エピローグ Side-Boys(and Girls)/誕生日の子どもたち
かちかちという相も変わらない単調なリズムが、医務室の部屋の壁を這った。寸分の狂いもなく調整された計器の数々がこちらを見つめているように彼の眼には写った。
「数値の結果は正常ね」
葎が資料から顔を上げて、前と同じ台詞を発した。違っているのは雪の体のあちこちに包帯が巻かれていることだった。「一ヶ月でここまで治るのは、さすがの治癒力といったところかしら」
「腐っても『12人』の一人ですからね。模造品ですけど」
雪の言葉に葎はすっと視線を向けた。「……知ってたの?」
「祁答院から聞かされましてね。跡星も、似たようなことを言ってたし」
「そう……」
「彼のことは?」
雪はオリジナルのことを尋ねた。葎は少し逡巡する様子を見せたが、話すべき時が来たかというように唇を引き締めた。
「第五號、真白雪……、コンセプト『神曲』。4年前に改造手術を受けて量子器官の移植に成功した人物よ。詳しい目的は知らないけど……、その能力で数万年後の未来に飛ばされたと聞いてる」
「彼の細胞は、いつ……」
「……彼が幼い頃、バスの事故で入院したことがあったのだけど……、その病院が旧エデン製薬の系列だったの。その時に、ということらしいわ。入院時彼が示した検査結果から、彼が当時開発中だった複数の狂花帯に適合しうる素体だということが判明した。狂花帯に適合できる人間はごくわずか。それが『12人の怒れる男』が12人たる理由でもあるのだけれど……、まして複数の狂花帯に適合できる遺伝子はとてつもなく貴重だった。エデンは彼という格好の遺伝子をストックするため、開発中だったクローン培養技術を利用することにした」
「そして生まれたのが、僕……」
「ええ。実のところ、クローン実験は成功率が低くてね。途中で棄却され、結局成功したのはあなただけだった。……こう言ってはなんだけど、あなたは祝福されて生まれてきたわ」
「今さら慰めのつもりですか。僕は望まれて生を受けたのだと……。一を殺そうとしたくせに」
「組織としての判断よ。あの時私たちに選択できる手段は、あれしかなかった」
葎は顔を背け、立ち上がった。雪に背を向けたまま、窓から外の木々を見つめる。枝の先に鳥の巣が出来ていて、小鳥たちが親鳥の迎えを待ってくちばしを鳴らしていた。
「雪君。私はね……、あなたたち子供が戦場に行かなくていい世界をつくりたいの」
窓に手をついて葎が続ける。
「あなたたち子供は、大人たちに護られていなければならない。それは私達大人の義務なの。あなたたちはまだ未熟で、不安定で、そして可能性に満ちた存在だわ。世界の命運なんて重荷を背負わせるには、若すぎる。10代の子供たちに世界の平和を任せるなんて、フィクションで充分よ。ニノマエちゃんの行動で世界は救われたけれど……、もしそれがなかったら、どれだけの人が死んでいたと思うの? あなたは責任をとれた?」
雪は目を伏せて口ごもる。「それは……」
「紫が……局長が言っていたでしょう。あなたは何も考えず、命令に従っていればいいと。あれああなたを守るための彼女なりの優しさなのよ。あらゆる政治的判断には責任が伴う。大きな責任がね。彼女はあなたにそれを背負わせたくなかったのよ。あなたは彼女の『息子』だから」
「まさか。彼女は僕を捨てたんですよ」
「そのことを彼女に問い質したことがある?」
雪は首を横に振った。葎が頭を押さえて溜息をつく。「妙なところで似てるんだから」葎が振り返る。「いずれ本人の口から聞きなさい」
「……けれど」雪は不服そうに口を開く。「あなたたちは結局子供を戦わせている。それは矛盾ではないですか」
「そうね。それは矛盾であり……、ジレンマでもある」彼女は憂鬱そうに睫毛を上下させた。「治安維持局は組織としてまだ若い。人材も不足してるし、エデンに対抗できるほどのカードも揃っていない。公安や政府のしがらみも……。……個人的な感情だけで言えば、あなたや五頭君たちの登用には反対だわ。見君や染ちゃんにしても……」
「じゃあ……」雪は躊躇いがちに聞いた。「のまえのことは?」
「殺したいわけないじゃない」葎が苛立たし気に答える。「そもそもあの子の最初の暗殺命令に、私がどれだけストップをかけたと思ってるのよ。交渉に次ぐ交渉の末に、国家規模の人的被害が確定した場合のみ執行という条件にまで公安を譲歩させたのよ。それが無かったらあなたが学校に派遣された時点で、即暗殺の指令が出ていたはずだわ」
大体馬飼君たちの起用だって、あなたが勝手な判断で紫に話を通すから……。葎が久しぶりのお説教モードに入ったので、雪は荷物を抱えてそそくさと退散した。廊下を歩く足取りは少しだけ軽かった。のまえの味方になりたいと思ってくれている、そんな大人がいたことが嬉しかった。
窓から降りそそぐ陽射しが明るい。空気は暖かさを通り越してじわりと生暖かい。空はもうあの日の嵐など無かったかのように晴れ上がっている。雪は学ランを脱いでYシャツ一枚になる。
夏が、始まろうとしていた。
寄宿舎に戻ると、共用スペースで見がくつろいでいた。隣にのまえも居た。「や」見がソファーに頭を持たせて手を挙げる。共用部はがらんとしていて他に人もなく、机を業務内容の説明書が占領していた。
「さっそく先輩してるんですか」雪は見に尋ねた。例の騒動から一ヶ月……、のまえは保護の目的で、この寄宿舎に住まうことになっていた。政治的理由もあり、外交員の父親に全ての事情を説明するのは難しかったようだが、その辺は局長が尽力してくれたようだった。一応寄宿舎には職員しか住めないことになっているが、のまえは本格的な捜査には携わらず、ちょっとした仕事の手伝いをしてもらうということで落ち着いたらしい。
「そうそう、雪くんにこれ、返しとくよ」見が資料をまとめて立ち上がりながら、雪に何かを手渡した。金色の腕時計だった。「針は止まってたけど、機能は生きてたから修理しておいたよ。大事なもの?」
「いえ、安物ですよ。金も偽物だし。でもまあ、偽物は偽物なりに、もう少し付き合ってやろうかと」
「ふうん?」
見は分かったようなそうでもないような顔で応える。それから小さな声で付け加える。
「彼女のこと、ちゃんと見ていてあげてね。最近少し元気になってきたみたいだけど……、やっぱりワンちゃんのことで落ち込んでるみたいだから」
雪は小さく肯く。見が微笑む。「じゃ、僕はこの辺で。あとは若い人たちでよろしくやってくれ。僕は葎先生に送る愛の讃歌を書くので忙しいから」
「またですか? この前も作ってませんでしたっけ」
「2曲目だよ。B面ってやつさ」
見は手をひらひらと振って自室の方へ戻っていった。B面か。あんな風に情熱を注いで作られてるんなら、裏面もそんなに悪くないかもな。雪はのまえの隣に座りながら思った。
のまえの露わな首元がちらりと覗く。まだ首や額に傷跡が残ってはいたが、もうそれはマフラーで隠さなくてもいい程に薄らいでいた。
のまえが見の後姿を見てちょっと首を傾げる。
「あっちって、男子寮……」
「ああ、うん。見先輩は男性です」
雪の衝撃発言にのまえは目を白黒させた。それが可笑しくて雪は少し笑う。
「ねえ、のまえ」
のまえがこちらを振り向く。雪は指を交差させて、考えをまとめながら話した。「出会った頃にさ、君、僕に言っただろ。僕が君のことを嫌ってるってさ。あのこと、ちゃんと謝っておきたくて」
「……? 謝る?」のまえが不思議そうに問い返す。雪が肯く。
「あの時、僕は任務で君のことを標的にしていたんだ。それで僅かながら殺気が出ていたんだと思う。すまなかった。本当は僕は断るべきだったんだ。だって一目見た時から、こんな子を傷つけるなんて御免だって、心の裏で思ってたんだもの。……ああ、つまりね、何を言いたいかって言うとさ」雪は彼女の方を向き直って言う。「誰も君を嫌ってなんかいないってこと。見先輩は君のこと気にかけてくれてるし、五頭や馬飼たちもいたく反省してるみたいだ。苦竹先生や母さ……、局長だって、立場はあるかもしれないけど本心じゃ君を守ろうとしてくれてる」
祁答院、は、後で半殺しにしておく。とさすがに最後の言葉は自重しておいた。
「うん」のまえは、いつになく素直に肯いた。「分かってる。局長や苦竹先生とは……、たくさんお話したから」
「そっか」雪は頬を緩めた。
「で、雪くんは?」
「え?」
のまえがこちらにずいと顔を寄せる。「雪くんは、のまえのこと、嫌い……?」
潤んだとした瞳で迫られる。「いや、そのお……」やや予想外の展開に雪は目を逸らす。「嫌いじゃない、っていうよりもむしろ……、ほら、口に出すのは野暮と言いますか、ねえ?」
しどろもどろになる雪をのまえがくすくすと笑う。この妙に大胆なところ、なんだかニノマエを思い出すなあ。雪は頭を掻く。「前に『不意打ち』されたから、そのお返し」
のまえが告げる。雪はびっくりして手を下ろした。「何でそのこと……、あれはニノマエの時じゃ……」
のまえは悪戯っぽく笑って、あかんべーをする時のように左眼の下瞼に指を添えた。彼女の左眼が、ぼんやりと紅くなり、すぐに元の色へ戻った。
「あのね、私、消えてないよ」
「ニノマエ……」
「えっとね、正確に言うと、統合? って言うんだって。苦竹先生が教えてくれた。のまえとニノマエ、二つに分かれてた私が混ざり合って、溶け合って、一つの一々江に戻ったの。だからニノマエだった時の記憶も、意志も、性格も、力も、全部今ののまえと一緒になって残ってるんだよ」
のまえがにっこり微笑む。「さよならは言わないって言ったでしょ」
雪は安心したような驚いたような、泣きたいような気持になって、顔を柔らかにほころばせた。「じゃ……、新しいのまえの誕生ってわけだ」
「うん。生まれ変わったのまえをよろしくお願いします」
うんうん。雪は快活に肯いた。
「で、何が言いたいかと言うとね」
「?」
「今ののまえ、のまえとニノマエの気持ちが合わさってるってこと。そういう、わけだから……」
のまえが体を寄せる。頬に柔らかな感触がして、雪の思考は停止した。
ずいぶん長い時間だったような、一瞬だったような一時が過ぎて、唇が離れる。のまえは照れたように笑って言った。「二人分好き、なんて」
「……っ、の、のまえさん……」
雪は雪像のように固まって、しかしおよそ雪像らしくない真っ赤な顔を隠すこともできずぎこちなく呼びかけた。一々江が返事をする。雪は口を開く。ああ、残間の野郎がこの場にいなくて良かった、などと思いながら、高鳴る心臓が示している偽りない気持ちを言葉にした。
『天使編』 完




