第6話 蠅の王
翌朝始末書を持って保健室を訪れると、内側から扉が開いた。雪は驚いて足踏みした。一々江がちょこんと扉の前に佇んでいる。
「一、こんな所で何してる?」
「こんな所とはご挨拶ね」
奥の方から葎が声を上げた。「保健室登校」遅れて一が答える。
「彼女、しばらくこっちに通わせることにしたわ。少しケアが必要そうだったし……、教室から一斉に彼等が居なくなってるのを見たら、さすがに不審がるでしょ」
葎が気を利かせて処理してくれたらしい。「彼ら?」一が小首を傾げるが葎は微笑みで答えた。
「さて、保健室登校の2人には、保健室の仕事を手伝ってもらいましょうかね。授業時間は独習用のオンライン資料を読んどいてもらうことにして」
葎は二つの花瓶を渡した。オフホワイトの塗装と現代的な流線型のデザインが美しい。
それぞれが花瓶を受け取り、2人は連れだってベランダ際の水場に歩いて行った。
「真白くん、何かした?」
花瓶の水を入れ替えながら、一が言う。「今日朝起きてからここに来るまで、誰からの視線も感じなかった」
「彼らも改心したんじゃないか」雪は水を花瓶に注ぎ入れながら目を逸らす。
「雪くんも、怖い視線送らなくなった」一が確かめるように覗き込んでくる。雪は花をまとめ、自分の瓶に差し込んだ。
「あれは仕事の都合上、気を張っていたんだ。だから決して敵意を抱いていたわけじゃないよ」
「仕事?」
喋るほどドツボにはまりそうだ。雪は余計なことを言う前に口を閉ざした。
とその時、保健室のドアが荒々しく空いて二人の男が転がり込んできた。茶髪の少年は顔を押さえ、その隙間から血を流している。その肩に手を回し、青髪の少年が一緒に倒れ込んでくる。牛頭馬頭……。雪は彼等にだけ分かるように絞った殺意を持って、一歩彼らに近づく。
「待て、俺たちは治療を受けに来ただけだ」馬飼が制す。一の視界を葎が塞ぐ。五頭が手を下ろす。その左の眼窩に、空虚な空間が広がっていた。
「ただ応急措置を受けに来ただけなんだがな。寄りによってお前ら二人が……」
五頭がぐらりと膝から崩れ、頭を地面にぶつけた。
「……とにかく入りなよ」雪は二人を招じ入れた。葎が五頭を手近なベッドに誘導し、慌ただしく傷の処置を始める。
雪は五頭の隣のベッドに座った馬飼に、油断なく視線を注いだ。五頭程ではないが、馬飼も相当な怪我を負っている。雪が与えた傷ではない。昨日の今日で入院もせずに登校してきただけでも大した根性だが、その後一体何があったらこんな様になるのだろうか。
葎が問いかけるような瞳でこちらを見る。雪は分からない。自分ではないという意図を込めて首を横に振った。
「で、誰にやられたんだ」
雪が馬飼に質問を投げた。
「……裏番さ」
「裏番? ……裏の番長か?」
馬飼が肯く。「この高校……、いや、この東京一帯の有力な学園を、表で顔を売ることなくひっそりと牛耳ってる奴が居るんだ。通称『蠅の王』」
蠅の王。雪は口の中で言葉を転がした。
「今の東京の裏社会は、公安と治安維持局の暗躍で碌な組織が残っていない。『蠅の王』は俺ら10代のチームを牛耳って大きな組織を作り、裏社会のバランスを上手く維持している。荒れ狂っていた暴徒たちもあの人の統制で今や、計算された上の小さなごたごたを起こすだけだ。街の治安を守っているともとれるし、単に自分の動かせる駒を集めているだけかもしれねえ」
「大掛かりな話だね。一を狙ってたのも、『蠅の王』の指示とか言い出さないよな?」
「責任逃れになるが、正直に言えばそうだ」
馬飼が溜息をついて、一の方を見る。「すまねえことをした」
「……で、任務失敗の責を負わされてこうなったと?」
「少し違う」
ベッドから呻き声が聞こえた。五頭が仰向けになったまま語る。
「俺たちはあいつの傘下を抜けることにした。この左眼は……いわば落とし前だ」
「反省の証なら嬉しいけどね」
雪が五頭を見て言う。「じゃあその『蠅の王』を倒さないと、一は安全じゃないってことか?」
不穏な言葉に、一が怯えたような顔をする。会話の流れから、事の経緯を察したようだ。馬飼が割って入る。
「裏番の力は半端じゃねえ。お前でもまともにやり合えば、勝率は五分ってとこだ」
「それにお前と違って、殺る時は殺る男だ。躊躇いもなくな。一般人だろうとかまわず殺す。俺の片目を残したのは、警告だ。自分の正体を喋れば、もう片方もという……」
包帯を付けた五頭が、暗い顔で言う。僕も殺る時は殺る男かもしれないぜ、雪は一の目を憚ってその言葉を飲みこんだ。
「だが……、俺たちが離れたことで、この学校に奴の駒はいなくなった。お前のことも警戒するはずだ。しばらくは一が狙われることもないだろう」
「もしかして、この件にけじめを付けるために離れたの? 裏番の下から。せめてもの償いとして」
五頭が弱々しく、不器用な笑みを浮かべる。
「知らねえな。まあ俺たちから言えるのは、くれぐれも裏番と衝突するような真似は避けろということぐらいだ」
「……雪くん、転校しちゃうの?」
「うん?」
夕暮れが迫ってくる校庭を、歩道に落ちた影と共に歩きながら雪は聞き返した。葎が何か吹き込んだなと察した。
「……ああ、遠からずね。入学早々って感じだけど……、僕の役目は終わったからな」
「そっか……、残念」
一が少し肩を落とす。「のまえ、クラスで話す人居ない」
「これからは大丈夫だろ。悪い噂もすぐ消えるよ」雪は励ますように言った。「祁答院とか良いんじゃないか? 話の分かる奴だ、力になってくれるよ。跡星先生も居るし」
「うんー、頑張ってみる……」
一は眉を八の字に曲げて答えた。「お」校門の人影を見て雪は声を漏らした。噂をすれば、というべきか、跡星が時代遅れの紙煙草をふかしている。「おう、お二人さん」跡星がこちらに気付いて煙草の火を消す。「今から帰りか?」
「ええ。先生は残業ですか」
「まあな。ちょっと休憩してたとこだ。今日は欠席者が多くて、連絡を付けるのが大変でな……」
跡星は一の肩を叩いて言った。「二人もいつでも戻って来ていいからな。急かすつもりはないけど」
それからすっと彼女の横を通り過ぎて、跡星は校舎の方へ帰っていった。揺れた鞄の紐を握り直して、一はぺこりと頭を下げた。雪も倣って軽く会釈した。
歩き出そうとすると腕時計が着信を伝えた。雪は手刀を切って一に断りを入れ、時計を着けた手を耳元にかざした。「こちら真白」
「おっすおっす、雪くん。ひょっとしてまだ学校?」
見の声だった。「まだ帰ってなかったら駐車場の方に来てよ。エデンに動きがあった」