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ボーグ星人はハミガキ粉

 あなたのサムズアップでほっとする部分が確かにある。誰だか知らないが本当にありがとう。

 おれはいま、どうしようもなく惨めでみっともないやり方で破滅の道を辿っている最中だ。

 生きる、という我慢ならない不快、その揺るぎない事実、それを認めてなお、精神的な錯乱に陥ることなく生き続ける。それが理性と言うのなら、それは理性なのかもしれない。それが知性と言うのなら、それもそうなのだろう。だがそれは狂気とも言える。なんでもいい。言ったもの勝ちだ。おれだって自分がなにを書いているのかよくわかっていない。だがおれの無意識がこう叫んでいる、抗え、抵抗しろ、拒否しろ、否定しろ!

 おれがなにかを徹底的に気に入っていないのは間違いのないところだ。それを言葉で表現しようとすると、直接的に、名指しで、青筋を立ててムキになっているおれを演出しなければならなくなってしまう。そして、それは多くの場合において、まったく上手くいっていない。それをわかっていても、おれはそういうことを繰り返してしまうし、このムカつきをメタファーで覆い隠すのが賢く冴えたやり方であり、それこそが小説だ、というひとつの意見には読者としてはある程度の賛同はするが、作者としてはまったく賛同しかねるのだった。

 登場人物を複数出せ。そいつらに台詞を与えろ。なにか事を起こせ。それから物語を畳め。できるだけ精微に、でも考える余地を残すため曖昧に、描写をしろ。意味深げなエピソードを突っ込め。意味だ。筋だ。作者の頭の中でそれが通っていればいい。あとはどう書くか。そいつが腕の見せどころ。

 まあわかる。わかるのだがわからない。それはおれの仕事ではない気がする。気がするどころの話じゃない。確実におれのする仕事ではない。できないとは言っていない。とも言わない。できる気はしない。挑戦してみようとも思わない。そもそもおれの中に物語が流れていないのだからしょうがない。どうしてもやれと言われたのなら、もうパクるしかない。パクリまくりのコラージュ小説。それだって立派な作品だ。ある程度の知識とセンスがなければコラージュもできない。ミックスもできない。クラブDJみたいな小説家がいたっていいと思う。全然いいと思う。


 光が丘公園の森の中、出くわした少年たちにカブトムシを手渡した。目を輝かせる少年たちに、殺すなよ、と告げてその場を去った。いま思えば、離してやれよ、とも付け加えておけばよかった。そんなことでモヤモヤする。罪を犯してしまった、そんな気になる。いや、気分の問題ではないのだった。おれがいい格好をするためだけに、カブトムシを生け贄に捧げてしまった。それは罪だ。

 おれ個人の中だけの理屈を言わせてもらえば、罪の意識が芽生えない行為はたとえ違法行為であろうと罪にはならない。たとえ裁かれ、罰を受けたとしてもだ。おれが大王製紙の元会長のカジノ野郎を半殺しの目に遭わせたとして、それで逮捕拘留されたとしたって、それでもおれに罪の意識などは芽生えやしないだろう。……いや、やっぱりわからない。相手が誰であれ過剰な暴力を振るったことに対しては罪の意識に苛まれるかもしれない。微妙なところだ。実際にやってみないとわからない。そう考えると確信犯を実行するのはなかなか難しい。自分の行為を確信するなんてことがおれにできるだろうか?

 悪人相手に行使する暴力は、正義か悪か。悩むね。両面併せ持つなんていう答えは誤魔化しに過ぎないだろうか。現時点ではそうとしか言いようがないが、悪ってずるいよな。悪はなにも考えず思うままに暴力を行使できるけど、正義はいちいち悩まなければならない。つまりはこの行為は本当に正義なのかと、考えなければならないわけだ。悩んでいる間に、悪はどんどん増長していってシンパを増やしていって、なんかもうぐっちゃぐちゃ。笑い話にもならない。悪はずるいよ。どう考えても悪側が有利な仕組みになっている。悪側を選べばイージーモードだ。そりゃ世の中こうなるよ。こうなってしまうよ。

 一事が万事すべてがそうなんだ。教室の中でも、会社の中でも、社会の中でも、弱者の味方をするのには覚悟が入り用になってしまう。馬鹿にされる覚悟、冷ややかな目で見られる覚悟、嗤われる覚悟、虐められる覚悟、精神的暴力の標的になる覚悟。でもまあ、覚悟を決めれば大抵のことは大したことないのだけど。余裕だと言ってもいい。だが余裕のない人間があまりにも多すぎるのだった。


 とは言え、おれは別に正義に生きる人間というわけではもちろんない。ただ、悪と正義どっちにつくかと問われれば迷いなく即答するだろう。強者と弱者が争っている場合も同じだ。迷う余地はない。両者ともにあまりにも軽んじられていると思う。おかしな話だ。みなが大好きな少年マンガの世界では、正義のヒーローが大活躍だというのに、その精神からはなにも学ぼうとはしないのだから。フィクションと現実をごっちゃにするなって? ではなんのためにフィクションはあるのだろう。リアリティを付与しようと四苦八苦する意味は? 現実に影響を及ぼさないフィクション。それってめちゃくちゃに馬鹿らしいと思わないか。現実を揺さぶる。価値観を揺さぶる。きみの人生を揺さぶる。それがフィクションのパワーではないのか? きみがいつまで経っても主人公になれずにモブのままなのは、ただきみが後生大事にドブ臭い精神を抱え、日和見主義を貫いているからではないのか? 勇気を出さずにひとところに留まっているからでは? いつまで守られる側でいるつもりなんだ? きみはとっくに守る側になっているというのに。


 などと偉そうに語る野球帽を被ったアジア系、年齢不詳の厄年42歳、厄年などはまったく信じていないので厄落としなどはしない阿部顕輝の書く文章はどこに行くのやら、いまだに掴み所がないのだった。それにしても顕輝は一発変換ができないので面倒くさい。登録すればいいのだが、それもなんだか嫌なんだ。おれの名前は一発変換できないという呪いを抱えたまま生きてゆこうと思う。それにしても大仰な名前だ。子どもの頃から嫌いだった。もっと普通の名前がよかった。

 子どもの頃は光太郎という名前に憧れていたのだった。言うまでもなく、仮面ライダーBLACKだ。エンディングテーマにヒーローの哀愁を見ていた。ブラウン管だった。ウルトラセブンの再放送を見るために朝の五時だかに起きていた。おれは特撮オタクにはならなかったが、ヒーローの精神というものはしっかりと受け取ったと思っている。それがいま、大人になって効いてきたという実感がある。ただの知識データー自慢より、そっちの方がよっぽど良くないだろうか。

 見てた、懐かしい、だけではなく。今も見てるし、あの着ぐるみの中に入っているのは~云々だけではなく。過去のものとしてだけではなく。映像作品としてだけではなく。


 もちろん成長するにつれて色々なことの裏側だって見えてきてしまう。それはそうだ。単純な構図はまったく用意されていない。なにもかもが複雑に絡み合っている。ろくでもないことだってたくさん起こる。無力感に肩を落としてしまいたくなるようなことばかりだ。なにしろ生きるということが、単純に辛いという事実がため息に拍車をかける。なにもかもに意味などはなく、正義も悪もクソもありゃしない。いや違う、クソだけはたんまりだ。そう思ってしまう気持ちはおれにだってある。

 それでもだ。それでもなんじゃないのかな。そんな気分に抗う、拒否する、否定する。そういう気分があってもいいのではないかな。

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