ぎゃあぎゃあ言わな、しゃあないやんけ
狭い喫煙室の中、若い二人のリーマンが超絶くだらない話をしていたので、思わず殴ってやりたくなった。酔いのせいだ。酒は暴力衝動を燃え上がらせる。おれは自分の衝動を軽くなだめながら、それでも勝手に耳に入ってくる(なにしろ喫煙室は狭いのだ)クソみたいな会話に苛つきながら、まあでもおれが話していることだって大概くだらないよな、と考えるのだった。
そうだ。酒の席での会話なんてものは、飲んだ翌日の朝、水洗便所に吸い込まれる緩んだクソみたいなものだ。いや、酔っていなくたって同じようなものだ。人が吐き出す言葉のほぼすべて、無駄で意味など何もない鳴き声のようなもの。それはいま、ここでおれの手によって書かれているこの文章だって同じだ。
誰もが持っている本質的なくだらなさに耐えられず、人は物語を作り、物語に縋りつく。物語が救いになる人間はいい。では、物語が救いになってはくれない、自己の中に物語りが流れていない人間は、一生意味のない言葉を吐き続けるしかないのだろうか。そのくだらなさを充分に理解していながら、それでもこんなふうに言葉を繋げ続けるしかないのだった。
不可能だと知りつつ、この瞬間を捉えようとする。無限の無、永遠の今、桁外れで法外。なるほど、そりゃ神が生まれるわけだ。個人が認識できる範囲はあまりにも狭く小さい。しかし意識の翼を伸ばし、どこまでも羽ばたかせようとすれば、それはもうどこにでも飛んで行けるような気にだってなれる。本気でその気になろうとすれば、簡単にそんな気に浸ることができる。
始めに言葉ありき。おれたちはきっと、言葉でしか世界を形容できないし、言葉しか意識を伝える術を持たない。どんなに小さいものであろうと、てっぺんが見えないほど大きいものであろうと、言葉に変換することさえできてしまえば、ひとつのものとして胸の内に収まってくれる。同じくらいの存在感と安心感を伴ってだ。
それは人類の発明した偉大なイカサマに他ならなかった。言葉と世界が密接に結びついているのは、つまりはおれの意識の中でだけ、あらゆるものは言葉などというインチキとはなにも関係はなく、ただ在るだけ、そしてそれは、おれ自身でさえもそうだったのだ。
不明瞭、不可解、不定形。不可能を可能にしてしまう、言葉という実体のない化け物を飼い慣らして芸をさせようとする不届き者、それがつまりはおれであり、あなたであり、物語なのだった。
ここでスッと滑らかに物語に移行できていれば、この文章を読んでいる人間を据わりのよい気持ちにさせることができたかもしれない。いつまでも続く物語冒頭の謎ポエムめいた文章にはもううんざり。そんな苛立ちを感知できないほど、おれが愚かだとお思いか?
だが、あなたの都合に合わせてことは運びやしないんだ。おれはいつまで経ってもあなたの神経を逆撫でし続けるだろう。言葉ではこういうイタズラだってできてしまうということだ。決して焦らしているわけではない。おれだって物語れる日を夢見ている。物語の開始に立ち会いたいという気持ちを強く持っている。だが、まだその時ではない。それだけの話だ。
どれだけ言葉を積み上げようが、ふとした気分で崩れるジェンガ、踏みとどまるか消え去るのみか、伸るかも反るかもおまえ次第だ。浮いては弾ける浮世の泡が、そのひとつひとつが幻のようだ。棺桶の中で寝かされている死体は誰だ。そりゃもちろんおれだ。粉っぽい蝋人形のような質感で、ご丁寧に綿が詰められている口と鼻の穴。サヨナラを言う暇さえなかったろうな。まあ、大抵のやつはそんなもんだ。
それにしても、おれの喋り方と言ったらどうだ。なんというか、チンピラみたいだ。頭の悪い中学生のようでもあるし、そしてなにより他人のようだ。これがおれだって? なにかの冗談だろう? 少なからずショックを受けた。自分の声や喋りを客観的に聞く機会などはそうそうない。だが、そんな機会はもう当分訪れなくたっていい。そんな気分になった。
しかし不思議なのは、自分のガラの悪い喋り方になぜおれは今まで気づかなかったのだろう。どうして誰も注意してくれなかったのだろう。おれの自己認識との深刻なズレ。おそらくすべてがそうなのだろう。仕草、表情、たたずまい。他人の目から見るおれは、絶対におれではない。それは誰なのだろう。
おまえは誰なんだ! 鏡に向かってそう言い続けると気が狂ってしまうと言うが、言い続けるっていつまで言い続ければいいんだ? おれはちょっとやってみたことがあるけど、気なんて狂わなかったぞ。アホらしいと思っただけだ。まるでコックリさんだ。十円玉はピクリとも動かなかった。だが、実際はその時点でおれは気が狂ってしまっていて、それが他人の目から見たおれなのかもしれない。
そんなことを考えてしまったくらいに、客観的に見たおれは、おれではなかった。あいつ、マジ誰なんだろう?
いつの間にやら夜になっていた。ついさっきまで真っ昼間の炎天下の中でふうふう言っていたというのに。しかし、そんなことはいつものことであって、こんなことは書くほどではないことなのだが、場面転換をしたような効果がもたらされる、そんな期待が込めてあるというわけだ。
でも最初からおれの書くものに場面などというものは無いのであって、転換もクソもない。ちくしょう、またクソと書いてしまった。クソはもう止めよう。おれは自分を客観的に見てそう思ったのにも関わらず、自然にクソと書いてしまうのだった。
結局のところ、どこまで行ってもおれはおれだと言うことなのか。そして、おれはいったい誰の目を意識しているのだろうか。外からの目、内からの目、目が合ったからといっておれは目を逸らしたりはしないはずだ。決していい子になりたいわけではない。良い子、悪い子、普通の子。おれならやっぱり悪い子を選ぶ。きっと必要以上に悪い子を演じようとしてしまうだろう。なぜ演じる必要があるのか。目だ。目が気になってしまうんだ。目、目、目、目。おまえのことを無数の目が見つめているぜ。いつまで耐えることができるかな? いつまでだって耐えてやる。目を逸らさずに、しっかりと見据えてやる。そうは言うが、あらゆる場所にある目に見張られている気分はどうだ。最悪だ。気が狂ってしまいそうだ。
目は恐ろしい。黙ってただ見つめているだけで、それはもう暴力だ。かといって無視されるのだって恐ろしいことだ。そう考えてみると、どれだけ危ういバランスの中でおれが生きているのか、そういうことに気づかされた。
ある日突然、すれ違う人居合わせた人のすべてが、おれのことをじっと見つめてきたとしたら。逆にあらゆる人が、まるでおれのことが見えていないかのような態度をとってきたとしたら。恐ろしい。震え上がってしまう。それでもまだ、強がっていられるかい。目を逸らさずに、しっかりと見据えてやる。なんてことを言い続けられるかい。
そうだ。それでもだ。そう言い続けなければならない。どこまでも不可能だと知りつつ、この瞬間を捉えようとし続けなければならない。もしかしたら、意識せずともそんなことをし続けてきたのが、おれという生き物なのかもしれない。もうなにを書いているのかわからない。正直に言ってしまうとね。
変なところに迷い込んで途方に暮れている。だが、こんなことだっていつものことであって、おれは平常運転、なにも変わりやしない。というのも思い込みであり、なにもかも変わりゆき、そして消失していく。その間とその間の一瞬の瞬き。見逃そうが見据えようがどっちでもいいこと。おれはそんな一点をずっと書き続けていた。




