ジェット噴射はスクランブル
次から次へと過ぎ去ってゆく日々がある。そして、いつまでも続く一日がある。
いまだかつて、終わったことのない一日の中で、子どもたちは目一杯遊び尽くそうと舌なめずりをする。でたらめにステップを踏む。奇声をあげる。その目は時として寒気がするほど、野獣じみていて、罪深くさえある。
もちろん、子どもたちは躊躇しないだろう。やましさを感じるほどに子どもたちは大人ではないのだ。大人たちは心配そうにその光景を見ているが、嫌な予感を振り払うように曖昧に笑い、曖昧に首をかしげながら曖昧に散っていった。
その秘密は子どもたちの中だけで共有されていた。大人たちがその一端を覗いてしまったら、もう二度と立ち直れやしない。あなたたちの子どもが、子どもたちが、こんなにも無邪気で残酷だったなんてね。だけどきっとあなたたちが子どもの頃だってそうだったんだ。お忘れなのかな。それとも墓場まで持っていく秘密? 何気ないひと言、取り返しのつかなかったこと、無数の屍、一切すべては太陽の下で行われたこと。
すべては書くほどのことでもないことから始まっていたのだった。書くほどのないことでこの瞬間は溢れているし、いつだってそうだった。今に至るまでのすべての瞬間でだ。個人としての大事な瞬間、ぜんぜん書くほどのことじゃない。そもそも、そいつは本当に大事な瞬間だったのか。そんな疑問もある。
描写などしてもしょうがない。いまなにが起こっているのか。すべてが同時進行で起こっているが、そのうちのなにを描写し、切り捨てるのか。
きみがひとりで外を歩いているとき、きみの中ではモノローグが進行しているのだろうか。そんな時にふと目に入ってきた風景から連想され、浮き上がってきた記憶がエピソードとして語られているのだろうか。その記憶はすでにエピソードとしての体をなしているのか。きみが分裂し、モノローグがダイアローグに、思惑はふたつに、饒舌な沈黙はただ信号待ちをしているだけのひとりの男だった。
男はただひたすら信号の色が変わるのを待っている。ほんの数歩ぶんの距離を移動するのに、こんなにもじっくりと時間を掛けている。そんなことをしでかすのは、このあたりではこの男しかいなかった。
男にだって言い分はあるに違いない。だが誰も男にそれを聞き出そうとはしなかった。興味がないから? いいや、そうではない。そうとも言えるかも。でもやっぱり違う。おそらくきっと、そんな男は最初から存在しないのではないか。つまりはそれが、ことの真相なのではないか。
だが誰もが口をつぐんだままだ。一貫して無言を決め込んでいる。無言の中でなにが進行しているのか、それとも見たままの無なのか、誰もわかりやしなかった。誰とは誰なのだろう。そして、ここの信号は何故こんなにも変わらないのだろう。ここでいつまで待っていればいいのか。男はいつまでも悩み続けているのだった。
精神的錯乱状態に陥る寸前でようやく一歩目を踏み出した。たった数歩ぶんの距離。それだけの距離を歩き切るまで、どれだけの葛藤があっただろうか。信号機はその瞬間も「止まれ」そう指示していたにも関わらず進んでしまったのだった。信号無視をしていたわけではない。指示を無視したのだ。指示の意味するところを知りながら、「進んではいけない」それはもう、指示と言うよりも助言だった。
そうだ、なにもかも理解していた、それでも選んだのだ、止まらずに進むことを。
なにが起こったって文句を言える状況ではなかった。恐怖と後悔、この状況をもし無事に切り抜けられたとしても、この恐怖と後悔は、この先ずっと付きまとうに違いない。止まっていれば、進まなければ、こんな苦しみを味わわずに済んだのだ。禁忌を冒した存在がその後どういった運命を辿ることになるのか、考えるまでもなかった。おそらくは、恐ろしい不幸に見舞われる。だからこそ「止まれ」と、「進んではいけない」と、指示され助言を受けていた。
信号機の赤は惨劇を連想せざるを得ない。指示も助言も受け容れはしなかった。忠告も勧告もすべてを無視した。止まることをしなかった。止まり続けなかった。「止まれ」強い口調でそう言われたというのに。
なにもかもがもう遅かった。遅かれ早かれ、いまに酷いことが起きる。たった数歩ぶんの距離だ。なぜそんなたった数歩ぶんの距離を止まれなかったのだろうか。魔が差したとしか言いようがないが、魔が差すとはいったいどういう状態なのだろう。いっときの判断の狂いか。好奇心に負けたのか。それこそすべてが魔に支配されてしまったのだろうか。
子どもたちが息を呑んで一部始終を見つめていた。このあとになにが起こるのか、子どもたちにはちゃんとわかっていた。信号機の赤は惨劇の赤だ。そんなことはちゃんとわかっていた。だが、まだ惨劇の正体についてはよくわかっていなかった。きっともの凄いことだっていう予感があった。だからこそ、子どもたちは止めなかった。止まらなければいけないのに止まらなかったらどうなるのか。どうしてもそれを知っておく必要があった。仮にそれが大したことではなければ、子どもたちも止まらなければいけない理由などはなかった。頭の良い子どもたちだ。もう二度と止まりやしないだろう。
そんなことを許すわけにはいかないじゃないか。
図らずも生け贄に捧げられたようなものだ。偶然とも言えるし必然とも言えた。そんなことばかりだ。決して望んでいたわけではない。なにも望んじゃいなかった。誰も望んじゃいなかった。誰というのは誰のことを指しているのだろう。それはともかく、信号機はやはり間違っちゃいなかった。赤はやはり惨劇の色だった。なによりもまず、赤が目につく。色々な色が散乱しているが、どうしても赤色から目を逸らすことはできない。「止まれ」それはもう止まらざるを得ない。
何かを見ると、何を見ているのか確かめずにはいられない。やがて見ているものは何か恐ろしいものだと理解して、そこでようやく目を逸らすことができる。しかし一瞬とは言え、それが何かを確認してしまったのだ。それは一体何だったのだろう。
子どもたちは絶対に喋ろうとはしなかった。子どもたちには子どもたちだけの秘密がある。そのような秘密があることすらおくびにも出さない。だが、確実に秘密は共有されている。大人たちが決して知り得ない場所で。
それでも結局は、そんな男は最初から存在しなかったのではないか。そう考えてしまった方があらゆる面で都合がいいのだった。いかなる時でも都合が優先されるべきだというわけではないのだろうが、やっぱり大抵の場合においては都合が優先されるべきだ。問題は、その都合は誰の都合なのか? そして誰とは誰なのか?
きっと誰でもないのだろう。文章の中の誰は誰でもないのだ。同時に男は男でもないのだ。かといって女というわけでもなく、書くほどのことではない、と言うのが本当のところで、そういう場所からすべては始まるのではないだろうか。
そして始まりがあれば当然のように終わりもある。終わりがなければ始まることすらないのだから。始まりをどの地点とするか、諸説あるのは当然だが、では終わりの地点はどうだろうか。と言うよりも、なぜ始まりと終わりばかりが注目されるのか。まるでそこには大いなる意味が隠されているような口ぶりだ。瞬間、瞬間は切り取られるだけ切り取られて、もはや原型を留めていなかった。こんな非道なことに加担するのはもうまっぴらだ。誰もが内心ではそう思いながら、実際には誰も口にすることはなく、そして今に至る。
決して交通量が多いわけでも人通りが多いわけでもないあの交差点が、ある日突然スクランブル交差点へと変貌してしまったのは、そういった経緯があるのかもしれない。




