地獄に堕ちた白鳥たちの詩
女たち。現実を見据えて、現実を疑いもしなかった女たち。それでも一度はおれに惹かれた。何度も何度も愛し合った。それから二度とおれの顔など見たくもなくなった。そんなことが何度もあった。もしかしたら中にはひとりくらい死んでしまった女もいるかもしれない。母親になっている女だって当然のようにいるに違いない。
女たち。名前も顔も、覚えていたり覚えていなかったり色々だけど、おれが年を食ったのと一緒で、彼女らも年を食ったのだろう。たぶん。
おれはいまだにひとりで遊んでいる。遊び続けている。彼女たちの生は遊びではなかった。そんな気がする。この瞬間にも新しい生命が誕生し、役目を終えた生がある。当たり前のようにだ。まったく救いがない。当たり前のように救いなどはありゃしない。すべてはおれには関係ない、そう言い切ることだって当たり前のようにできるし、事実としておそらくそうなのだろうけれど、それでも心の底から無関係ヅラはできない。
なにかおれにも手伝えることってないのだろうか? おれは酒を毎日飲んだりしないし、手だって震えていない。足腰も丈夫で、目も耳も悪くない。なにかの役に立てそうな気がするのだが、オファーはいまだにどこからもこない。だから、こうしてひとりで遊んでいるしかないのだった。
感傷的な文章を書いてしまったのは、おれの未熟さゆえだ。それとポーグスのせいだ。シェインの歌声は、おれをくちゅっとさせる。酒が飲みたくなる。おかげで文章が進まない進まない。もう進まないったら進まない。進まない進まない、ああ~ぁ、進まない。
おれは座り直した。じっくりと腰を据えて、ことに当たってやろうという覚悟の表れだった。だがその瞬間にまた煙草が吸いたくなるのだった。別にどうしても煙草が吸いたいわけではない。だってさっき吸ったばかりだ。
おれはすぐに気が散ってしまうのだった。気が散ってみたって、別段気を紛らわすものなどはないから、脳が勝手に煙草の記憶に電気を通すのだった。
いつだってこいつがおれの邪魔をするんだ。意識を大事なものから遠ざけようとする。そんなにおれが文章を書くのが気に入らないというのか。怠け者の腐れ脳みそめ。おれこそがおれなんだって脳が主張してきやがる。そんなこと、おれは認めやしない。こんな馬鹿がおれだなんて、そんなもん認めてたまるか。すぐに騙される。なんでも信じ込む。善悪の判断もつかずに快楽だけを追い求める。そんなやつがおれだなんて認められるわけがない。おれにだってプライドがあるんだ。おまえの言いなりにはなってやらんぜ。
でも、煙草は吸おう。勘違いをするなよ。たまたま、おれとおまえの利害が一致しただけだ。調子に乗るなよ。おまえはおれの助手だ。データマンだ。一介のスタッフだ。たまたま、まぐれ当たりを飛ばしたからなんだというんだ。
さて。こういった日常にも当然のように破れ目があって、その破れ目から摩天楼の少年からのサインが届くのだが、今日はなんだか電波の調子がよろしくないようだ。もしくは摩天楼の少年にだって、なにもしたくない日があるということなのかもしれない。詳しい事情はわからないが、とりあえずの事情はなんとなく飲み込んだ。だいたい飲み込みの早いおれなのだった。おれがコツを掴めないものなんて、そうはない。いままでの人生でまったくできなかったのは、コマ回しくらいのものだ。コマを回すのに、糸をこうぐるぐると回すでしょう。それがおれはできないのだった。どうしてもぐるぐるが崩れてしまう。コマを回そうという段階にすら行き着かないのだった。
いまの保育園ではどうだか知らないが、おれの通っていた保育園ではコマ回しを強制させられる時間が存在したのだった。保育園の頃の記憶なんてほぼ残っていないが、コマ回しの記憶は強烈に残っているのだった。土方先生というおれの大嫌いな保育士が、手取り足取りでコマ回しを教えようと、おれににじり寄ってくる。コマ回しをやらされるってだけでもう最悪な気分なのに、おまけに土方先生まで近づいてくるのだから、おれはもうたまらない。おれの大好きな若くてかわいらしい鶴田先生ならば、おれも少しはやる気になったかもしれないが、そうはなってくれないのだった。
もうやめてくれ、なんだってこんなことをしなくちゃならないんだ。こんなもんを回したからなんだってんだ。おれはコマを回したいなんて、これっぽっちも思ったことはない。コマを回せるようになったらどんなに素敵だろうな、そんなことを思うとでも思っているのか? 糸をぐるぐるさせる意図がわからない。だって子どもなんだもん。なにもわからないよ。そんなことより、鶴田先生に抱きつかせろ。おれと付き合え。だが、いま考えてみるに、鶴田先生はおそらく芋娘なのだった。だからどうだというわけではないが。
摩天楼の少年からのサインが届かない以上、きょうはこんなふうに書き進めていくしかない。まあこんな日もきっとあるだろうという予感はあった。そんな日はこんなふうになるだろうな、あらかじめそういった覚悟もしていた。
だが物事はシミュレーションどおりにはいかないものだ。ありとあらゆる自然現象が干渉しあって、主観では偶発的に、客観では諦観的に、物事は荒れ、予想もしない結果が提出されるという運びになっています。ですから驚かないでいただきたい。おれは驚いた。まさか保育園を出してくるとは。もうそこまで遡るほど、おれの引き出しは少ないのか。もちろん多いとは思っちゃいなかったが、これほどとはね。
でも迷いなく書き進めたその筆致は、というか度胸は、なかなかのものがある。土方先生やら鶴田先生やら、よくもまあ覚えているものだよ。大嫌いと大好きだけは覚えているというのがおれらしいね。同時に恐ろしくもある。おまえには0か100かしかないのか、そう説教したくなる。危ないガキだ。あまり関わりたくない。
そんなガキがこんなに素敵な大人になりました。これも皆さんのおかげです。皆さんのご支援がなければ、おそらく途中で腐りきって、反社会的な行動に打って出たと思われます。要所、要所でおれが良い気分になるような褒め方をしてくれた皆さんがいるからこそ、おれはここまで素敵に成長できたのだと考えています。
そしてこんな文章を書いているおれがいるのだった。今日の文章は土方先生と鶴田先生に捧げよう。おれがいまこうしているのは、すべて彼女たちのおかげだ。引っ叩かれたような気もしないではないが、それが事実であれ幻であれ、いまとなってはどうでもいいことだ。きっと当時ですらどうでもいいことだった。おれはきっと問題児でも優良児でもなかった。掃いて捨てても問題にならないような、どうでもいいガキだった。それでも、醜いアヒルの子の劇では、成長したアヒルの子、つまりは白鳥を優雅に演じていたおれなので、それなりの押し出しの強さを見せていたのかもしれない。なにも覚えていない。しかし親御さんたちに大好評だったおれの白鳥は伝説となり、いまも語り継がれているに違いない。おれはもしかしたらバレリーナになるべきだったのかもしれない。それほど優雅で美しかったということだ。実感はなにもなかったが。こんな当たり前のことで、こいつらはなにを大袈裟に騒いでいるんだ、そうシラけていたおれだったのだった。
おれが一般にウケていたのはそこまで。いまじゃこんなだ。本来持っている優雅さを隠して、ハーコー全身小説家などに身をやつしている。ふと思ったのだが、全身ハーコー小説家の方がいいかな。どうだろう。やっぱりハーコー全身小説家の方がしっくりくるだろうか。ぜひとも、そのあたりの意見を一度伺ってみたいものだ。