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ゴッド・スピード・ゼロ

 徹底的に破壊しつくされた小説という表現という遊び場の中で踊っている。破壊と言ってもそれはなにも、くだらないモノが溢れているから、読み手が馬鹿ばかりだから、とかそういう理由で破壊されたわけではない。そんなのは遙か昔から起こっていたことであって、別に今に始まったことではない。小説が破壊しつくされてしまったのは、才気溢れるキチガイどもが好き勝手してくれやがったからだ。小説を破壊するための小説を書きまくりやがったからだ。小説とはなにか、物語とはなにか、言葉とはなにか、書くとは、語るとは、現実とは、生きるとは……連中はあまりにも素直にそれらのことで頭を悩ませ、そして自らを崖っぷちまで追いやった。剃刀の刃を静脈にぴたりあてながら言葉を紡いだ。その裏に隠れている謎を暴こうとした。キチガイどもが達成した仕事はいまさら紹介するまでもないだろう。小説に少しでも興味があるやつはいくらでも思い当たるだろう。思い当たらないのであれば、そいつは極めて小さい領域の中の文章物語を小説と呼んでいるに過ぎない。確かにそれだって小説だ。でもそれだけが小説ではない。おれの書くこれだって小説なんだ。しかもとっくの昔に陳腐化してしまった、からからに干からびた、目を背けたくなるような類いの小説だ。自分でもわかっているんだ。でもしょうがないだろう。これしか書けないのだから。


 気の狂った火の玉が交差点を抜けてった。おれは昨日そう書いたが、まさにそのようなことが昨夜おれの友人に起こったということだ。というか起こしたらしい。飲酒で追突事故だという。まったく。現実と文章がほんのりリンクしてゆく。まったくの偶然ではあるが、おれの友人が飲酒運転をしていた時点で、必然と言っていいだろう。と言うよりも起こってしまったことに、偶然も必然もないか。いや、この場合の偶然はおれが何の気なしに書いたサブタイトルのイメージと、おれの友人の事故が被さったということを指している。そう、偶然だ。しかし、考えようによってはおれの文章が現実を侵食しつつあるということだって言えるわけだ。おれだけがそう信じることくらいは許されるはずだ。いや、しかし、気の狂った火の玉が交差点を抜けてった、という一文はギターウルフの曲の歌詞の一部を改造したものであって、100パーおれのオリジナルとは言えないわけだが、そんなことを言い出したらきりがないよ。

 オリジナルなんてものは存在しない。すべての作品はオマージュ、パロディ、パスティーシュ、エピゴーネンのミックスジュースだ。

 それはともかく、件のおれの友人は正真正銘のアホであり、もう二度と車の運転はしない方がいい。まあ、でも他人事じゃないよ。どんなトラブルに巻き込まれたって、自分自身が起こしたって、まったく不思議ではない。仮初めの自由はほんの些細なことでも取り上げられてしまう。治安の良さと窮屈さはトレードオフなんだ。いつだって武装警官や秘密警察どもの監視の目が光っている。この貧相な地獄では賢く立ち回らなければならない。これまで上手くいっていたからと言って、これからもそうだとは限らない。気の抜けただらしないやつから真っ先に、ひとりまたひとりと消されてゆくのだった。


 おれたちは生涯、恐怖とまやかし、そしていつわりから解放されることはないだろう。思いを巡らせるうちに、卑劣で下品で恥知らずのことをし続けてきたことに気づいてしまい、みじめな気分に打ちのめされる。生きるということはすべて自然とあやまちになっている、そうならざるを得ない、そういう仕組みで仕組まれている。自然と日々は地獄に変わり、考えることと言えば下品で世俗的なことばかりだ。そして一生、気を滅入らせながら生きてゆかなければならない。望もうと望むまいに関わらずそうなってしまう。どう足掻いてみたってそうなってしまう。

 ハッピーハッピー教の信者たちは、そんなことあるはずがない、そんなことを認められるわけがない、そう言って暴れ回るだろうが、おれは真実しか書いていない。どれだけ自分の人生はハッピーハッピーだ、そう言い聞かせようとしたって無駄だ。ハッピーと地獄は両立する。みんな地獄の中で笑っている。地獄の毎日のほんのささやかな一瞬の幸せを切り抜いて、それでハッピーハッピーは通りませんって。

 だがそれでもハッピーにかじりつく。どんな些細なハッピーも見逃さない。ちまちまとしたことを画像に収めて、地獄に彩りを添えた気になっている。そのことを否定するつもりは毛頭ない。いや、すまん、嘘だ。少し、いやかなり、おれはそういった連中に否定的だ。なぜかはわからないのだが。別にみなが不幸になって欲しいなどと思ってはいないのだが。できる限り多くの人間に幸せになって欲しいと願って止まないのだが。


 ただ、人間的な価値観に当て嵌めて考えれば、すべての過程は悪くなってゆく一方だということ。それが自然というものであって、それが人間をうんざりさせる原因になっているということ。人間はこのうんざりにはどんな手を使っても勝利できないということ。そのことが、おれをうんざりさせる。心の底から徹底的なうんざりではないものの、慢性的にぼんやりとうんざりとした気分は決して晴れてはくれないのだった。

 そしておれはこんな文章を書くことで、更なるうんざりにおれをぶち込もうとしているのだった。明確な意志を持ってうんざりしようとしているのだった。このうんざりから目を逸らしてしまっては、文章を書くことはできないということを、おれはキチガイどもが書いてきた文章から学ばせてもらった。

 悲しくて辛くて、もううんざりなのに、それでもまだ生きている。繰り返し問い続けた。どうしておれたちはまだ生きなければならないのか、と……いつになっても答えの返ってこない問いを。繰り返し繰り返し。

 きっと死ぬ間際にだって答えはわからずじまいに違いない。なんにもない。なんにもない。空っぽの袋の中は、どれだけ待ってみたって、いつまで経ってみたって、なんにもない。その無意味さ。あまりにも身も蓋もない無意味さに、すっかり参ってしまった。

 雨が降れば濡れてしまうし、雲が空を覆えば暗い気持ちになるし、太陽の光は肌に染みを刻んでゆく。時期によっては、寒くてたまらず、我慢ならない暑さや、うっとうしい湿気、地面が揺れたり、病気が流行ったり、人が殺されたり、挫折したり……それでもいつか嵐がくるのだった。稲妻が走るのだった。

 おれが待っているのはその瞬間だ。空間が閃光に切り裂かれるその瞬間を体験するため、そのためだけに生きていると言ってもいい。


 夜が明け、嵐が騒いだその痕跡を見ると、なぜだかやる気が出てくる。なにかを信じられるような気になる。地球の長い放課後を生きているような、そんな気分に。

 もちろんそんなものは気の迷いの最たるものであり、晴れやかな気分はすぐに雲散霧消してしまって、変わらず日々の地獄の中にいるという実感が蘇るが、ほんの少しエネルギーがチャージされていることを確認して、これならこの地獄をサバイブできるかもしれない、などと根拠もなく調子の良いことを考えている自分にまたうんざりしてしまうのだが、それでもこれからは雷パワーがおれたちの身体と精神に良い影響を与えることの科学的な見地からの実証を待ちたい。早くしてくれないと、おれにはもう時間があまり残っていないのだった。エレキの天使の到来を祈りつつ、今日もまたうんざりすることにしよう。

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