手を組む代わりに殴り合おうぜ
またもやイタズラ小僧がひょこっと顔を出し、「インチキ、トンチキ、コンコンチキ」それだけ言って、びゃっと逃げていった。
この手の悪ふざけにはもう慣れっこだ。メイク・イット・ファンキー。泥臭く這いずるだけだ。ド派手に。下品に。金のチェーンを見せびらかすように。どうだい、イケてるだろう? 卑猥な腰つきで胸騒ぎを起こしちゃう。小刻みにステップを踏んで、大きく開脚すると、ズボンのボタンがはち切れてどこかに飛んでいった。笑うなら笑いなよ。おれはいいんだ、ボタンのひとつやふたつ、別にどうなったってさ。
やかましい夜が過ぎて、窓を開ければ、おう、おうおう、ヒートウェーヴが戻ってきやがった。上等だぜ。速攻で冷房をつけてやる。冷蔵庫から取り出した1パックの納豆で空きっ腹をなだめる。わかっているさ。これじゃまったく足りないよな。だけど時間だって全然足りやしないんだ。貪り食っている暇はおれにはない。今日は忙しくなるぜ。そんな予感がするんだ。たまった洗濯物だって始末せにゃならん。そのほか色々、片付けにゃならん。ひとつひとつ、確実に仕留めていくだけだ。端から端までカンペキにこなしていくだけだ。
その中には当然のように、こいつも入っているわけだ。つまりは今日もおれは書く。それも急ぎでね。いつものようにのんびりしていられないんだ。締め切りがあるわけではないが、早ければ早いほどノット・バッドってやつ。
その場その時々のその出来事が、ウインクで通り抜け過去に変わってゆく一連の流れが、あっという間に塗り変わってゆく色彩の光景が、いつしか胸に巣食っていた少年の虚無感が、一向にタイピングを止めてくれないこの指が、描き出すのを躊躇しない限りは続いてゆくってわけだ。自らの秘密や汚辱をベースにして興味を惹きつつ、世界と手を組む方法や世界を殴りつける方法を、一緒に探っていこう。
20世紀の科学の進歩はまさに目を見張るものがあった。そのぶん、はみ出し堕落していった者たちの数も決して少なくなかったのだが、カタログに残るのはいつだって栄光の輝かしい部分だけだ。セクサロイド・バーバラ、ムーピーゲーム、クティステック・マシンのエピクティステス。などなど。ほら話の陰に打ち捨てられた、裏面史の主役たちと言うべき、がらくたどもにスポットライトを当てるのは今をおいて他にない。
目にうつるすべてのものが想像を絶する多彩な存在様式を備えているにも関わらず、その比類無き多様性の融合により、誰ひとりとして疑問を持つ必要のない調和が達成されている。これが現時点での完成だと、それとも永遠の未完成だと、そういうことなのだろうか。どちらにせよ、すべてが変化の途上にあるのだった。ひとつところに留まることなく、流転し、漂い続けた挙げ句の果てに、活動を止め、それからもう二度と自発的には動こうとせず、動こうとする意思も見せず、嫌な臭いを発して別の物へと姿を変えてゆくのだった。
これだけを取り上げても嘆き悲しむには十分過ぎるほどだ。だと言うのに、魂が眠っていて、下卑て思いやりのない、まるで自分以外のすべてを憎んで恨んでいるかのような、そんな連中があたりをうろついているときている。
そんな風なことに気づいたのは、学校の校庭だった。教室の中だったかもしれない。どちらかだ。おれは人懐っこい方で、会話の相手に困ることはなかったが、なぜかどうにも奥手だった。おれひとりだけガキのまんま、周りの獰猛なやつらに置いて行かれている気がしてならなかった。
そして今ようやく、おれは感動することを覚えて、助けを求めることだって躊躇わなくなった。他人の肩に頭を預けて眠ることもあるし、時にはその逆の場合だってある。おれが信頼を置いた作家の書く文章にすべてを委ねることだって、長年探し続けていた書物にやっと出会えることだって、今のおれにはよくあることだ。
思うに、おれは他の連中と比べて、成長や変化が特別遅れているに違いない。自分が大人と呼べるやつらの一員だと自覚できたのだって、ごく最近のことだ。つまり、おれは42歳にして始めて成人を迎えたというわけで、遅れてきたルーキー、遅すぎた社会人デビューを目前に控えて入れ込んでいる、テキサスの荒馬の如しである。ということが言えると思う。
ほぼ眠っていた。ほぼ眠りながらでも文章を書けるようになっていた。おれはもう少しで完成するのかもしれない。おれの理想はなにも考えずとも質感の伴った文章が書かれてゆくことに他ならないのだった。だってもう、考えて文章を書くって古いよ。AIの存在は言わずもがなだし、おれの持つ文章ヴァリエーションなんてそう多くないのだから、考えようがなにしようがどうしてもワンパターンに陥ってしまうってわけ。
まあパターンの反復による、ハウスミュージックのようなグルーヴを生み出すっていう、おれの隠された意図だってあったりしたんだけど、おそらく誰もそんなことには気づいてくれないって言うか気づけというのが無理な話なので、自分から言い出してしまった。
これもすべて、眠気ゆえ、だ。ポピーのおしゃべり、阿片のおしゃべり、ポピーコック。つまりは、たわごとを日々積み重ね、ここまで歩んできたはいいものの、後ろを振り返ればすぐそこにスタート地点。いつの間にか戻ってきたのか、それとも進んでいなかったのか、同じ場所をぐるぐると廻っていたのか。
汝自身を知れ。そんな神託を受けた気がしたのだ。だがおれの目は内側についてはいない。おれの目は外側についているんだ。自分の顔を知るには鏡か写真か映像を利用するしかあるまい。つまり本当の意味でその空間にある自分の全体像を捉えることなどは不可能。鏡を信じるかい。信じられるのかい。おれは、自分の歪んだ像、滑稽な像をこの目で見るまでは、到底信じられやしないよ。
疑念は疑念を呼び、すべてが仕組まれた罠に見える。付き添い人のいないベビーカーの中で眠っているのは、本当に赤ん坊なのだろうか。それはブービートラップかもしれないじゃないか。被されたシーツを上げた瞬間、ドカン! そういうことだって絶対に無いとは言えない。だが、本当に赤ん坊だったら? こんな熱気の中で、放置されている赤ん坊だと考えてみたまえ。
しかし大抵の場合は、空っぽだったりするのだった。シーツを上げても、そこにはなにもない。ただのベビーカー。では、なぜこんな場所にベビーカーが? しまった、嵌められた! 鳴り響くサイレン、跳ね上がる体温、心拍音がドコンドコンと胎内で暴れ回る胎児のように。もつれる足で走り出す。
どんな悪党だって赤ん坊には優しくあって欲しいもんだ。でも実際にはそうはいかないよね。残虐非道なやつは対象がなんであれ平等に扱うのだった。良くも悪くも。いや、良いところなどはない。悪い意味で平等に慈悲の心など持ちやしないのだ。
そんなことより、逃げなければ。おれは捕まりたくはない。捕まって人生が好転したやつなどはいない。洗脳されちまって、その後の一生を贖罪気分でみじめに生き続けるやつはいるだろうが、そんなもん、おれに言わせりゃ腑抜けに成り下がった木偶人形みたいなもんだぜ。
逃げおおせることだ。何よりも大事なこと。
いつか、どこか遠くで、新しい家をこの手で建てて、汗をかいて稼いだ金で、きみに新しい洋服でも買ってあげて、きみを抱きしめるのさ、薄汚れた手で。そして、二度と離さない、殴らない。だからおれは捕まらない。捕まるわけにはいかないんだよな。




