外なほど軽やかに進めている。
(本当に助かりますね)
魔力の恩恵に感謝していると、前方の茂みを抜けたハクが、ピタリと動きを止める。
「……ハク様?」
リサが呼びかけると、ハクは一度だけこちらを振り返り、再び前を向く。その姿には、何かを見つけた確信があった。
リサとハンスは顔を見合わせ、頷き合ってその先へと足を踏み出す。
やがて、密生した木々の隙間から、ひときわ明るい陽光が差し込む場所へと出る。
「ここは……」
リサが思わず呟く。
視線の先には朽ちた木造の建物が点在している。屋根は崩れ、壁は蔦に覆われ、中には原形を留めていないものもあり、ただ土台の一部が残るだけのものもあった。
かつて人の営みがあったとは思えないほど静かで、時間が止まったかのような空間にリサたちは足を踏み入れる。
「過去の漂流者かな?」
「いえ、もしかしたら私の故郷の住人たちかもしれません……」
胸の奥に張りつめていた想いが、不意に波紋のように広がっていく。飛行機事故の直後、目を覚ますと、機内には彼女ひとりを残して、乗客は姿を消していた。
あの時、他の乗客たちはどこへ行ったのか。なぜ姿を消したのか。それを知る手がかりが、この地に残されているかもしれない。
リサたちはゆっくりと歩を進める。風が吹き抜けるたびに草が揺れ、朽ちた建材がかすかにきしむ音を立てる。辺りには鳥の声もなく、ただ自分たちの足音だけが森に吸い込まれていった。
ほどなくして、リサの目に入ったのは、苔に覆われた石造りの井戸だ。滑車のあったであろう金属の支柱は、錆びて崩れかけている。
リサが中を覗き込むと、内部は薄暗く、底には落ち葉と泥が積もっている。水の気配がないことから、長い間、誰にも使われていないと読み取れた。
「ここに人が住んでいたのは、かなり前のようですね」
「だね」
建物は最悪古くても住める。だが飲み水を確保するための井戸はそうはいかない。もしまだ住人が健在なら、井戸だけは修繕するはずだ。
「あの奥の建物に入ってみようか」
「一番大きな建物ですし、住人に関する手掛かりを得られるかもしれませんね」
二人は頷き合うと、一際大きな建物に足を踏み入れる。
屋根は抜け、床板は腐り、壁は倒れかけている。だがその中には、かつての日常の痕跡が残っている。
朽ちたテーブルの脚、割れた陶器の皿、錆びついたフォーク。すべてが静かに、時を止めたまま佇んでいる。
「これは……」
リサは床に見覚えのある帽子を見つける。黒を基調としたデザインで、正面には金色の翼が描かれている。まぎれもなくそれは『機長の帽子』だった。
「どうやらここには私の故郷の人たちが住んでいたようです」
日本へ帰るヒントを得たことに、リサは拳を握りしめる。時間軸は異なるものの、彼らもこの無人島で遭難していたのだ。
(私以外の乗客は消えたのではなく、別の時間軸に飛ばされたのだとしたら……)
リサが一人だったことや、砂浜に足跡がなかったことにも説明がつく。納得していると、ハンスが床を見下ろしながら、ボソリと口にする。
「帽子の持ち主は、きっと集落の長だったんだろうね……」
「なぜそう思うのですか?」
「ここには食器が多いからね。客人を招くような生活をしていた形跡がある。つまり、集落の中で人との関わりが多かった人物だと推測できる」
ハンスの推理はおそらく正しい。リサは同意するように頷く。
「きっと機長として、皆をまとめていたのだと思います」
「だとしたら、この建物を隅々まで調べないとね」
「重要な情報が眠っている可能性が高いですからね」
二人は意識を整えると、丁寧に調査を始める。崩れかけた棚の中を覗き、床に散乱した木片を退かしていく。
そして、リサは埃まみれの日記を発見する。
埃を払うと、ボロボロになった革表紙が顔を出す。破けているページは多いものの、留め具はしっかりと残っており、なんとか読める状態は保たれている。
慎重に開くと、細かな文字で埋められていた。その内容に目を通していく。
【遭難から三日目】
『気がつくと、私は砂浜に倒れていた。辺りを見回すと、数人の乗客が倒れているのが見えたが、全員ではなかった』
『さらにあれほど巨大な飛行機が、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えていた』
『打ち上げられた残骸すら、翼の一部や座席数脚を残す程度。どう考えても、説明がつかない』
『我々が巻き込まれたのは、ただの事故ではないのかもしれない』
【遭難から五日目】
『助けは来ない。無線も通じない。星の位置も地図とは異なるように見える。ここがどこなのか、私たちは誰も分からない』
『水と食料を確保するため、森の中に入って探索を始めた』
『同時に私は元いた世界に帰る術も探し続けている。その一助として、こうして日記を残す。この記録が、誰かの希望になることを願っている』
【遭難から十日目】
『島には人の手による痕跡が点在している。その内の一つで、古びた集落と井戸を発見。どうやら、私たちが最初の遭難者ではないようだ』
『住人の姿はない、どこかに移住したか、あるいは島から脱出した可能性もある。わずかな手がかりでも、私たちは情報を集めなければならない』
【遭難から二十日目】
『森の中で怪物と遭遇したという報告を受ける。駆けつけると豚の化け物が暴れていた。現実では考えられない存在を、我々は魔物と名付けた』
【遭難から五十日目】
『魔物の中には特別な個体が存在するとの伝承を発見する。四獣と呼ばれ、島に古くから棲む守護神であると、その伝承には記されている』
『最初はただの神話だと思っていたが、私たちはついにその内の一体、火を吹く虎と接触することに成功する』
『白銀の体毛を持ち、知性を感じさせる瞳を持ったその虎は、我々に襲いかかることはなかった。むしろ危険な魔物から庇ってもくれる。我々はその虎と友人になった』
【遭難から百日目】
『我々は元の世界に戻る方法を発見した。そのための鍵は四獣だったのだ。念願の日本へと帰還する。もしこの日記を読むものがいたら……』
(破けていて先が読めないので、これで終わりですね)
ページは風雨に晒されて劣化しており、インクの跡もところどころ滲んでいる。さらに筆跡にクセがあるため読めないページも多い。だが、その一行一行には、必死に未来へ繋ごうとした生の言葉が刻まれている。
(すべてがクリアになったわけではありませんが、収穫はありましたね……)
元の世界に戻る方法が存在する。それを知れただけでも、大きな成果だ。
(そして、そのための鍵となるのがハク様なのですね……)
これには確信があった。
機長に協力した虎とは、きっとハクの母親だったのだ。だからこそ、死に際に同じ日本人であるリサに力を託してくれたのだとすると、話の筋が通る。
(この日記を持ち帰って、もっと詳しく調べてみましょう。読めない文字も、時間をかければ、何か分かるかもしれませんから)
リサは改めて、日記を胸元に抱きしめる。新たな希望を手にした彼女の瞳は輝いていたのだった。




