路地裏に佇む聖者の喉の動き
どんなに美しく見える街だって腫瘍がある。どんな街でもそこかしこに病を抱えているのだ。そんなことはごく普通のこと。取り立てて騒ぐほどのことじゃない。もちろん騒ぐのが楽しいってことは認めるが、一度馬鹿騒ぎをする己の顔を鏡で見てみることをお勧めする。それでも自分が正気を保っていると言い切れるのであれば、あなたは大したものだ。肝の据わり方が半端じゃない。端的に言って、気が狂っている。
街の病を誘発する毒の詳細をいちいち列挙したって、無用の悪意を煽るだけだからそんなことはしない。意味がない。それでもひとつ教えてあげよう。ひとつだけだよ。
街を蝕む毒のひとつは、摩天楼の少年からのサイン、そいつを独自の解釈で書き連ねている、このおれだ。それから、いまはまだ毒ではないが、毒になり得るもの。それはこの文章を読んでいるきみ自身だ。
もしきみが、いまの暮らしに満足しきっているのなら、すぐさまこの文章を読むことをやめたまえ。摩天楼の少年の一切を忘れ去り、さもしく暮らしたまえ。芳醇な罪、蠱惑的な魔術、甘く優しい暴力はきみの手に余る。立ち去りなさい。
少年は飛びまわる。塔から塔へ。都会のハヤブサが少年の友だちだ。とんぼ返りの途中でぴたりと動きを止め、逆さまの世界を観察している。この世界は逆さまにするくらいが丁度いい。見え見えのイカサマをそのまま素通りさせているのは、なにか深い理由があってのことなのだろうか? 欲得の力学のベクトルの進む先、見通しの良いほんの少し先の殺風景、そんなものを本当に望んでいるのだろうか? 少年は少年らしい素直さで首を傾げるのだった。
誰ひとり言葉を発する者はいなかった。みな年齢以上に年をとり、実際の疲れ以上に疲弊していた。なぜ自分がこんな場所にいるのか、いなければならないのか、理解している者はいない様子だった。誰もが誰かの後ろに隠れたがり、先頭に立つことを拒んでいた。壁際にいると、とても落ち着くようだった。別に先頭に立ったからといって、なにがあるわけでもないのだが。だってここはただの喫煙所なのだ。
おれはわざと声を出してあくびしてみた。灰皿の前に陣取っているのはおれだけだった。ほかの連中はみな隅っこに引っ込んでいた。壁際にびっしりと隙間なく並び、まるで囚人だ。もしくは産み付けられた虫の卵だ。
ひとりの男が、おれの前に手だけ伸ばして吸い殻を捨てながら、小さな声で「すいません」そう呟いた。いったいなにがすまないと言うのか?
「別に謝らなくてもいいっすよ」
おれが男の顔を見据えてそう言うと、男はぎょっとした顔をした。壁際の連中にも緊張が走るのが見て取れた。おもしろい。ただ喋っただけなのに。男はなぜかまた「すいません」と謝って足早に喫煙所を後にしていった。おもしろい。一瞬で、たったの一言で、おれは喫煙所の厄介者になったというわけだ。
おれはこういうイタズラをよくするのだった。イタズラ? 意地悪? ま、どっちでもいい。閉塞した空間にいると、稚気でもって穿ちたくなるのだった。実験したくてウズウズしてしまうのだった。ほんの少しの刺激を与え、空気がどう震えるのかを観察してみたくなってしまうのだった。
人間観察というのはこうやるんだ。わかったか、趣味は人間観察とか抜かしている、自称変わり者ども。おまえたちは観察者ではなく、ただ人を見下したいだけの勘違い野郎だ。下世話な好奇心で自分を神輿に上げて、勝手に見下ろした気になっている単なるゴシップ好きだ。おれにとっちゃおまえたちも観察対象だ。おまえたちこそが観察対象なんだ。いつまでもわかった風なツラをしないことだ。おれはおまえたちの想像以上に意地悪だぞ。噛みつくぞ。傷つくぞ。偉そうにして良い気分に浸っているおまえの背後でおれが牙を剥いているぞ。せいぜい気をつけることだ。
こういったところなのだろう。おれが摩天楼の少年の目に止まったのは。小市民的テロルの実行者であり、理念なきラショナル・アナーキスト。感染力のないウィルス性のアーティスト。慎みを知る穏やかなエゴイスト。絶望の淵にいる路地裏のロマンチスト。つまりはイタズラ好きの妖精。それがおれだ。
バリバリと光がきらめく。高密度イオンの香りがあたりに漂う。スペーシーな気分になる香りだ。アナログシンセの音色のような香りだ。サンリオSF文庫の表紙のような香りでもあった。
おれはしばらくうっとりしながら、他人の人生について考えていた。自分とはまったく関係のない人間の人生。南の方の貧乏な家で生まれ、先天的に陽気で、歌とダンスが大好きな、喧嘩のバカ強い大食漢のことを。抜けるような青空の中、彼は常人ならすぐに音を上げる過酷な労働を強いられながら、それでも歌とダンスを生涯忘れることはなかった。彼の恋心のほとんどはものにならなかったが、ある日、素敵な偶然によってもたらされた出会いが、彼の歌に艶やかさを、彼のダンスに溢れるような悦びを与えた。
彼は市井の片隅の詩人でもあった。素朴であからさまな詩を数多く綴ったが、そのすべてを自分の手で破棄した。もったいない、そう思った。しかし彼の意思は強固だった。自分以外の目に触れるべき詩ではない。彼のその判断についてどうこう言うつもりはないが、市井の片隅の詩人としての姿勢としてはとても美しいと言える。言葉ではなんとでも言えるのだった。美しいと言えば、美しくなるのだった。
彼はある日、死んだ。彼と親しい人たちは、ものすごく悲しんだ。彼と過ごした日々は、みんなの宝物だった。そんなことに気づかせてくれる、そんな彼の死だった。
なんとも酷い毎日が続いていた。どこを切っても腐臭がしやがる。
おれの友だちに、ホルモン屋ケンちゃんがいる。ケンちゃんは巨大なアパートの一室に住んでいた。ケンちゃんの部屋にもこんな腐臭が染みついていた。しょうがない。仕事が仕事だ。
ケンちゃんは内蔵ハンターだ。活きのいい死体から貴重な臓器を器用に抜き取る。その鮮やかな手際はまさに神業。目当ての臓器をファスナー付きのプラスチックバッグに入れ、慎重に空気を逃がし、保冷剤のたっぷり入った釣り用のクーラーボックスに放り込む。それを売り捌く。もちろん犯罪だ。だがケンちゃんには罪の意識はまったくなかった。
「だって死体じゃん。生きてないじゃん。抜け殻じゃん」
ケンちゃんはそう言って、実にいい笑顔を見せるのだった。こんな生き方も悪くない。そう思わせるだけのポジティヴなヴァイブスをケンちゃんは放出していた。ケンちゃんは、おれのもっとも大切な友だちのひとりだ。犯罪者だからといって、彼を悪く言っては欲しくない。たまたまそうなった。いろいろな事情が重なった。ケンちゃんは一流のホルモン屋として日々を切り開いていた。とてもタフなやつだった。
そんなホルモン屋ケンちゃんがパクられた。おそらく、どこかの誰かが我が身の可愛さでうたいやがったのだ。弱いやつはどこにでもいる。弱いやつは恥を知らない分だけ強い。おれは恥知らずの弱いやつが大嫌いだ。だがどうすることもできない。そういうものだ。
酷い毎日だ。増幅していく臆病者どもの悪意が、おれの心を痛めつける。毎週末が戦いだ。トルコ国旗と日の丸を掲げ、にやにやと笑うクソ野郎ども。ぞっとするような腑抜けた顔に思わず顔を背けたくなる。同じ人間だとは思いたくない。だが同じ人間なのだった。おれも連中も。連中を守る警察も。連中に日本から出て行けと言われている人たちも。
「あんた、良心ってものはないの?」
目の前の若い警官に、そう訊ねてみた。彼はおれをチラッと見てくるだけだった。みんな大変だ。人間は大変だ。だからとても悲しい。おれは妖精だから大変ではない。それでも悲しい。まったく酷い毎日だ。