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プロローグ ~『パワハラと戦います』~

しばらくの間、毎日、3話ずつ投稿します

よければ楽しんでいただけると嬉しいです


「お前、本当に使えねぇよな」


 薄暗いオフィスに響く罵倒が、リサの胸を鋭くえぐる。もう何度目になるだろうか。毎日のようにリサを標的にして、上司が容赦なく言葉の暴力を浴びせる。


「なんでこんな簡単なことができないんだよ!」


 人前でも平然と叱り飛ばし、リサを嘲笑の的にする。周囲の同僚も、上司の機嫌を損ねるのを恐れてか、見て見ぬふりをしていた。


「……修正します」


 リサの小さな声で答えると、じっと唇を噛み締め、目の前に積まれた膨大な書類に視線を落とす。


「今日中に終わらせろよ!」

「……この量をですか?」

「寝ないでやったら終わるだろ!」


 あまりにも理不尽な言葉にリサの頭がくらくらする。反論する気力を奪われ、彼女は黙って机に向かう。ただただ与えられた仕事に取り掛かるしかなかった。


 オフィスが再び静寂に包まれると、隣の席に座っている同僚の女性が小声で話しかけてきた。


「ごめんね、味方になってあげられなくて」


 その声には申し訳なさと同情が入り混じっている。リサはかすかに笑みを浮かべて、静かに答えた。


「いえ、立場は理解できますから……」

「でも、本当に不思議よね。あなたは決して仕事ができないわけじゃないのに……」

「あまり愛想が良い方ではありませんから。嫌われているのだと思います」


 リサは努めて冷静に答えたが、心の中には深い傷が広がっていく。


 その夜もリサは遅くまで残り、無言で仕事を続ける。時計の針はとうに終電の時間を過ぎていた。


 オフィスにはリサと上司だけが残る中、彼は珍しく穏やかな表情でリサに近づいてきた。


「なぁ、ちょっと話があるんだが」

「なんでしょうか?」


 嫌な予感を覚えながらも訊ねると、上司は厭らしい笑みを浮かべる。


「お前、俺の愛人になれよ」


 一瞬、リサは自分が何を言われたのか分からずに困惑してしまう。だが彼の表情は真剣そのもので、冗談ではないとすぐに理解できた。


「愛人……とは、どういう意味ですか?」


 リサの声は震えていた。その反応に苛立ちを見せた上司は鼻で笑う。


「大人なんだ。分かるだろ?」

「分からないので訊ねています」

「つまりだ、俺の機嫌を取れば、仕事が楽になる。言いたいのはそれだけだ」


 その言葉に、リサの胸に怒りがこみ上げる。彼女は拳を強く握りしめ、感情を抑えながらはっきりと口にする。


「お断りします」

「おいおい、立場を理解しているのか?」

「あなたの愛人になるくらいなら死んだほうがマシです」

「偉そうに! だったら、これからも虐めてやるよ。覚悟しておけ!」


 その言葉を聞いたリサは、一瞬の沈黙の後、ふっと笑う。まさか笑うとは思わず、上司は戸惑いを隠せなかった。


「……何がおかしい?」


 苛立ちを隠せない上司が低い声で問い詰めると、リサはポケットからスマートフォンを取り出す。


「私の残業に意味もなく付き合う人ではないと知っていましたから。自衛のために。録音していたんです」


 その瞬間、上司の顔から完全に血の気が引いていく。唇が小刻みに震え、瞳には明らかな狼狽が宿っていた。


「これまでのパワハラ発言も記録しています。労働基準監督署だけでなく、弁護士にも相談させていただきますので、覚悟しておいてください」

「そ、そんな脅しで俺が怯むとでも思っているのか?」

「脅しではありません。これはあなたがしてきたことへの正当な対処です」

「ならお前はクビだ!」

「私の方から辞めますので、ご心配なく。これ以上、あなたの言いなりにはなりません」


 リサは背を向けてオフィスから立ち去る。夜の街を歩きながら、これまでの心の重荷が消えていくような開放感を覚える。


 それからのリサの行動は早かった。


 労働基準監督署にこれまでの証拠を提出した後、法律事務所に連絡を取り、正式に訴訟を依頼する。


 弁護士はリサの話を聞くと、表情を険しくしながらも真摯に対応し、すぐさま会社に対して交渉を始めた。上司の発言と行動、職場環境の異常さは明白で、法的にも強く出られる材料は揃っていた。


 会社は当初こそ強気な姿勢を見せたが、証拠の明確さと法的リスク、そして世間体を考慮し、ほどなく態度を軟化させる。そして最終的には、リサの要求を全面的に認める形で和解が成立した。


 未払いだった残業代、精神的苦痛に対する慰謝料、それらがすべて彼女の口座に振り込まれた。


 上司も責任を取らされ、遠方の関連子会社へと左遷されたと噂で聞いた。本人は不服を訴えているようだが、会社としてもこれ以上庇いきれなかったのだろう。


 リサの完全な勝利だった。その頑張りを祝うために、リサは以前から憧れていたハワイへの旅行を予約する。


 白い砂浜とエメラルドグリーンの海、鮮やかな花々が彩る常夏の楽園。そんな景色を夢見て、リサは荷造りを始める。


 久しぶりに購入した水着、旅先で着るための軽やかなワンピース、そしてお気に入りの帽子。ひとつひとつを丁寧にトランクに詰めていると、自然と表情も緩んでいく。


 出発の朝、空港へ向かう電車の中でリサは静かに目を閉じ、これまでの出来事を思い出していた。


 あの辛く、苦しい日々が、遠い過去のように感じられる。搭乗ゲートを抜け、飛行機の座席に身を沈めたとき、リサは深く息を吸い込んだ。


(これからの私の人生はきっと輝かしいものになるはずです)


 飛行機がゆっくりと滑走路を走り始め、やがて大空へと舞い上がる。安定飛行に入り、機内サービスが始まると、リサは軽く食事をとり、少しずつ心を落ち着けていった。


 ふわりと香るコーヒーの匂いに、これから始まる新たな生活の香りを重ねる。


(さようなら。過去の私……)


 機体はさらに南へと進んでいく。未来への希望を胸に抱きながら窓の外を眺めていると、突然、機体が小さく揺れる。


 最初は小さな震えで、乗客の誰もが気にも留めなかった。


 しかし、その振動は瞬く間に大きくなり、シートがびくびくと跳ね上がるほどの衝撃が広がっていく。


「皆様、シートベルトをしっかりとお締めください。現在、乱気流に遭遇しております」


 アナウンスが流れるが、その声には微かな緊張が滲んでいる。リサは急いでシートベルトを締め直し、隣の席の女性と目を見合わせた。


「大丈夫かな……」


 隣の女性が不安そうに囁く。リサはその問いに無言しか返せない。


 心の中で無事を願うが、次の瞬間、さらに大きな揺れが機体を襲う。


 客席上の荷物棚がガタツキ、いくつかの荷物が床に落ちる。機内には小さな悲鳴と、子供の泣き声が交錯する。


 まるで波に飲み込まれた小舟のように上下左右に揺さぶられ、座席に押し付けられるような感覚に襲われる中、リサは必死でしがみついた。


「落ち着いてください、皆様!」


 客室乗務員たちが必死に声を張り上げているが、恐怖の広がりは止まらない。そして、ついに二度目のアナウンスが流れた。


「エンジンの一部に異常が発生しました。安全確保のため、最寄りの島へ緊急着陸を行います。乗務員の指示に従い、落ち着いて行動してください!」


 リサの心臓がドクンと跳ねる。


 飛行機は急激に高度を下げ始め、窓の外に見える青い海がぐんぐん迫ってくる。遠くに小さな島影も見えた。


「着陸態勢に入ります! 皆様、座席を元に戻し、頭を下げ、衝撃に備えてください!」


 乗務員の声に従い、リサは必死で頭を座席に伏せた。手は震え、心臓の鼓動が耳の奥で激しく響く。


 飛行機は恐ろしいほどの速さで島に近づいていく。機体が揺れるたび、身体ごと投げ出されそうになる感覚に必死で耐えた。


(大丈夫、大丈夫……)


 心のなかで呟くが、自分自身を落ち着かせるには足りない。


 そして、ついに、機体が砂浜に接地する。凄まじい摩擦音と衝撃が機体を貫き、砂煙が舞い上がる。砂地を滑り、跳ねながら必死に減速を試みた。


 リサは必死で座席にしがみつき、身体を押さえ込む。ブレーキなど存在しない砂浜で、飛行機は右に左に流されながら進んでいく。


 ガタガタと激しく揺れた後、ようやく機体は停止する。


 静寂に包まれる中、誰もが息を潜め、無事を確かめるように辺りを見回す。顔を上げたリサも、他の乗客と目を合わせる。


「助かった……」


 涙声で呟いた誰かの声に、リサも小さく頷く。死んでない。本当に生きているのだと実感する。


「皆様、無事に不時着いたしました。乗務員の指示があるまで、そのままお座りください」


 アナウンスが響く中、リサは胸を撫で下ろす。極度の緊張から開放され、体から一気に力が抜けていく。


 視界がぼやけ、耳鳴りがする。重い瞼のせいで、意識はどんどん深い闇へと沈んでいく。リサはそのまま静かに意識を手放すのだった。



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