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連中の手にかかっちゃ、なんだって遊び道具だ

 そうだな。おれは違うレベルに移動する必要がある。いつまでもここに留まっているわけにはいかない。世界は合理的かつ非合理的だ。合理的な判断でエグいことがバンバン起こる。かと思えば、あまりにも不条理なことが起こったとしても、夥しい数の人間がただただ手をこまねいているだけしかできずにいたりする。不条理を加速させようとする人間だって後を立たない。そんな世界で生きるひとりの人間として、おれはここに留まっているわけにはいかない。強く、そう思ったということだ。

 じゃあどうする、なにする、そういう具体的な話になると、おれはとんと弱いんだ。ただまあ、目を逸らすわけにはいかない。立ち向かわねばならない。この世の醜さにも。自分の弱さや、小説への憧れに、ちゃんと真っ直ぐに向き合わなければならない。じゃあどうする、なにする、だからそれはやめろ。おれの出鼻を挫くな。

 だが、あながち冗談でもなかったりする。どこまでいっても追ってくる、どうする、なにする、どうしたい。やっぱりケリをつけなければならない。でもどうしていいのかわからない。

 刻むか、跳ぶか。それが問題だ。


 文章をもっと圧縮しなければならない。ぎゅうぎゅうに圧力をかけて密度の高い塊にしなければ。ストーリーを持ち得ないおれには、そうするしかない。そんな気がしてきた。おれは余計なことを書きすぎている。だが余計なことを取り上げられてしまうと、書くべき文章自体が消失してしまう……。

 そんなことを考えている間に、太陽が狂い始めていた。風はぬるく、信号待ちの人々はトゥーマッチな光を避けて、小さな日陰へと身を寄せていた。だがいまの夏はこんなもんじゃない。去年の一番暑い時期の記憶がまだ残っている。それってただごとじゃない。普通は過ぎ去った気候の記憶なんて綺麗さっぱり消え失せる運命だ。もう夏は普通じゃない。異常な季節となっていた。外に出るのが憚られる季節。時が止まったような午後の昼下がり。陸橋の下の草いきれ。生き物の気配のしないビオトープ。蚊に襲われることもなく、蝉さえなんだか遠慮がちだった。

 そんな時期でだって、摩天楼の少年は太陽を背に従えて、塔から塔へと飛び回っていたのだった。汗ひとつかかずに。心の底から楽しそうに。青いシャツをなびかせていたのだった。

 異常な暑さの中で、おれのお気に入りのフレッドペリーのポロシャツが一枚ダメになった。おれのポロシャツ好きは有名な話だ。ボウリングシャツ、ハワイアンシャツだってもちろん好きだが、というか半袖の洋服全般が好きだが、夏の夜はやっぱりポロシャツだろう、そんな気分がおれにはあった。その中のお気に入りの一枚が汗でダメになってしまった。いくら洗濯機にかけたって汗の臭いがとれなくなってしまったのだった。

 早速どうでもいいことを書いてみた。でも悲しかったことでもある。暑さと共に蘇る記憶だ。


 流れ出る汗で足元に水たまりができるくらい。額から首から脇の下から、腕を伝って指先から滴がひっきりなしに落ちていった。なにからなにまで狂っている。おれなどはまだまともな方だとも。自分にそう言い聞かせる。ただ汗の量は異常なのかもしれない。すれ違うやつらを見たってこんなに汗をかいているのはおれだけだった。こいつらの身体は既にこの暑さに適応しちまったっていうのか? それともおれはいつの間にかロボットたちに周りを囲まれているってわけか。諸星大二郎のあの短編みたいに。

 ゆっくりとあぶられながら身をよじるスルメイカのように。そんな気分で。病人に囲まれて、おれの頭に電撃が走らないようにする薬が処方されるのを待つまでの間、じっと一点を見つめていた。毎度思うけど薬を出すだけでどうしてこんなに時間が掛かるんだ。わかっている。理由がある。ミスは決して許されない。場合によっては命に関わる。違法行為との距離だって近い。厳密に管理しなければいけない薬物が眠る宝物庫。副作用など関係なしでぶっ飛びたいやつはいっぱいいる。ビートの効いた音楽を大音量で流して、ウィードを吸うか、それともどうする、もっとイイことするか。

 膠着する日々を打ち破ったような気分に浸るためには手段を問わずに漂泊、漂着したヒートアイランドで汗の泉に肩まで浸る。ふやけた手で汗を拭って、斬るように飛ばした。蒸発してゆく水分、そびえたつ地の塩の柱にサングラスを突き刺し、まるで雪だるまだぜ。こぼれ落ちた塩の結晶をライターで炙って、身をよじるスルメイカのように寝苦しい夜を耐え忍ぶ。


 ぶん回した冷房の吐き出す冷気で息を吹き返したおれは、べとつく肌を清めるために浴室に向かった。そのまま溶けて消え去ってしまいたかった。だが熱いシャワーは一度引いた汗をぶり返させただけだった。ぬるいシャワーは趣味じゃない。頭から被るのを躊躇してしまうくらいの熱いシャワーがお好みだ。それはまあ、個々人の趣味だからまったく構わないが、いまの季節や自分が置かれている状況のことも少しは念頭に置いた方がいいと思う。真っ赤に茹で上がった素っ裸を冷気に晒しながらこれからのことを考えた。このまま放置していたら風邪をひいてしまうかもしれない。だがこの状態は気持ちよすぎる。この瞬間を味わうために、おれは灼熱地獄をひたすら歩いてきたのではなかったか。そんな気もしてきた。もうなにも考えられない。というよりも最初からなにも考えていない。おれはなにを書きたいのだろうか。そういう話は嫌いだよ。好き嫌いで済ませてもいい話なのか。いいじゃん。ちゃんとした小説なら、色々な人が書いているよ。現代の小説家にだってものすごいのを書く人はちゃんといるよ。飛浩隆なんてメチャクチャおもしろいじゃないですか。文章だって最高じゃないですか。チャイナ・ミエヴィルとかさ……なんだか眠くなってきた。とにかくおれには書けることがない。おれが書けることなんて、この部屋の、ごく一部の範囲くらいのものなんだ。


 うたた寝は人生で最高に気持ちの良い瞬間のひとつであるかもしれない。いまのおれの生活は昼寝うたた寝したい放題さ。眠気を我慢する必要がない。本当はずっと眠っていたい。だが覚醒の時はくる。そうしてまたここに戻ってきてしまうということだ。それでぼさっとここで座っているというわけだ。

 本当におれの頭の中はカラッポになってしまったのではないか。そう思う。いや、もちろん元々大したものは入っていないが、受信能力のようなものが弱まっている感じがする。もっと色々な場所に繋がっていた筈なんだ。感覚が震えた瞬間にすかさず身体が動き、即座にキャッチできていた筈なんだ。テレクラで、ランプが光った瞬間にフックを上げるような瞬発力が、おれには備わっていたような気がするのだが。どうしたっていうんだ。少し気を抜いて生きすぎではないか。そういった危機感を抱きつつも、今日もなんとか文章は書かれたという結果だけに満足していたりもするのだった。

 文章を垂れ流すだけなら馬鹿でもできる。おれは馬鹿なのか? なんだか疑わしくなってきた。そんなことないよって、そう声を掛けて上げたいけれど、そのことで余計に疑念を深めてしまいそうで、傷を深くしてしまいそうで、安易な慰めの言葉を吐き出すのは躊躇してしまう。かといって気の利いた言葉を出すシチュエーションでもない。それによって自分が気持ちよくなれたって、肝心の相手の心に響かなくては意味がない。そういった簡単なことで長年の友情は壊れてしまったりもする。人間ってのは本当に面倒で救えない生き物だ。勝手に悩んでろ!

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