奇妙で穏やかな味の舌なめずり
微熱なお祭り気分を塔の上から見ていたよ。その中にきみを探していた。どんなに目を凝らしてみたって見つからなかったんだ。ここからじゃ誰が誰なのかなかなか見分けがつかなかった。8時ちょうどに歓声と悲鳴が同時に上がって、誰かが信号機の支柱を身体一杯使ってぐらぐら揺らしていた。パニック寸前。あちこちで花火まで。きみがもし、あの中にいたのならと思うと心配だ。怪我とか火傷とかしていないかなって。
集団と集団が揉み合って混ざって、アメーバとアメーバの戦いみたいだった。だけどいつの間にかひとつになって、そのあと分裂を繰り返して、最後には消えちゃった。
熱帯の夜だった。ブロックとコンクリートの編目の中で無数の空調室外機がブンブン唸っていた。ダレたホイップクリームみたいに300万匹の猫がフローリング床の上で伸びていた。誰もが寝苦しそうに眉間に皺を寄せているのだった。重苦しいお祭り気分が夜を覆っているのだった。湿った布が風に舞うような音が聞こえた。
朝刊の見出しは「群生した聴衆、怒号のモンキーダンス」だった。小見出しは「巨都所の糞便、壊れたチリトリ」だ。
駅のプラットフォームにはいつものように人で溢れていた。だが、そこには普段の無意識的にパターン化された秩序の流れを見出すことはできなかった。群衆の動きからはなにひとつ導き出せるものがなかった。広大な空間の中でカラッポの魂がひしめいていた。それぞれがそれぞれの絶望を抱えながら、てんでばらばらに動き出そうとしているのだった。
おれも既に会社に行くことを諦め始めていた。行き先表示板にはいくつもの矢印と数字の羅列が規則的に明滅していた。列車が運行しているのかも怪しいものだった。時折、調子外れの警告音がスピーカーから鳴り出してはいたが、それが何に対する警告なのかもわからないという有様だった。
いくつかの階段を下りたり上ったりして、途中途中で下りているはずのないシャッターに邪魔されながらも、なんとか出口を見つけて駅を抜け出した。
駅前は混雑しているというわけでもなかったが、まったくの無人というわけでもなかった。三人組とか四人組の小集団が点在していて、もちろん、おれのようにひとりきりのやつも少しだけどいた。
誰もが疲れ切っているような顔をしていた。うなだれて座り込んでいるやつもいた。真っ暗な電光掲示板をひたすら見つめているやつもいた。おれは小集団の会話に耳を澄ませようと近づいてみたが、ぼそぼそとなにかを喋っているらしき音は聞こえても、言葉の断片すら拾えやしなかった。
店は開いていたが、店員は見当たらなかった。レジの奥の方へ何度か声を掛けてみたが、誰も現れやしなかった。おれは手にしていたミネラルウォーターをそのまま頂くことにした。ついでにクッキーバーもいくつか。
空腹というわけではなかったが、なんとなくの習慣でクッキーバーをミネラルウォーターで流し込んだ。空は曇ってはいたが、凄まじい暑さだった。まだ幼さの色濃い警察官がひとり、浮かない顔をして立ち尽くしていたのが目に入った。
なにがあったの? おれはそう聞いてみた。警察官はおれの顔を見ようともしなかった。ただ首を捻って、なにかがあったみたいなんですけど……よくわからなくて……ぼくも困ってしまっていて……絞り出すようにそう言うのだった。
なんとも締まらない話しぶりだが、もっともな話だとおれは思った。確信を持てないまま、いつも通りに家を出て、いつも通りにいかないものだから困惑しているのだ。なにひとつ確信を得られないまま、なんとか普段をトレースしてみようとしている。
気持ちはわかるけど、おれは警察官の肩を軽く叩いて言った。こんな時こそビッとしなくちゃ駄目だぜ。我ながら無責任で実感のない言葉だと思った。なにひとつ心がこもっていなかった。
ええ……それは……でも……。まごつく警察官の肩をもう一度、ポンと叩いて、その場を去った。なんとなくいたたまれない気持ちだった。
出鱈目に歩いて、すっかり疲れてしまった。どんなに小さい路地に入っても、誰かしらがいた。それがひとりだろうと何人かの固まりだろうと、誰もが一様に孤独な雰囲気を湛えていて、佇んでいたり、おれのように無目的に歩いていたりするのだった。
おれは団地の隙間にある公園のベンチに腰を下ろした。例に漏れず、まばらな人影はあったが、しんと静まり返っていた。いや、ほんの少しだけセミの鳴く音が響いていた。なにかが崩れていたのは確かだった。なんらかのシステムがダウンしてしまったのだった。それが深刻なことなのか、それとも一過性のことなのか、それすらも解らないまま、おれは次から次へと流れてくる汗もそのままに、なにをするでもなくベンチに座っていた。
どれくらいそうしていただろうか。大体の太陽の位置からすると、まだ午前中に思えた。それでも一気に何年も経ってしまったような気がするのだった。
誰かの足音が近づいてきた。足音の主はおれの座っているベンチの隣にあるベンチに座ったのだった。そいつが誰なのかすら興味が湧かなかった。いや……そんなことは当たり前で……別に普段からそうじゃないか? いちいち近くに来たやつに興味を持ったりはしないだろう? そんなふうに思ったが、確信は持てなかった。チラッと顔を覗き見るくらいのことはしていたような気がするし、どんな服を着てどんな靴を履いているやつなのか、なんてことを自然と一瞬のうちに見定めていたような気もしたが、それも確信が持てなかった。なにが正常で、通常の中にあった異常とはどのようなものだったのか、まったく確信が持てなくなっていた。
なにか知っているかい? 隣のベンチのやつが、確信はないがおそらくおれに向けて、そう言った。声の向きからして、おれと同じようにうなだれて、おれの方を向いていないようだった。
いや、なにも……。おれはそう言った。一応、隣のベンチのやつに向けて言ったつもりだったが、その声がそいつに届いたのかどうかもわからなかった。隣に座っていたやつとの会話……と言えるのかどうかはわからないが、とにかく声を出し合ったのはそれだけだった。結局、そいつがどんなやつなのかすらわからなかった。
夕刊の見出しは「割れたガラスを本命視、窓口を見当へ」とあった。小見出しは「金属製の計画感の実質居住止まらず」だ。記事の内容もそんな感じだったが、これがその日の夕刊という確信はなかった。ただ道端に打ち捨ててあったものを拾って、しばらく眺めてみて、またそこに捨て置いたからだ。日付も確認せずにだ。
そのあとも毎日欠かさずに新聞だけは発行し続けられたのだった。そして必ずどこかにある少量の食料と水。いったい誰がそれらを用意しているのかは誰も知らないと思う。確認していないからわからないが、たぶんそうだ。
今じゃ自分がどこにいるのか、なにをしているのかもわからない。誰かの生活の跡の残る家で朝刊にざっと目を通し、誰かの服に着替えて、家を出る。夕方になったらまた違う誰かの生活の跡の残る家に帰り、夕刊にざっと目を通し、誰かの寝床で眠る。そんな日々だ。まるで出鱈目な毎日だが、元々こんな感じで過ごしていたような気もしてくる。もちろん確信はない。当然だろう。そもそも確信なんて、おれはいままで一度もしたことがないと思う。いったいなにを確約されていると思っていたんだ? どんな理屈を通せばそんな風になるんだ?
今日の朝刊の見出しは「巡査部長、玄関ホールのコウモリを要請」だった。




