第4話 悪童
足早に到着した庭園には小さな水具を片手に持った一の姿があった。庭園の草花には自動散布で水が撒かれる仕組みになっているが、装置の手の届かない範囲の植物にはこうして一部の生徒が水を灌ぐことになっている。
背の高い色とりどりの花に囲まれた一の姿は画になった。雪は思わず足を止めてしばしその絵画のような光景に見入った。
頭上から聞こえてきた微かな音が、雪の意識を引き戻した。上を見上げると、制服を着崩した何人かの人相の悪い生徒たちが屋上から、音を立てぬようひっそりと何かを柵の上に持ち上げているところだった。
彼らの手を離れ宙に放り出されたそのシルエットを見た時、雪は事態に気付いて叫んだ。
「一——!!」
彼が叫ぶより早く、頭上を見上げた一が、手から水具を取り落とした。しかし怯えたような瞳をしながらも、彼女は後退りかけた足を再びもとの位置に戻した。何をやってる? 雪は疑問を覚えながら、しかしもう迷わなかった。
花々の上を白い影が横切り、屋上数十メートルの高さから落下する一組の机と椅子の衝撃から、一の体を庇った。
鈍くも激しい音がして、雪の体の上を跳ねた鉄製の机と椅子が転がる。一の背中に、雪の息を呑む気配が伝わった。
「真白くん……」
「馬鹿野郎!!」
振り返った一の言葉を遮って雪が叫んだ。「何で避けようとしなかったんだ!」
そこまで言って雪は口をつぐんだ。一が頬に大粒の涙を流しながら、おろおろとこちらを見ていた。
「ごめんなさい、っ、のまえ、が、悪い子なせいで……」
一は呂律の回らない下で詫びる言葉を呟き続けた。雪は彼女が謝り続けるのを押しとどめて、上を見上げた。屋上では不良たちが舌打ちと共に撤収していくところであった。青髪の鋭い目の男と目が合った。彼は無言で雪を見下ろすと、やおら視線を外して立ち去った。
「……とりあえず、中へ入ろう。ここよりは安全だから」
保健室の戸には巡回中の札がかかっていて、誰もいなかった。今は職員会議中だから席を外しているのだろうと雪は判断した。10分もすれば戻ってくるはずだ。
「……怪我してない?」
一が恐る恐る雪の体に触れた。雪は肯いて大袈裟に肩を回して見せた。
「……当たり所が良かったのかな。それに体は丈夫なんだ。この通り平気だよ」
肉体を改造されているから、とは言えない。
雪は空いているベッドに腰掛けた。一は水道に近づいていって、ハンカチを冷水に浸して絞り、戻って来た。雪の額にハンカチを当てる。傷の具合を確かめるように顔を近づける。吐息が彼の睫毛をくすぐった。
健気に振舞いながらも、まだ少し赤い目の一が不憫になって、雪は声をかけた。
「……悪かったよ、急に怒鳴ったりして」
一がふるふると首を横に振った。
雪は思い返す。実際のところ、雪でなければ本当に死んでいてもおかしくない一撃だった。雪は真剣な目で答える。「それで……、教えてくれないか。何故君はあれを避けなかったんだ? 僕が割って入る前から、君はあれに気づいていたように見えた。それに君は他の彼等の攻撃も、いくつかは気付いた上で受け入れていたように思える。彼らと何か因縁でもあるのか」
心当たりがないという風に、一がまた首を振る。
「でも、のまえは悪い子だから仕方ないの……」
一は雪の額を冷やす手を止めて、両手を自分の膝の上に戻して俯いた。
「のまえのお母さん、のまえのせいで不幸になった。だからきっとこれは罰なの」
その時初めて雪は、一の長い前髪の下に大きな絆創膏が隠れていて、寒くも無いのに巻かれたマフラーがその首の包帯を隠すためのものだということに気付いた。
彼女は強くもなんともなかった。その肉体は普通の人間と変わる所の無い傷つきやすく脆いものだった。幼いころから母の目を気にして、殺意や敵意に勘付くくらい周囲の視線に敏感で、あらゆる不幸事を全て自分への罰として受け入れていた、ただそれだけの普通の女の子だった。当たり前のように怪我をして、それでも他人に心配をかけまいと、その苦しみの一切を覆い隠して見えないようにしていた。
雪は、言葉を詰まらせた。かけるべき言葉が宙を彷徨った。彼がおずおずと口を開いた時、扉が開いた。
「……あら、雪くん。来てたの」
保健室の戸を開けた葎が、意外そうに声をかけた。それから彼の隣の調査対象に目を移し、驚いた顔を浮かべ、真意を問うように雪に視線を向けた。
「……苦竹先生、お仕事は」
「今日はもう上がりだけど……、その子は?」
質問には答えず、雪は立ち上がった。
「彼女を家まで送っていってくれませんか。先生が付いていれば安心だから」
雪は耳打ちする。「……おそらく彼女は白です。怪我をしてる……、改造人間じゃありません」
葎は神妙に肯いた。「送っていくのはかまわないけど……、あなたはどこへ?」
雪は戸を潜りながら答えた。「『西棟の大教室』」
〇
「なあ、いつまでこんなことやるんだよ」
五頭は読みふけっていた文庫本から顔を上げ、銀縁の眼鏡越しに、声をかけてきた馬飼の青い髪を見返した。大教室は半年に一回の総会に学園中の不良たちが一堂に会している。百人を超える悪童たちでひしめき合った教室は騒がしく、熱に溢れていた。
「こんなことって?」
五頭は小説を机に置いて尋ね返した。馬飼が苛立たし気に舌打ちした。
「とぼけんなよ。一年の女子相手にちまちま嫌がらせみたいなこと続けてなぁ……。その上死ぬかもしれねえ罠まで仕掛けるなんてよ、俺たちのやり方じゃねえだろ」
「……仕方ないだろう。見境なく暴れていられたのは昔の時代だ。彼女には悪いが、こいつらの暴力を発散させる手段としては都合いい。何よりあの人の指示だし……」
五頭稔は紫の髪を後ろに撫でつけ、机の上に足を載せた。教室の最奥に構えたバリケードのような席で、あたりの様子を一望できた。「で、机を落とす指示はどうなった?」
「ああ、悪い、失敗だ。邪魔が入ってな……。というか流石にまずいぜ。ありゃいくらなんでも直接的すぎる。あくまで偶然を装って、っていう話じゃなかったか?」
「あの人もいい加減業を煮やしてるんだろう。あるいは、急がざるを得ない理由でもできたのか……」
彼の言葉を遮るように、ガラガラと激しく音を立てて教室の扉が開いた。教室の喧噪が静まり、戸口に視線が集まる。
黒のハイライトの入った白い髪の少年は、視線を集めたままつかつかと教壇に上り、不良たちに向き直った。
不良たちが目を合わせる。馬飼が五頭の方を見る。「見ねえ顔だな」
五頭が眼鏡を外して窘める。「新入生か。見ての通りここは貸し切りだ。カツアゲなんてチンケな真似はしねえから、早いとこ立ち去れ」
「ご心配ありがとうございます。でも今日は諸先輩方をブッ殺しに来たんです」
少年は白髪の下にわざとらしい笑顔を浮かべた。「あっ、と言っても本当に命までは奪わないのでご安心を。一般人の皆さんには、後遺症の残らない程度に痛い目を見せるにとどめておきます」
「優しくて涙が出るぜ」
馬飼がだるそうに青い前髪を払い、教室の隅の男に声を飛ばした。「おい柤岡ぁ、一年の仕切り役はお前だろ。舐められてんじゃねえか」
「すみません、馬飼さん」
柤岡と呼ばれたスキンヘッドの長身の学生が、背筋を伸ばして答える。それから素早く教壇に上り、少年にメンチを切る。「おいゴラァ!! テメエただで済むと思ってんのかこの野郎が!!!」
少年の腕が瞬時に動き、スキンヘッドの後頭部を掴む。柤岡の体が宙に浮き、顔面が黒板に叩きつけられる。黒板を皹割りながら、彼の頭は突き刺さるようにめり込んだ。
「来いよ悪童共」
スキンヘッドから手を離すと、少年は冷酷な光を湛えた瞳で振り向いた。「飯事と本物の違い、教えてやるから」