豊かに実った収穫のとき
朝から元気のあるこって。冴えない野郎が意地悪く荒ぶっていた。ちまちましたことで絡みついていた。寂しいなら寂しいと言えばいい。苦しいなら苦しいと。然るべき相手に打ち明ければいい。八つ当たりをするな。他人をストレス解消の玩具として利用するな。
うるせえな、さっさとしろよ。冴えない野郎はおれをちらっと睨んで、聞きとれない言葉を口の中でもにょもにょとこねながら去っていった。おれを上から下まで繰り返し睨みつけながら。
まったく嫌になってしまう。外に出るとこういうことばかりが起きる。こういう光景ばかりが目につく。苛々するし、傷つく。とても嫌な気分になる。最後には悲しくなってくる。冴えない野郎のあまりの冴えなさに心が痛む。やつはやつで、きっとなにかに追い詰められている。おそらく仕事ってやつに。とことんまでやられちまっているのかもしれない。なにかないのだろうか。なにかいい方法が。
どこかにあるにはあるのだろう。だが、そいつは巧妙に隠されているのだった。救いが、単純な救いを求めることが、まるで罪であるかのような気になってしまうのだった。仕事に迷惑を掛けるくらいだったら、自分の心をレイプする方を選ぶ。レイプされた心は、行き場もなく彷徨い、水分のないカサカサに干からびた、見るに忍びないあまりにも哀しいしろものになってしまう。
それもこれも人間があまりにも弱いせいだ。弱いくせに暴力的なせいだ。どいつもこいつも弱い。おれもあんたも弱い。あまりにも貧弱、どうしてこんなに弱いのだろうか。弱い。弱すぎる。
しかし、自分の弱さを認めないと話にもならない。情けなく、惨めで、卑しい存在であると理解していないやつは、怪物になるしか道がない。時代が怪物を召喚し続ける。怪物を要請し続ける。
まったく嫌になってくる。本当に嫌になってしまう。これが神を殺した報いか。いまや信仰もビジネスだ。教育もビジネス。なにもかもがビジネスになってしまい、濡れ手に粟の夢をみている。それが上等の夢なのだと。
トークンをしこたま貯め込んでいる連中はいったい何がしたいのか。膨れ上がり、個人には実体化すら困難なトークンをさらに増やしてどうしようと言うのか。馬鹿みたいにデカい家。何台もの車。値の張る芸術品に装飾物。おれには、ああいった連中のしたことと報酬が釣り合っているとは、とても思えない。どうしても思えない。なにも人より何十倍も食う巨人ってわけじゃないだろう。もういいだろう、じゅうぶん過ぎるだろう、としか思えない。
別に金持ち連中が憎いってわけではない。所詮はやつらも騙されているだけだ。人間全体がなんらかの詐欺に引っ掛かっている。嘘に嘘を重ねている。芸術、道楽、娯楽、文学、なにもかもが嘘っぱちだ。道端に落ちている犬のクソの方がよっぽど正直だ。どうにもなりゃしない。どこへも行けやしない。踏み潰されるか、雨で溶けるか、乾燥してカサカサになるか。むしろ全部か。卵を産み付けられて、ウジ虫の餌になる。風化して塵になる。土になる。灰になる。
「なあ、その話いつまで続くんだい?」
もう店じまいか? まだそんな時間じゃないだろう。いいから黙って聞けって。ここからがおもしろいんだから。
「いや、結構。そんなことよりグラスが空ですが」
そうだ。ここからがおもしろいはずだったんだ。だが、バーテンのやつに茶々を入れられたせいで、どこがどうおもしろいのかを忘れてしまった。話がどう転がっていくのかはもちろんわかっている。なにひとつ欠けちゃいない。でも肝心要のおもしろさってやつが抜けてしまったのだった。犬のクソから牛のクソ、そこから馬のクソ、あらゆるクソを巡るウジ虫くんの大冒険だ。最後はクソ野郎の脳みそを食い破って、ついには蠅の王として地獄に君臨するって話。ダメだ。語り部の退屈が物語を殺す。物語の持つ神秘性を維持するのは並大抵にはいかない。ほんの少し綾をつけられただけで台無しになってしまう。シラけた魂で作る物語なんて見られたものじゃない。物語るにはムーサの加護が必要不可欠だってこと、どうして誰もわかっていないのだろうか?
そしてまたひとつ、物語が死んだのだった。物語はすぐ死ぬからやってられない。力強く物語ることができたのは遥か遠い昔の話。いまの物語はあまりにも虚弱で、ちまちましている。すぐ死んでしまうのだった。
とてもじゃないが、もう本当にやってられない。まるっきり正気の沙汰とは思えない。小説家になどならなければよかった。あさましい連中はたくさんいるが、小説家ほどあさましいやつらもそうそういないだろう。人の感情の上前を食って生きる化け物ども。狂わせ屋とでも名前を変えればいいんだ。漁り屋でもいい。かきまわし屋、ぶち壊し屋、逆撫で屋、わけわからん屋、なんだっていい、とにかくもうひどい連中なんだ。
おれだっていつまでもこんなことはしていられない。だからといってなにか焦りがあるわけでもない。これといったものを持ってない。あるのは言葉にできないものばかり。それでもまあ、ぼちぼちやっているのだった。書くことによって、なんとかやれていけるのだった。
つまりは、たまに出るクリティカル。おれから出てきた言葉だとは信じられない時がある。その場の興奮が伝わっているのか伝わっていないのか、気にならないと言えば嘘になる。しかし結局はそんなことはどうでもいいこととなる。新たな刺激を求めて、瞬間のきらめきを探して、息を止めて潜るだけだ。
二度と浮かび上がってこれなくたっていい。底の底まで沈んでゆく。光の届かないその場所まで。光のない世界はなぜ黒いのだろうか。もともとはすべてが黒だということか。おれたちは光を見ているということなのか。では夢は? 夢の中にも光は差しているということなのか。ほとんどすべての夢はなぜ忘れ去られてしまうのか。人はなぜ夢に惹かれてしまうのか。
そして考えれば考えるほど、夢と現実の差はなにもないという結論にならざるを得ないのだった。どっちがどっちという話でもなく、世界をどう解釈するかというだけのことなのだった。小説だってそうだ。おれが小説について考えれば考えるほど夢に近づいてゆく。夢と現実をブリッヂする役割をおれの小説は担っているのかもしれない。それは決して幻想ではない。幻想的ではあるが、現実そのものだ。飛躍も停滞もあるが、現実にだってそんなものいくらでもある。阿部千代というシャーマンが摩天楼の少年から受け取ったものを言葉に翻訳しているに過ぎない。おれは書いているのではなく、書かされているというわけだ。
ただ、おれの個人的な恨みも中には含まれている。差してくる光をおれの精神が出鱈目に反射しているので、時には憎悪の色が濃く映って見えるかもしれないが、あなたに見えているのは剥き出しの憎悪ではない。それは反射した光だということだ。器用なやつはこの光を調理して、物語に仕立て上げるのかもしれないが、生憎おれにはそういった器用さを持ち合わせていないので、刺身で出すしかないのだった。包丁くらいは使えるのでね。魚を捌いてお造りにするくらいはできるのでね。でも刺身ってめちゃくちゃ美味いだろう。ノーサシミ・ノーライフってゴリパラでも言ってただろう。でも九州の醤油って甘いんだよね。初めて食べたときびっくりした。日本は狭いようで広い。そしておれはどこにゆくのだろうか。