第23話 去(い)ぬ
本部を飛び出したのまえの前に、一台のバイクが飛び出してきて、行く手を阻んだ。
「乗りな、一」
のまえは彼の白い眼帯を眺めた。
「あっ、学校の、えっと……」
「五頭だ。……どうせ却下されたんだろ、お前一人で行く案。連れていってやる」
五頭が自分の空挺の背を示した。
「どのみち俺は多摩一帯の防衛を任されてる。このまま北上して車と群衆の群れを突っ切り、先行隊と合流する予定だ。バイクならすり抜けていけるからな。もっとも、最後は自分の足頼みになるが……、いけるか?」
のまえは後ろ髪が跳ねるほど強く肯き、バイクの後ろに跨った。「ありがとう、五頭先輩」
「礼なんて受ける資格、ねえよ。……こいつは俺たちの贖罪だ」
五頭は低く呟いてエンジンをふかした。唸り声を上げて、ブルームが夜を切り裂いていく。
〇
どこからともなく反響する水滴の細かな音が、単調に時を刻む。冷たい月の影が深雪のように白い床を濡らし、雪の足を浸していた。雪は鎖に繋がれた腕を重く垂れ下げ、膝を組んだまま長いこと押し黙っていた。
「そう気を落とすなよ、『真白雪』くん」
伊邪那がこちらに背を向けて何やら工具をいじりながら、軽い調子で言った。
「どうだい、いっそ開き直ってこっちに付かないか? 役割を与えてくれるという点では、エデンも伏魔殿も同じだろう?」
「お前の良いようには動かない」
雪は落ちくぼんだ目を向けて答えた。
「ふふ、一ちゃんの件で恨みを買ってしまったかな」伊邪那はドライバーを右に回すと満足げに肯いて立ち上がった。それから檻の方を振り返る。「正直ね、君らは僕のお気に入りなんだ。だからこのくらいでへこたれてもらっちゃ詰まらない。本気の殺意で殺しに来てほしいんだ。窮地は生命を進化へと導くからねえ」
「なら今すぐ、その願いを叶えてやろうか?」
雪は鎖を鳴らして応じる。顔を上げ、敵を睨みつける。中指に力を籠め、タイルの破片を指弾で弾き飛ばした。檻の隙間から飛び出した弾丸が、伊邪那の首に突き刺さった。
「ふふ、焦らない、焦らない」
伊邪那は慌てた様子もなく頸から破片を摘まみ出した。傷口から覗いたのは毒々しい血流ではなく、火花を散らす回路のようなものだった。
「遠隔操作の自動人形にホログラムをかぶせてるんだ。暗がりだとちょっと見分けがつかないよね」
「ここに居るお前は、機械の分身ってわけか」
「今日だけ特別にね。操縦と撮影は人がいない部屋でやることをお勧めするよ。今の僕、傍から見たらすごく間抜けだから」伊邪那はゴーグルを外すような仕草をして当たりを見渡した。どこかにいる本体が自室を見回しているところなのだろう。
「ま、そういうわけでね。君と僕の対決はお預けということさ。まだその時じゃないしね。今日のメインディッシュは、そろそろ到着する予定だよ」
伊邪那は近くの機器を操作して幻燈を映し出した。近くの防犯カメラらしき映像に、鳥のような素早い影が横切る。雪の強化された動体視力がそれを捉えた。「五頭と……、一?」
雪が驚きの声を漏らす。伊邪那が鋼鉄の頬を緩め、ほくそ笑んだ。「ビンゴ……」
〇
声高な嗤い声とともに衝撃波が起こり、横転してきたトラックがバイクを襲う。その下を、横倒しにしたブルームが滑るようにすり抜けていく。辛うじて下敷きを免れながらも、五頭は地面に接触して転がり、放り出されたバイクが乗り捨てられた車両に激突して爆発した。
「痛ってぇ……。一、無事か?」
皹の入ったヘルメットを脱ぎ捨てて、五頭が起き上がる。のまえはこんもりと茂った柔らかい植木の中から顔を突き出した。「大丈夫」
「凄まじい幸運だな。ここに来るまで偶然、誰にも見つからなかったことも含め。……苦竹から聞いてた通りの力だ」
「もう一人ののまえの力だよ。のまえはなんにも……」植木から這い出したのまえは、服をはたいて小枝と葉を落としながら言って、口をつぐんだ。
「何にせよ、今はその力の出番だろ」五頭は少し先に見える廃墟を見上げて言った。「進め。どの道俺が案内できるのはここまでみたいだ。『奴ら』は引きつけておくから、その間に真白を救けに行け」
のまえは決意を孕んだ表情で肯き、踵を返して廃墟の方へ走っていった。
わらわらと近づいてくる足音に、五頭は振り返る。二十人近い敵の影が、炎に照らされて大きく伸び、アスファルトの上に揺れる。五頭は無言で首を鳴らした。
死んだように静まる白い廃墟の中で、自分の息と足音だけが聞こえる。遠くの方に灯りが見える。のまえは散らばった工具や薬品の上を跳び越え、ぼんやりと光の漏れる扉に飛びついた。息を整える。とても危険な場所に飛び込んでいるというのに、あまり現実感がない。あるいは本来自分が感じているはずの恐怖や緊張、躊躇いは、別の自分が肩代わりしてくれているのかもしれなかった。
それは自分が背負うべき業なのだ。のまえは思う。だけど今は、そのもう一人に再び頼らなくてはいけない。皆が求めているのは……、彼女の方なのだ。
扉を押し開ける。眩い光に包まれた、ような気がした。だが明りは僅かな月影と小さな照明ばかりだった。異様に純白な部屋にそれは反射し、きらきらと青ざめた輝きで部屋を満たしていた。
ぱちぱちと拍手が鳴り響く。のまえは部屋の中央に視線を走らせる、ボストンバッグのような箱の上に腰掛けた祁答院伊邪那が、教室で挨拶を交わすような気楽さで声をかける。
「よく来たねえ、一さん」
「え……、祁答院くん。なんで……」
「来ては駄目だのまえ! そいつに近づくな!」
雪の警告が飛んでくる。目を向けると赤錆のついた鉄格子に食らいつくようにして、膝立ちで叫ぶ雪の姿があった。状況は呑み込めない。だが今誰が味方かで誰が敵かということはすぐに察しがついた。のまえは扉の外には引かず、伊邪那から距離をとるように壁際を進んだ。
「そう警戒しなくても大丈夫だよ、一さん。知らない仲でもない、中学からの好じゃないか、え? さっ、雪くんを解放して介抱してやってくれ。鍵はこの中に有る」
伊邪那は腰を上げ、箱をぽんと叩いた。何か、禍々しい瘴気をそこから感じる。本能が、あるいはもう一人の自分が、触れてはならないと警告していた。……しかし同時に強く、引きつけられる何かを感じてもいた。
引き受けなければならない。
のまえの頭にちらりとそんな感情がよぎる。自分は罰を受け入れなければならない。飽きるほど刷り込まれた罪の意識。降りかかる不幸に自ら踏み込んでいけという、いつもの誘惑だった。
伊邪那が人好きのする笑顔で、ボストンバッグを足の裏で押す。床を滑って、それはのまえの少し手前に落ち着いた。自分は手出しをしない、と言うかのように両手を上げて、伊邪那が先を促す。雪の制止も耳に入らない。嘘だと分かっている、罠だと気づいている、にもかかわらず、いやそうであるほどに、腐臭を放つそれをのまえは、開かざるを得なかった。
世界が傾いだ。
函の中から覗いた、光の無い黒い瞳と目が合う。声にならない叫びが、のまえの喉から零れた。膝を付く。血に汚れることもかまわず、箱の中の「それ」をもがくように抱きしめる。透明な絶望が目の奥から滲み出て、乾いた頬を伝う。そして肚の底から感じたことのないどす黒い感情が噴き出てくるのを感じた。
雪が檻に額を叩きつけて叫ぶ。「この腐れ外道がッ!!」生きていた頃の「それ」を真似るように、右手をぱくぱくと開閉させて伊邪那が吠える。「バウワウ!!」
彼はつかつかと歩いてくると、愉快そうに彼女の肩に手を置いた。
「いやあ、僕は優秀な部下に恵まれていてねえ。彼らが上手いこと、君のその弱点を用意してきてくれたんだ。ま、『函に詰めやすく』したのは僕だけど」ちょきちょきと二本の指で己の首を挟む。「……ほら、君って自分のために怒らないだろう? でも生活を共にする『家族』のことなら、感情的にさせられるって思ったんだよ。まあ君ってばそのワンちゃんに首ったけだったものね!」
それから目を細めて囁く。「お父さんの方じゃなくて良かったね?」
一が慟哭する。見開いた右眼が緋く輝き、大地がその感情に呼応するように鳴動する。
「ははっ、すっげえ」
天災すらも引き起こすニノマエの力に、伊邪那が反応する。廃屋を揺らす地震に耐えかね、屋根の朽ちた鉄骨が降りそそぐ。それは器用にニノマエを避け、伊邪那の分身の体だけを叩き潰した。歯車が飛び出て、コードが放水したホースのようにぐるぐるとうねる。「わはははははははは」ホログラムが明滅して失われる。伊邪那の抑揚の無い笑い声がむき出しになった喉の拡声装置から吹き出す。
突如として巻き起こった暴風が当たりを包む。屋根が剥がれ落ち、ばらばらと床の上に崩れ、外から流れて来た激しい雨が部屋を浸す。
「落ち着けのまえ!! ニノマエ!!」
しかし雪の声など届いていないかのようにニノマエは激しく噎ぶ。小さな嵐が吹き荒れ、部屋の壁も器物も手当たり次第に破壊していく。
「無駄だよ雪くん」自動人形が伊邪那の声を届ける。「祁答院、何をした!!」雪が鎖を振り乱して叫ぶ。
「見ての通り、彼女を暴走状態に追い込んだのさ。狂花帯の能力を使役するのは当人の人格に他ならない。では人格の干渉を避け、その力を外部からコントロールするには? 答えは簡単、我を失わせればいい」
風を縫って伊邪那の声が届く。
「彼女は今、理性を失っている。いわば深層心理が露呈している状態だ。この部屋に仕込んだサブリミナル装置が、彼女に暗示を与える。今この一時、彼女の力は我々の手中にあると言っていい。……だからこんなことも出来る」
剥がれた屋根の一部がブーメランのように飛んできて、檻ごと雪の躰を吹き飛ばした。壁に叩きつけられた雪は思わず声を上げる。
「まだまだこんなものじゃないよ」伊邪那の叫びと共に、真っ白な床が突如として光の模様を描き、ニノマエを包む。「何だ!」雪が鎖を破壊しようともがきながら唸る。
遠くに雷鳴が轟き、山が地滑りを起こし始めた。何かが起きようとしている気配があった。
「……かつてエデンは同じ作戦を起こし、第一號の能力をコントロールしようとした」
伊邪那が叫ぶ。「だがそれは失敗に終わった。作戦は凍結され、強大すぎる力を持った第一號はエデンの手によって、二度と日の目を見ることが無いよう封印された。僕は今そのパンドラの箱を少しだけ開いている! ここはかつて能力の遠隔起動の実験に使用されていた施設だ。設備を復旧させ、その一部を流用した。ここを選んだのはそれを利用するためだったのさ。……この方陣を通して、一ちゃんは第一號と共鳴しつつある。贋作にすぎない彼女が、一時的に第一號に近い力を発揮することができるんだ! 今の彼女は世界にどんな影響だって与えられる。核を暴発させてもいい、人工衛星を雨と降らせてもいい、エデンにとって都合の悪い世界中の団体や人間を、一斉に潰すことだってできる」
伊邪那の高笑いが響く。「世界は僕らの手の中だ」
「……そいつは、いただけねえな」
雪の背後、破れた壁の隙間から、否む声が割って入る。
「……! 誰だ?」伊邪那が叫ぶ。銃声が続けざまに轟き、皹割れた壁を拳が砕き突き破った。
雪は目を見張る。がらがらと崩れた瓦礫の中に、見覚えのある影が乗り込んできた。
「通りすがりの博打打ちだよ」
吹き荒ぶ風に伸びた黒髪をなびかせながら、残間愛が答えた。




