ゴミ溜めの夜のマンボ
穏やかに落ち着いた世界の片隅とも言えるこの地域では、時刻はいつも午後の五時、それも初夏の午後の五時だ。苛烈な尋問や審問とは無縁であり、苛酷な強制労働による心身の不調を心配する必要もなかった。
心の安らぎと心地よい眠気に誘われながら、親指大ほどの愛らしい小動物たちが視界の片隅でちょろちょろと動きまわっていた。物音と言えば吹き抜ける風が常緑樹の葉を揺らすざわめき、そしておれの足音、確信に満ちた力強い足音だけだった。
国民小学校時代を思い出してほしい。休憩時間となれば我先にと校庭へと駆け出し、キックボールやぶつかり遊びに興じていた。あの子たちはどこに行ったのだろう。おれはどこにも行かなかった。ただ流され、どこかに辿り着いてしまっただけだ。おまけにヘマをしてしまって、逮捕拘留の憂き目に遭った。もちろん、頑として口は割らなかった。ポリ連中にどれだけ脅されようとも揺さぶられようとも仄めかされようとも。
おれの帰りを待つ者は誰ひとりとしていなかった。むしろ檻の中でなにも言わずにくたばってくれと願っていたことだろう。心配などいらない。おれの口は、きゅっと結んで一文字。侮辱にも恥辱にも、ただ黙って耐え続けた。そこまでする義理があるのかと問われれば、無いと答えよう。だがおれには意地があった。多少の計算もあった。即ち、おれは殺されることだけはまっぴらごめんというわけだ。ポリにも昔の仲間にも殺されてたまるか。そのための最善の策を選んだ。そして見事、策は成った。おれの力強い足音は、悦びと平穏に溢れていた。なにより誇らしかった。誰彼構わず言い触らしてやりたかった。壁の中でおれがどれだけ耐えたのか、どれほどの不屈の精神で壁の外へと舞い戻ったのか。もちろんそんなことはしやしないが。計算上、そんなことはしない方が良いに決まっている。
行く当てなどなにもなかったが、いまはそれくらいが丁度良いと思えた。どこまででも歩いていけるような気がしていた。その気になればどこまででも歩いていける。これほどに素晴らしいことが他にあるだろうか。
少し休憩をしようと思い、とある牧場を囲む柵に腰を掛けた。西陽で樹木や牛やごろた石の影が斜めに伸びていた。まるで絵画だ。わざとらしいほどの陰影、ひたすら複雑な色を湛える沼地、野辺を彩る若緑の新鮮さ、空気を吸い込めば痺れるような快感が身体の底の方から湧いてきた。
しかし、いつまでもこうしているわけにもいかなかった。不思議の国の夢体験は、空腹という野暮な感覚に一掃され、途端に牛舎の臭いと薄汚れてみすぼらしいおれの格好に気づいてしまうと、先ほどまでの確信の足取りはどこへやら、おれの足は重くなり、太陽は沈みゆくに従って、おれの気持ちは焦り出しどこまでも憂鬱になるような気がした。
腹は減る。寝床すらない。頼れる相手もいない。そして街は遠い。
こんな僻地でおれをひとり放り出しやがった連中への憎しみでどうにかなってしまいそうだった。とりあえずこんなところにいたってしょうがない。街へ行かなければ話にならない。とは言え、おれの足のみに頼っていれば夜が明けてしまいそうだ。それってなんか馬鹿らしいだろう。
というわけで、その辺の農家からやけにサドルの高い自転車を拝借したのだった。
比較的大きな道に出て真っ直ぐ進んだ。このまま行けば街に出ることができるに違いないという新たな確信がおれの腿に力を与えるのだった。
すっかりと日も暮れ、名残りだけが遠くの方で淡く照っていた。おれはいつまでこうしていればいいのだろう? そう思った。つまり、おれが小説を書こうとすると、こういう文章が延々と続くことになり、誰よりもこのおれが不安で仕方なくなるのだった。盗んだ自転車を漕ぎ続ける男。だからなんなんだ。
この不安を無視して、ひたすら書き進めることが小説を書くということなのだろうか。もし、そうなのだとしたら、この時点でもう失格だ。
と、突如顔を出す作者の自我と自己言及だって特に目新しいものでもないのだった。
そんなわけで、いつもの感じに戻ろうと思う。なにも考えずに書き進めるものだから、おれ自身が文章の中に閉じ込められてしまうんだ。闇雲に進む勇気がないのなら、あらかじめどんな文章を書くのか決めておけばいいものを、それをする気力がないと言うのだからおれも困ってしまう。勇気も気力もないって、そんなのもうやめちまえよ。
すぐそう言うじゃない。でもね。やめられるものなら、とっくにやめているさ。それでも書き続けるから、おもしろいんじゃないか。もう上手くやってやろうとか、出し抜いてやろうとか、そういうのは抜きに、諦めをベースにして小説と称して、おれの文章を読んでもらおうっていう魂胆だ。
なんでもいいんだ。読んでくれさえすりゃ。きっとおれは寂しいんだよ。そうに違いないよ。相手してもらいたいんだ。ちょっと違う気がするけど、それでもいいよ、もう。
そしてまだ自転車を漕いでいるのだった。なぜ自転車は漕ぐなのだろうか。漕ぐと言うとボートやカヌーをオールで水をかいて進めるイメージだが、ペダルはオールか? しかし手でペダルを扱うと回すだ。足では漕ぐのか。だがオールは手で操作するのだった。他になにか漕ぐものはありませんか。なにも思いつかない。歯車を英語でコグというのに何か関係があるのか。でも歯車はギアではなかったか。よくわからない。考えたってわからないことを考えることほど不毛なことはない。検索バーが普及している現代なら尚のことだ。
それでもだ。ああそうだ。あなたはおれのことがよくわかっている。おれは調べない。その通りだ。
おれのよくわからないこだわりだ。即興フリースタイルにこだわるラッパーみたいなものだと思ってくれ。
すっかり夜も更け、時刻はよくわからない。たぶん十時くらいだと思う。ここまでポリと三度すれ違ったが、なにも起こらなかった。緊張はした。だってこんな時間にこの通りを、汗びっしょりで爺婆が乗っているようなボロ自転車をひた走らせているやつなどはいない。目をつけられたら一発だ。いや、やつらおそらく目はつけただろうが、引っ返してくるのが面倒だったに違いない。そんなもんだ。
だがそろそろ危ない。乗り捨てる頃合いだ。ケツの痛さも半端じゃない。ということで、即席の相棒とはここでサヨナラだ。よく働いてくれた。おれは敬意を表して、その場を立ち去った。
街は近い。そんな予感があった。飲食店や商店がちらほらと現れては消えていった。街が近いのは良いが、じゃあ街に着いたとして、それからどうするのかと言うと、そんなことは誰にもわからない。それでもなにかしらのチャンスは転がっているだろう。そうでも考えないとやってられない。
おれの親父が言っていた。
「欲と不安を上手に飼い慣らせ。そうでないとチャンスを見抜く目まで曇っちまうぜ」
少々気取りすぎな気もするが、まあ悪くないアドバイスだと思う。でも親父は生涯ずっと貧乏なままだった。おれはまるで親父の生き写しだ。全然嬉しくはないが、メチャクチャ悲しいってほどでもない。どうせそんなもんだろうってずっと思っていたし、実際こうなっているのだから文句のつけようもない。
でも親父よりは頭が切れる気がする。あの親父と比べてどうするという話ではあるが。それよりも今晩のメシだ。それに寝床。できれば当面の間は落ち着けるところがいい。バーで女を引っかけるのが一番手っ取り早いが、きょうびこんな時間にバーでひとりで飲んでいる女なんているのかどうかは甚だ疑問ではある。
でも小説なら大抵上手くゆく。だから大丈夫だ。おれに任せろ。どんなに拗れた事情があろうとおれがバッチリ解決してやる。絶対に大丈夫。任せなさい。




