ああ、ノーマーシー
まな板の隅にぐにゃりとへばりついている気の抜けた常温の皮のように、すっかりぬるくなり、若干黄色がかって嫌な臭気を発している。物質から、それは蒸気みたいにしみ出してきて、たったそれだけなのだが、とにかく邪魔くさいのだった。そんなものが凝結して滴となった言葉が綴られると、このような一文となる。はっきりとおれは疲れている。身も心も。
おれはこんなこと全然やりたくなかった。これっぽっちもやりたいと思ったことがない。ましてや誇りをもって事に当たるなんてことは、とてもとても。それでも誇りが傷つけられるってほどじゃない。無、だ。無駄。家賃と飯代を捻出する手段。ただそれだけのために、朝早く起きて、電車を乗り継いで、金持ちどもの街へと足を運ぶ。足だけじゃない。すべてを運び、そして捧げるんだ。本当に心の底からくだらないと思う。馬鹿にしているわけでもなければ、ふざけているわけでもなく、単純にくだらないと思う。
喫煙所の横に停まっていた真っ白のメルセデスに、若い女が乗り込んでそのまま走り去った。大通りの向こうには幸福の科学のド派手な施設。そしておれは、ハイライトを唇が熱くなるくらい堪能して、無感動に火を揉み消した。
本当にこの世界はよくわからない。なぜおれがこんなところにいなければいけないのか。おれは特別なことなど望んじゃいないってのに。
冴えないやつに話掛けられた。タイミーで来たのですが。よくわからない。近くにいたやつに言った。タイミーさんが来ましたよ。あっハイ、なんて言ってタイミーさんと奥の方に消えて行った。すぐにタイミーさんじゃないやつは戻ってきた。タイミーってなに? そういう働き方だそうだ。短時間だけ働くとかなんとか。副業としてやったりするそうだ。朝早くタイミーで働いてから、正業の会社に出勤するやつもいるとかなんとか。なんとかかんとか。
狂っている。なぜそんなに働きたいのか。いや、人それぞれ事情というものがある。それでもだ。狂っている。いよいよこんなことになっちまったってことだ。たくさん働く超人だらけ。おれはだらけたままで生きていたい。それこそ人それぞれだ。それぞれがそれぞれで勝手に動きまわっている。あんまり勝手なことをし過ぎると殴られる。暴力こそパワーだ。おれが喝を入れられる日は近い。
今日はタイミーを知った。オリンピックが終わったことも知った。誰かが死んだとか、誰かが困ったことになったとか、そういうことも知った。勝手に耳に入ってくるんだ。どうでもいい。すべてが本当にどうでもいいが、それを口に出してしまうと子ども扱いされちまう。
そんなことより幸福の科学について話をしないかい。エル・カンターレ亡きあとの幸福の科学についての話とか。文庫版「火の鳥・未来編」の後書きで手塚治虫の描いた生命観と幸福の科学の教えとの共通点について熱く語っていた景山民夫の話とかさ。
なにもしないのが一番いいに決まっている。どう考えても結論はそうなる。誰にも迷惑を掛けたりしないし、おれだって充分幸せになれる。仕事をしないと幸せになれない、だと? あまつさえ、それが社会のルールだと? 戯けたことを抜かすな。あまりにも不謹慎な妄想に囚われている。今までおれたちがどれだけ無駄なことをやらされたと思っているんだ。ピラミッドを建てさせられたり、モアイ像を造らされたり、墳墓に人柱として埋められたり、ストーンヘンジ、ナスカの地上絵、その他もろもろ……。
今日は無限に煙草を吸い続けられそうだ。どれだけ吸っても気持ち悪くならない。ああ、そうだ。長生きしたけりゃ煙草は止めときな。そんなに長生きしたけりゃ、なにもしないのが一番いいに決まっている。すべてのリスクを避けて生きろ。延々生き続けて、人類最後の一人になっちまえばいい。こんなことになるのなら、なぜおれたちは生まれてきたのだろう? 知るか。
もちろん知らんが、大方、考えなくてもいいことを考えるためにでも生まれてきたのでは? 正解の出ない問いを問い続けるために。謎とか好きだろう。みんな謎が大好きなんだ。なぞなぞを出されると、思わず解きたくなっちまうだろ。電車の中のモニターのクソくだらないトリビアクイズみたいなの、どうしても正解したくなるんだろ。そういうことをするために生まれてきたんだよ、たぶん。
馬鹿デカい犬。本当にデカい。金持ちって本当にヤバい。こいつ、散歩させてるジジイのことなんて一瞬で八つ裂きにできるだろうに。と言うか、おれだって問題になりゃしない。どうしておまえは大人しくしているんだ? わけがわからない。いや、おれよりは道理をわかっているのかもしれない。一度牙を剥いてしまえば、最終的にはどうなるのかがわかっているのだろう。利口なやつだ。よく見りゃ可愛い顔をしている。とても近寄る気にはなれないが。一瞬で片腕くらいは食いちぎられてしまいそうだ。
おれのケツから伸びているこのヒモ、引っ張ってみ? 頭がパーンってなるぞ。これが本当の人間クラッカーだ。爆ぜるぞ、飛び散るぞ、楽しいぞ。誰も引っ張ってはくれやしない。おれの脳漿がそんなに汚いとでも言うのか。脳みその色はピンクが相場だが、実際は灰色らしい。本当かどうかは知らないが、ポワロがムカつく顔で頭を指差しながら、この灰色の脳細胞は誤魔化せません、とか言っていたのはそういうことだったのか! ハタと膝を打った。その瞬間、おれの頭から旗が立った。おれが本当のハタ坊だ。立つんだジョー。
なんでも書けばいいってものじゃない。そんなことは合点承知の助だ。だが、やることよりもやらないことの方がエネルギーを消費してしまうんだ。そんなのって非効率でしょう。エネルギーを無駄にするなんて、やっぱりそういうの間違っていると思う。効率的に立ち回ることだけが正解じゃない。なにもかもが正解じゃない。おれはやっぱり、ほとんどすべてが間違っていると思う。
人は間違える。それはもうわかった。何度も聞いた。おれが言いたいのは、それにしたって間違い過ぎじゃね? そういうことだ。そんなことを言うなら、対案を出せよ! 否定するだけならラクだよな!
本気でそう思っているとしたら馬鹿以外の何者でもないので、もうなにも喋るんじゃない。対案ならあるよ。ちゃんとあるけど、おまえはおれの言うこと聞いてくれんのかよ。つまりは、おれが言いたいのは、馬鹿はさっさとくたばれってことなんだけど、おれがそう言えばおまえはくたばってくれんのかよ。おまえは先生が死ねって言ったら死ぬのかよ。親でも上司でもなんでもいいけどよ、死ぬのかよ? あ?
死ぬなよ。死にたいなら止めはしないけど、死にたくないなら死ぬなよ。そりゃ間違いなんて誰にでもあるさ。それにしたって間違い過ぎなんだけど、だからって死ぬなよ。
眠くなってきた。この眠気の勢いは本物だ。シャレになってない。目がチリチリと熱く重く小さくなってゆく。視界がぼやけ、表情に締まりがなくなってきた。ダブなんて聴いているせいだ。エコー、リバーブ、跳ね返り、寄せては返す、リズム&リズム。空間の中をとろけるような音が跳ね回る。おれはもう首を振ることすらできない。本当に眠いんだ。それでもここに居続けるのはおれの意地。根性。やっぱり最後に物を言うのは根性だ。今からでも遅くない。まだまだ取り返せるさ。おれは諦めたことなんて一度もないぜ。いつだって、どこかで最後の線が繋がっているんだ。その線を断ち切ったことなど、生まれてこのかた一度もないんだぜ。




