傷む腹を抱えながら全力で跳ばなければならない時もあって
嫌な汗でベッドが湿っていた。それだけのことでうんざりしてしまう。うんざりした気分で目を覚ますことになる。おれは目を覚ますと、とりあえずベッドから抜け出る。それからもう二度とベッドに戻ることはない。
朝に決まってやることなんてほとんどない。おれは顔すら洗わない。昔から思っていた。朝に顔を洗う。いったいなんのために? エチケットなのか自己満足なのか。寝ている間にそんなに顔が汚れるのか。よくわからない。
そんなおれでも朝食は必ず摂る。くだらない理由だ。まわりの連中がみな朝食は摂らないと言っていたので、それならおれは絶対に毎朝朝食を摂ってやる、そう思っただけだ。それがいつの間にか欠かすことのできない習慣になっただけだ。そのかわり昼食は摂ったり摂らなかったり。適当だ。腹の空き具合とは関係なしに、なんとなくそのときの気分次第だ。たぶん。よくわからない。
朝食と言っても大抵は昨夜の残りだ。だから朝からもう油ギトギトで唐辛子が効きまくったヘヴィーなしろものを食うときだって当然のようにある。おれはその辺のことはなにも気にならない。そんなもん気にしていられるか。おれはおまえの母ちゃんじゃないんだ。
朝食なんて一瞬で済ませてしまう。味わっている暇なんてない。どうせ昨夜にじゅうぶん味わった食い物だ。律儀にすぐさま食器を洗って――自分のこういうところがおれは偉いと思っている――それから煙草を吸う。気分によっては二本連続で吸う。今日は一本だった。
で、仕事にとりかかる。これだ。これがおれの仕事だ。文章を書く。これこそがおれの仕事なんだ。そう主張しているのは世界でただひとり、おれだけだが。でも、仕方ない。おれがそうだと思えばそうなんだから。おれが自分で選んだ仕事ってわけじゃない。おれが選ばれたんだ。こういう文章を書いてくれって、そんな依頼が塔の上から降りてきて、おれは引き受けた。軽い気持ちで契約を交わしてしまった。それが地獄の始まりで、引き受けなきゃよかった、そう後悔したってもう遅いのだった。ざまあ。
そうだ。そのとおりだ。ざまあないぜ。
本当に情けなくなってくる。汚染、殺人、憎悪、欺瞞……どうして飽きもせずに同じようなことが繰り返されるのだろう。こんな生き物はさっさと滅ぼすに限る。見ちゃおれん。目線を下ろすと、ライフハッカーどもがすべてをファックしようと手ぐすね引いている。このままじゃなにもかもが、ヤリ捨てされてぼろぼろになってしまう。
でも、もうどうすることもできない。どんなにヒステリックに怒鳴ろうとも、どれだけ穏やかに諭そうとも、集団ファック肉団子が転がり膨れ上がってゆくことは止められやしないんだ。セクシーさの欠片もないファック。それはただただグロテスクなファック。ああもうおれは嫌だ。ひたすらに嫌だ。なにもかもが嫌だ。もう本当にヤダヤダ。
いやいやえんに入園したいくらい、人生第何期目かのイヤイヤ期に突入したおれだったが、そんなおれをあやしてくれる存在はもういない。自分でなんとかするしかないのだった。なにしろおれのイヤイヤは他人を超絶不愉快にさせてしまうみたいなので、どんなに近しい人だとしても素直にイヤイヤをぶちまけるわけにもいかない。おれだってこれでも社会的生物なんだ。他人の顔色を伺うことくらいはするんですよ。遠慮しっぱなしの人生ですよ。これ以上はもう無理ってくらいに遠慮してやっているのに、それでもデリカシー皆無みたいに評価されることが多いのはとても納得がいかないが、もうそんなことだってどうでもいいですよ。本当にどうしてこんなにどうでもいいことばかりなのだろう。困惑してしまう。
何時くらいに家を出れば夕方六時に高円寺に着くことができるだろうか。高円寺シアターバッカスって高円寺のどの辺にあるのだろう。そんなものは調べようとすれば一瞬で調べられるのだが、どうもそんな気分になれない。あの黒い板をいじくるのが面倒くさい。そりゃコンピューターでだって調べることはできるのだろうが、マウスポインターを検索バーまで持っていくのがもう面倒だ。いや、なにより面倒なのは、わざわざ高円寺まで出掛けることなのだった。
でも、行くよって言ってしまった。それ以外の返事ができるわけがないだろう。何年来の付き合いだと思っているんだ。でもアイツはおれのライヴには来てくれなかった。二十年くらい前のことをいまだに根にもつタイプ。いやだってそりゃそうだろう。おれはめちゃくちゃカッコいいパフォーマンスを披露できる自信があったし、実際に披露したよ。それを見にこなかったってのは、つまりアイツはおれに嫉妬していた、もしくは嫉妬をしたくなかったのでは? そういう器の小ささがアイツには確かにあった。
まあいい。どうでもいい。すべては過去。なにもかもが過ぎ去った。アイツはそんなことがあったことすら覚えちゃいまいよ。いちいち細かいことを覚えているおれが異常なんだ。だからと言って、おれの器が小さいなどとは思ってほしくない。おれは覚えてしまうだけだ。忘れてしまうことができないだけなんだ。どうでもいいことのはずなのに、なぜか記憶に刻みつけられているだけ。それだけのことなんだよ。
「昔のおまえは天才だと思ってたよ。イイ線いっていたと思う。でも、もうダメだな。なんというか、おまえからは怒りがなくなっちまった。なんか諦めちまったっていうか」
「諦めるもクソもないよ。全部どうでもいい。最初っから全部どうでもいいっす」
「もったいない。いやもったいないなあ、阿部くん。おれは人の才能を見る目はある方だから。おれが天才だなんて思うやつはそうそういないよ?」
「うざってえな、おまえ。おまえの見る目なんかクソじゃねえか。おれはブルーハーツを好きなやつは信頼しないんだよ。実際、おれはおまえにセンスの欠片も感じたことがないね。狭いんだよ、おまえの世界は昔っから。天才とか……おまえ、笑わせんなよ。どんだけ狭い視野で物事を見ているんだって感じ」
こんなやりとりをしたのは何年か前の話。そのあと激しめの口論になった。勢いおれが飲み屋のテーブルを蹴っ飛ばしたことは覚えている。なにしろアイツは聞く耳を持たないし、事実と違っていることを指摘しても間違いを認めない。めちゃくちゃアホな理屈を言ってきやがるものだから、とにかくこっちは苛つく。会話にならん。
あの野郎と飲むといつもそんな風になるのだった。最後にはもう二度とこいつと飲みに行くものかって気になって終わる。それでも何年かに一度、どちらともなく飲もうぜってなるのだから、よくわからない。
その上、わざわざ高円寺まで出掛けて行ってやるのだから、まったくおれも人が好いもんだ。しかし、あのクソ野郎が監督とか肩書きつけて。まったく笑わせてくれるぜ。どうせクソつまらないに決まっている。期待値は最低を通り越して氷点下マイナス、真冬のシベリア並だ。
いま、これは修行のようなものだと自分に言い聞かせている最中だ。おれはお世辞は言えないから、感想は言わないぜ。逃げるように帰るだけだ。まったくふざけた話だ。ふざけているし、面倒にも程がある。
もし、もしもだ。この文章を読んだ物好きがいたのなら、つまらない映画を観るのが三度の飯よりも大好物というド変態がいたのなら、高円寺に行ってみてはいかがか。高円寺シアターバッカスっていうところで今日だけ上映するらしい。詳しいことは知らん。おれはド変態ではないが行く。嫌だけどしょうがない。本当にしょうがないことってありますよ。生きていれば面倒なことばかり。ああもう本当にヤダヤダ。




