第21話 黒い記憶
壁に掛かった年代物の振り子時計が、規則正しいリズムをメトロノームのように刻んだ。秒針の立てる気忙しい音が部屋の中を往復し、ぴりついた会議室の空気を横切っていった。神経質なその音を掻き消そうとでもするかのように、局長の注連野紫は机の横をうろうろと歩き回った。「遅すぎる」
「あなたが落ち着かないでどうするの」
椅子に深く腰掛けた葎が、足を組みかえながら言った。隣では机をじっと見る目る姿勢のまま、のまえが俯いている。
「真白隊員の消息が途絶えて丸二日だぞ。今までこんなことは無かった」
「バイタル情報からして、少なくとも二日前時点での生存は確認できてるわ。かなり弱ってはいるけど」
「そんなことは分かっている。だからこうして捜索して……」
会議室の扉が勢いよく開いて、染が足早に入り込んでくる。
「駄目でした。GPS反応の途絶えた奥多摩周辺の施設を洗ってみましたが、監視カメラにはそれらしい人物や移送車の姿はありませんでした。念のため裏カジノ一帯の廃ビルも捜査しましたが、監禁の形跡は残っていません。付近のマンホールに器具を用いてこじ開けた痕跡があり、地下通路を通って郊外へ逃にげられた可能性があります」
「となると、追跡は困難ね」
葎が嘆息した。「あの、カジノの中に拘禁されている可能性は……?」染が不安にやつれた顔で尋ねる。
「カジノの混乱を見るにあり得ないな。どうも残間まで攫われたみたいだ。それに一君の話を聞くに、彼女に接触を図った少女はエデン側の改造人間と見て間違いない。つまり真白隊員は十中八九、エデンのアジトに連れ去られている」
「地下通路を通っていったなら、奥多摩からそう遠くは無いわね。あの辺で電波の遮蔽措置がとれるような施設は限られているはず……」
葎がはっとしたように口を開けた。「あの場所なら……」
「どうした?」
注連野が視線を向ける。
「奥多摩の山奥にいくつか、エデンの製薬会社時代の施設があるわ。5年前の組織解体時に放棄された場所だけど、設備を整え直せばあるいは……」
「! 良いタイミングだ」注連野の腕時計がコールサインを発する。見からのコールを注連野が受け取る。「鴛原隊員、丁度君に連絡しようと思っていたところだ。奥多摩の送電設備からの電力供給状況を調べて、最近再稼働した施設がないか調べてくれ!」
「申し訳ありませんが局長、緊急通達です! こちらを優先し、今すぐ指揮官室にお戻りください」
「なんだこんな時に?」
見の慌てたような声が回線を通して空気を揺らした。
「エデンの構成員らが関東一帯で一斉蜂起!! その数一千……! 量産型の強化人間と思われます!!」
〇
記憶のアルバムの最も古いページにある景色は、視界一杯に広がる灰色の液体だった。音もなく、光もなく、匂いもなく、世界には自分だけであり、自分だけが世界であった。どれくらい長くそこに居たのかは覚えていない。生後間もない数ヶ月の間だったのかもしれないし、立って歩ける程度に成長するまでだったのかもしれない。とにかく次に覚えている記憶の中では、彼は無機質な地面を覚束ない足どりで歩いていた。何に向かって歩いているのかも分からなかった。だが「それ」は、転びそうになる自分を、抱きとめてくれる柔らかな存在だった。そこには鼓動があり、色彩があり、優しい香りがあった。自己と分離した世界の中で初めて認識した他者のことを、彼はいつしか母と呼ぶようになった。彼女もまた彼に与えられた名で彼を呼んだ。それが「真白雪」の始まりだった。
少年は生まれつき色の無い真っ白な髪をしていた。彼は「母」の鮮やかな髪が好きだった。時折仰ぐことを許された空のような水色と、彼女がよくくれたロリポップ・キャンディーのようなピンクの混じった長い髪を、彼は自分にない美しさだと思った。その二つの色を混ぜ合わせてできる紫という色が、彼女の名前なのだと彼女は教えてくれた。
少年の周りには何人もの大人が居た。白い壁に囲まれた施設の中で、子供と呼べる存在は彼ともう一人の少女の2人だけであった。大人たちが彼らに注ぐ視線は奇妙だった。施設でたくさん飼われていた実験動物たちを見るような目で、いつも何かを計っているようだった。
少年が心を許したのは「母」とその少女だけだった。「母」は少年に愛を教え、少年はその愛をまた少女に分け与えた。そこは狭い檻であり、幸福な庭だった。幼い彼にはそれで十分だった。彼はその小さな箱庭の中で全てを学び、人並の成長をした。そうして8つになったある日、彼は初めて施設の外に出ることを許された。全てが新鮮で、刺激的だった。夢のような時間の中で、彼は言われるがまま命じられた最初の「仕事」をこなした。こうして彼は外の世界を手にしたのだった。それまでの世界の全てと引き換えに。
数日して大人たちに手を引かれ、少年が施設に帰った。施設の大人たちは彼を称賛した。嬉しいとも思わなかった。しかし初めて目にした外界の興奮は、瞼の奥に煌いていた。少年は外の世界を知らない少女に、真っ先に語ってあげようと思った。だがいつもの窓の無い部屋の中には、彼女の姿は無かった。少年は大人たちに尋ねた。大人たちは答えた。彼女は死んでしまった、と。
死の意味を少年は理解できなかった。彼が一つ前の晩にそれを「もたらした」時と同様、彼にとってはそれは曖昧模糊とした概念だったのだ。だが標的が沈黙した時の「仕事」の感触が、どことなく恐ろしいものであることを彼はぼんやりと思い出すことができた。そして彼はそこでやっと、その場に「母」が居ないことに気付いた。
彼はどこか体の底が冷えるような恐怖に駆られて、再び大人たちに尋ねた。大人たちはまた答えた。『彼女はお前を捨てたのだ』、と。その言葉は耳に届くよりも早く、彼の脳に刻まれていた。
少年の世界は再び色彩を失った。モノクロの日々の中で無感情に「仕事」を終わらせていった。日々はただ積み重なっていくだけだった。視える未来は色褪せて同じ顔をしているようだった。
2年の歳月が経った或る夜、少年は施設の燃え落ちる夢を視た。目を覚ますと辺りは騒がしく、燻製の臭いがした。少年は枕元に置いた金時計を見た。任務のために与えられた、紛いの黄金の腕時計だ。深夜4時、周囲がどれだけ喧噪に包まれようと、それはいつものようにどうでも良かった。彼は時計を置き直し、窓の無い部屋の中で寝返りを打った。
部屋の戸が開く音がした。「起きろ」戸口から声が飛んできた。また「仕事」か。彼は気だるく起き上がった。しかしそこに伸びた影がいつもの大人たちでないことに気付いた。
「我々は治安維持局だ。一緒に来い」
聞き覚えのある声に彼は顔を挙げた。空色にピンクを混ぜたセミロングの髪の下に、警察手帳が掲げられていた。「公安警察治安維持局局長 注連野 紫」。彼のよく知る名前が並んでいた。目を見張る彼の前で、彼女は少しだけ悲しそうに頬を緩めた。「……久しぶりね、雪」
「……母さん」
雪は微かに呟いて、薄っすらと目を開いた。倉庫のような大きく無機質な部屋の白い壁が、鉄格子の隙間から広がっている。血管のように伸びたパイプが部屋の隅の巨大な時計に繋がっている。壁を覆いつくすほどの存在感の電子機械はしかし、既に役目を終えて眠りについたように錆びついていて、動きを止めた針は二本とも先が折れていた。彼は白く眩しい部屋に目をしばたかせ、自分がまるで幼少期に戻ったような錯覚を覚えた。しかしその感覚も、檻の外から聞こえてくる手を叩く音に掻き消された。
「いやぁ、こいつは大穴だ。目覚め立て開口一番、誰の名前を呼ぶかと思ったがまさかの母親とはね」
雪は声のする方に視線を走らせた。黒衣のコートに身を包み、大きな旅行鞄のような箱の上に座った祁答院伊邪那の姿があった。
「祁答院……?」雪が驚いて目を見開く。伊邪那は頭に載せた学帽を軽く持ち上げて応えた。
「しかし想定外だったな。僕の予想じゃ、君は幼馴染の名前を呟くはずだったんだがね。でなければ愛しの一ちゃんかと。両親を持たないお前が母を呼ぶなんて、全国のマザコン諸氏にも想像できなかっただろうね」
「……ここは何処だ。それに何故お前がいる。……僕はどのくらい眠ってた? まるで何日も風呂に入っていないようなひどい臭いだ」
雪は無視して質問を投げる。
「やれやれ。質問は一つずつにしてくれよ」伊邪那が肩をすくめる。「ここはエデンの廃施設。僕がいるのはそのエデンの一員だから。丸二日眠りこけてたけど君は臭くないから安心しろ。これでいいかい?」
「質問がさらに増えそうな回答だな」
雪は片頬を歪めて笑った。
「……跡星もお前の差し金か」
「いや、あの教師は幹部会の連中の手駒さ」伊邪那が頬杖を突いて返す。「僕はちょっと別系統でね。まあ上に縛られず独自に動いてるってわけさ。こんなものを用意したり」彼は尻に敷いている箱を叩いた。「手駒にした関東中の非行少年たちを野に放ったりね」
「……裏番」雪は牛頭馬頭の話を思い出して呟く。「お前がそうだったのか」
「こつこつ数を揃えてね。エデンでは量産型強化手術の技術は完成していたけど、兵隊をどう集めるかが課題だったんだ。そこで僕が一肌脱いだってわけ。この時代、都会には若気と鬱屈を募らせた爆発寸前の青少年たちが溢れかえってる。彼らのような腐った蜜柑を見事な時計仕掛けのオレンジに仕立て上げることが僕の仕事だった。今頃街は乱痴気騒ぎだろうね」
哀しいことに、我が校の生徒は手を離れてしまったが。伊邪那は芝居がかった仕草で嘆く。「ま、牛頭馬頭一派はもう用済みだからかまわないけどね。彼らは僕の指示通り、いい具合に一ちゃんへプレッシャーを掛け続けてくれた。彼女を見つけたのは部下集めのために学校を転々としていた結果の偶然だったけれど、牛頭馬頭くんたちが苛めぬいてくれたおかげで彼女の力を引き出すことができた。その身を危険に曝すことで能力の覚醒を促したんだ」
「そうか、あれもお前の仕業だったな……!」
雪は語気を荒げ壁を殴りつけた。
「たしかに牛頭馬頭はあれを裏番の指示と言っていた……。だが跡星は彼女を始末することを考えていた。能力が邪魔になると考えたんだ。お前の方針とは矛盾する。暴徒の解放といい……、お前は何を企んでる」
「今に分かるさ。まあエデンも一枚岩じゃないってこと。でも手綱を握るのが一人なら問題ない」
「手綱……」雪は少し口を止めて考える。「お前らの頭か」
「枢機卿」伊邪那は明瞭な発音で答える。「僕らはそう呼んでいるよ。人類を次の段階に進める、導き手のようなお方だ。僕はその直属部隊の隊長ってところ」
「次の段階……か。だがその末路はこれだぜ」
雪は鎖に繋がれた自身の体を見て言い放つ。伊邪那は笑って否む。
「君はまだその段階にいないよ。改造人間は所詮人間の延長でしかない。僕らの目指している姿には程遠い」
雪は鎖をじゃらじゃらと鳴らしながら立ち上がり、伊邪那を見返す。
「なら何になろうって言うんだ?」
伊邪那がにこりとして、箱を足で叩く。「……『セブン』という映画を観たことがあるかい?」
「2世紀前のサスペンス映画だろ。それがどうした」
雪は怪訝な顔で尋ね返す。伊邪那は話が早いという風に機嫌よく立ち上がる。
「ディカプリオの最後の演技が好きでね」伊邪那は額に手を当てて物真似る。「『オー、ゴッド!!』」それから腕を下ろしてにやりとする。
「つまりね、枢機卿猊下が目指しているのは、永遠にして不滅の存在。『神』ってことだよ」伊邪那は瞳に怪しげな光を宿らせて続ける。
「『最後の天才』ニコラ博士の考案した、『人類を死の運命から解き放つ12のコンセプト』。それを体現したのが君を含む『12人の怒れる男』だ。止まることのない心臓、時間の呪縛からの解放、現実への介入…、12人の改造はそれぞれ死を克服するための別種のコンセプトに基づいている。だがどれもこれも疑似的な不死にすぎない。完全なる不朽の存在に至るには……」
伊邪那はそこで口を閉ざした。「……まあ、具体的なことを君が知る必要はないよ。君は今のところ『餌として使える』レベルに過ぎないし、伏魔殿の連中に詳細を嗅ぎ回られても面倒だしね」
「僕の身分まで調査済みってわけか」
「君が思ってる以上にね」伊邪那が意味あり気に目を細める。
「君は自分自身のアイデンティティについて考えたことがあるかい?」
「……何だよ、思春期か?」
伊邪那は笑っていなす。「強がるなよ。君は何よりも強くそれを求めてる。借り物の名前、焼き増しの遺伝子、偽りの家族……、君を君たらしめるものの全てが紛い物にすぎない。空っぽの君は、とり憑かれたように任務をこなし続けるしかない。社会から与えられた役割だけが、君の輪郭をどうにか保たせてくれるからだ」
「……ずいぶんと、知った風な口を聞くんだな」
自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。白い壁が迫ってくるように雪の視界を圧迫する。訊いてはならない。聞くべきではない。本能がそう告げている。だが雪は言葉を繋げる。「お前が俺の何を知ってる?」
伊邪那の口が、真っ赤な三日月のようにぱかりと開く。「君は代替物だ」
雪の虚ろな瞳に自分を写すように、伊邪那は顔を寄せた。「本当は気づいてるんだろう? 君は真白雪であって真白雪じゃない。本物の真白雪は未来にいる。君は彼の細胞をもとに造られた複製なんだよ」




