ふたりの秘密の合い言葉、時の裂いたその場所で
さて、おれはどんな冗談でも真顔で言ってのけてみせよう。自ら率先して笑ってきみの笑いを誘ったりしないし、たとえきみが笑わなくたっておれの心はちっとも痛まない。おれの言葉に遊び心が宿っている。その事実だけでじゅうぶんなんだ。それさえ確認できれば、おれは満足した気分で一日を送ることができる。しかし、一度眠りに入って、そしてまた目覚める……。たったそれだけのことで、おれはまた不安になってしまうな。今日のおれはどんな感じだ? まさかすべてが変わってしまったとは言わんだろうな。なにもかもが元通り……なんていうのも勘弁してくれよ。
こんな些細なことで涙を流したくはない。正直なにをどうしたらいいのかわからない。あるがままに受け止めるだけだ。なすがままに漂流しているだけだ。それがこんなに辛いなんて。誰も教えちゃくれなかったさ。そりゃそうだ。だって誰もなにも知らなかったんだから。無数の断片が無数の書物に散りばめられているだけだ。おれは断片を拾い集めて、幼稚園児がレゴブロックで作ったキメラ的な物語をでっちあげた。まさかそれが現実になろうとは。その時のおれはそんなこと知るよしもなかったさ。そりゃそうだ。だって誰もなにも知らなかったんだから。こんな些細なことで涙を流したりはしたくない。絶対にそれだけはしたくない。こう書くということは、つまりはそういうことなんだ。きっと涙はすでに流れた後だということなんだ。
文章を書こうという衝動はこんなところからも生まれてくる。文章に明確なルールはなく、もちろん理屈や理論はあるけれど、そんなものは無視してしまってまったく構わない。ミュージシャンのすべてが音楽理論に通じているわけではないように、作家のすべてが理論立ててものを書いているわけではない。
ナラトロジーの呪いはどこまでもついてまわるし、構造を持たない小説はそもそも小説とは見做されない風潮が、似非作家を生み出し続けている土壌となっているのは間違いないのだが、やはりなにかが間違っていると、みな薄々感じているようだ。
筋や構造、成長や破滅、死と生と愛、それに暴力と性愛、それらを幼児にもわかるくらいにくっきりと浮かび上がらせなければ、もはや見向きもされない。現代人は忙しいのだった。テンポ、抑揚、リズム、馬鹿らしいくらいに派手にしなければ、なにもわからないのだった。いろいろな意味でわからないのだ。なにもかもがわからないのだ。目にも止まらないし、たとえ目に入ったとしても、それがいったい何であるのかがわからない。言葉として認識していない可能性すらある。
言葉が本来持っている奔放な表現性、杜撰なほどに欠けている統一性、絶対に消し去ることのできない矛楯。そういった性質をもつ言葉を使った泥んこ遊び。それがおれの書く文章の正体なのだった。
もちろん、おれくらいの文章を書く人間はたくさんいる。だがその中には自分の書いた文章によって報酬を得ている人間もいるだろう。おれは報酬を要求しないかわりに、屈服を要求する。改心などは期待していない。だが、せめてもの良心の疼きには期待したい。言葉はいらない。遊び心のない言葉しか操れない人間の言葉などは。求めているのは屈服。ただそれだけだ。
それもまた物語になってしまうのだろう。なにもかもを物語にしてしまうのは人間の本能なのかもしれない。でもせっかく人間として生まれてきたのだ。本能に抗うことのできる特権を行使しない手はない。自分自身すらうまずしてなにが人間でしょうか。
雨が上がったようだ。止まり木の匂いがする。実際にはおれの部屋の匂いなのだが。おれは空腹を抱えつつ、ここ最近はずっと空腹なのだった。あまり食べていないのだから当然と言えば当然だ。こんなことを書いている暇があるのなら、小説の構想でも練ればいいのに。そう思う。いつもそう思う。
だが小説の構想を練るというのはどういう行為なのだろうか。頭でぼんやり考えることだろうか。それとも……だめだ、もう例すら出てこない。
小説のアイディアというのがどういうものを指すのかすらわからない。たとえばドリトル先生なら、動物と話すことのできるお医者さんがいて、お医者さんを慕う動物の仲間たちがいて、それで色々あって大冒険。こんな感じのものがアイディアなのでしょうか。で、プロットっていうのは、もうすこし詳細を説明したもの? マンガで言うところのネームがプロットってことなのかな。よくわからないんだ。本当にわからない。
このあたりのことがまったく理解できない以上、きっとおれは小説を書くことに向いていないのだろう。じゃあおれにはなにが向いているっていうんだ。じゃあおれの書いているこれはいったいなんなんだ。これが小説ではないというのなら、おれはもうお手上げだ。やることなくなっちゃう。途方に暮れて路頭に迷うこととなる。明日からどう生きていけばいいんだ?
そんなことにはこのおれがさせない。おれはいつだって小説を書いている。ここまで小説を書き続けているやつがどれだけいるって言うんだ。いっぱいいるか。いっぱいいるだろうな。どうしてみんな小説を書こうとするのだろうか。さっぱり意味がわからない。あと、小説を書いていると言うと、おれの小説書いてよって言うやつ。金をそれなりに稼いでいて調子こいているやつは、絶対にこれを言ってくる。馬鹿か。なんでおれがおれの興味のない人間の小説を書くんだ。もう本当に意味がわからない。なんでおればかりこんなに虚しい思いをしなければならない。なぜだ。なぜなんだ。教えてくれ。誰か。
おれのSOSが誰かに届いた試しはないのだった。SBOの記憶は薄れ、すっかりBSOが定着してしまった。人間ってそんなもんだ。本当にみんなさっぱりしている。あまりにもドライだ。こんなにねちねちしつこいやつなんておれくらいのもんだ。それは言い過ぎだが、けれどもおれがスパッと思考を切り替えることができないのは事実だ。最近、おれは自分の読点のつけ方のクセがわかってきた。最初の区切りでひとつ、ちょんとつけてその後はほぼ使わない。こういうのを意識し始めるとなにも書けなくなってしまうので、そのまま放置しているが、それでも格好いいものではない。格好いいものではないのだが、おれの脳内音読だとこの形が一番しっくりくるのだから仕方ない。好きにやらせてくれよ。
もちろん好きにやるつもりだが、数字の呪いの効き目は本当にすごいものがある。ここ数日、アクセス数がとてつもない勢いで下がってしまって、驚くやら打ちのめされるやら、おれはもう大変なんだ。それなのに屈服を要求する。なんて書いてしまう負けず嫌いのおれだよ。
数字なんて知るか。好きにやるだけだぜ。いや、本当に好きにやるのだが、数字の変動からは目を離すことができない。こればっかりはね、文章を発表した後の楽しみでもあるし、醍醐味でもあるからね。
でも数字なんかに踊らされてたまるか。おれは自分の意志で踊るんだ。そんじょそこらのやつなんかにゃ負ける気がしない。でも勝ったことはない。このあたりのことをどう解釈すればいいのか。それはもうやっぱり馬鹿ばっかりなんだっていう結論になってしまうね。どうしても! どう考えても!
ええ、こんなことを考えてしまう阿部千代はいけない子ですよ。でもこちとら見ず知らずのやつのケツを舐める趣味は持ち合わせちゃいないんだ。もちろん見知ったやつでも嫌だけど。舐めるのも舐められるのもごめんだよ。おれはただ、屈服させたいだけなんだ。望みはたったのそれだけなんだ。屈服ぐらいしてくれたっていいじゃねえか。おれは嫌だけどな。




