プロローグ remain/裏面
神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。あの時から僕たちには未来なんて無く、ただきっと何者にもなれないってことだけがはっきりしてたんだから。(『輪るピングドラム』)
スピーカーから溢れたレコードのスロービートな音楽が、廃ビルの中を館内放送のように流れる。今日日珍らしく壁面を蔦が這う、いかにもな廃墟に放送器具が残っているのは、その幽霊ビルがひっそりと存命していることを裏付ける証拠だった。事実、突如として流れ出した音楽に反応して、ビルの上階に微かなざわめきの気配があった。
その廃屋の階段を、緩やかなメロディーに合わせて登る一人の少年の姿があった。彼は鼻歌を止めると、白に金の混ざった頭を壁に寄せ、上から降ってくる人声の反響に耳を澄ませた。それから鈍い金盤の腕時計を口元に近づけ、話しかけるように呟く。
「6階ですかね。情報通りだ」
イヤフォンから高めの涼やかな声が応答する。「事前調査によると、敵は大部屋に固まって潜伏してる。出入りが確認されてるだけで三十人、銃器の売買の形跡もある。油断はしないで」
少年は気怠げに返事をしつつ、5階の階段を進んだ。それなりの段数を上ってきたはずだが、息が切れている様子はない。
6階のフロアに辿り着くと同時に奥の部屋のドアが開いて、四、五人の褐色の男たちがどやどやと出てきた。放送室の場所を確認しあっている所を見ると、自分たちの他誰もいないはずの廃ビルに突然流れ出した謎の音楽の出所を探るために、遣いに出されたらしい。彼等は廊下の突き当りに立って真っ直ぐこちらを歩いてくる少年の姿を見止めると、一瞬驚いた様子で固まり、それからすぐに腰の裏に手を回した。
「何だ手前」
「君らの大好きなイエロー・モンキーだよ。南米から薬を輸入して捌いてる悪いお兄さん方に、引導を渡しに来たんだ」
彼は指を鎌の形にして小さく振ってみせた。「悪いけど投降してくれないかな。ここで死体を作ると、下まで運ぶのが面倒なんだ」
「ガキが……、舐めた口聞きやがって」男たちは腰元から素早く拳銃を抜き出すと、躊躇わず引き金を引いた。頭髪の白から毛先の金へのグラデーションが美しい少年の髪を、熱線がすれすれに通り抜け、背後の壁に焼け跡を作る。
「惜しいねえ。でもこの距離で自動照準付きなら、最低でも耳に掠るくらいじゃなきゃあ」
少年は一切歩調を緩めることなく、悠然と歩いていく。
男たちは舌打ちして、鈍色の拳銃を乱れ撃ちする。少年の肩が揺れる。素早く身をかがめ床を蹴った少年の体が、廊下の壁や天井を目にも止まらぬ速さで跳躍する。無数の弾丸がその側を虚しく通り過ぎていく。
「くそッ、化け物がッ!! お前ら応援呼べ!!」
先頭の男が戸口に近い仲間たちに合図を出す。後ろの男たちは銃を下ろして部屋の中に慌ただしく姿を消すのを横目で確認し、先頭の男は再びを銃口を廊下に向けた。……少年の姿が見当たらなかった。
「どこ行きやがった……」
きょろきょろとあたりを見渡した男のこめかみに、冷たい感触が突きつけられる。続いて、遅れて手の痺れが襲って来た。気づけば握っていた拳銃が少年の手に渡っている。
「余所見はいけないよ、お兄さん」
「いつの間っ……」黒服の罅割れたサングラスが、脳髄と共に壁に飛び散った。
返り血を浴びた少年がドアを開けると数十人の男たちが手に手に武器を携えて、彼を待ち構えている。「あいつです」先程廊下にいた褐色の男の一人が少年を指さす。奥のソファにどっかりと座ったドレッドヘアの男が、面倒そうに合図する。
「見りゃ分かる。撃て」
少年の体が躍動する。広い部屋を斜めに横切り、風のように銃声の間を駆け抜けていく。飛び交う蒸気弾の間隙を縫うように、凄まじい速さで突き進む。
「畜生、なんで当たらねえ!」
男の無情な叫びが膝蹴りの中に吸い込まれていく。銃弾は駆け抜ける少年の遥か後方を追いかける。飛び散った歯を蹴散らして少年の拳が男たちを薙ぎ倒していく。
「死ねやァ!!」少年は背後から真一文字に振り下ろされる牛刀の長い白刃をひらりと躱す。床に着いた刀身を踏みつけて地面に突き刺すと、回し蹴りで峰を勢いよく折ってしまう。そのまま体勢の崩れた敵の頭を、熱線で吹き飛ばす。放り出された刀の柄を空中で掴むと、銃を構えた男たちを折れた刃で薙ぎ払った。
「退けぇ!!」
部屋の奥からドレッドヘアの親玉が叫んだ。手には精巧な大型の電子放銃が握られている。少年は雑兵の残りを銃で撃ち抜きながら舌打ちした。長椅子の裏に走りこむ少年に狙いを定め、砲身に集まった光の粒子が巨大な光球を形成する。轟音を上げて雷の球が駆け抜ける。一面が白く染まり、衝撃波とともに壁と床の一角が爆ぜて消えた。少年の熱線銃が吹き飛んで床を転がるのが見えた。
「さすがにくたばったろ……」
後部の排熱口から熱風を吹き出す重火器を下げて、親玉は粉塵の中に目を凝らした。
「当たればね」
煙の中から、ゆらりと少年が現れる。ドレッドヘアが目を見張って尋ねる。「……どういう手品だ」
少年は立ち止まって天井を指さす。剥き出しのパイプが蛇のように這っていた。「上……。長椅子の裏に隠れてすぐ、煙と光に紛れて跳び……、天井に張り付いた」
「人間に届く高さかよ。猿みてえなバネだな……」男はまじまじと少年を見つめる。「あの噂は本当だったか」
「噂って?」
ドレッドヘアは観念したかのように机に腰を下ろす。「『12人の怒れる男』……、旧エデン製薬の実験体・12人の改造人間がこの日本に解き放たれてるって話……。脱走した新時代の戦争兵器たち、どこの組織もそいつらを囲い込もうと血眼だぜ。俺たちみたいな落ち目のマフィア崩れでも、そいつら一人でも味方に付けられれば、裏社会を牛耳ることができる。……お前がその改人なんだろ。どこの組織に雇われてきた?」
「君らとは正反対の組織さ。伏魔殿の名に聞き覚えは?」
男が故郷の言葉で悪態をつく。「治安維持局か」
少年が肯く。男がじろりと彼を睨みつける。「公安の犬が、俺たちみたいな零細組織に何の用だ」
「その零細組織にこれだけのハイテク武器を横流ししてる連中に、用があってね。と言ってもその様子じゃ、彼らとも仲介人を通じてしか接触してないみたいだね」
「ああ。知っているのは組織の通称だけだ」男は盗聴でも警戒するかのように、低い声で伝えた。「『エデン』……それが奴らの組織名だよ、モンキー」
「……その改造人間を生み出した、旧エデン製薬……の、残党が、あんた達の取引相手だよ」
男が狐につままれたような顔をする。「名前で気付かないかな」少年が呆れたようにぼやく。奇妙な静寂を、相変わらず垂れ流しになっている音楽が埋めていく。
「なあ、ところでこりゃなんの真似なんだ」
男が天上を見上げて尋ねる。曲が途切れ、二曲目に移る。同じ二曲が繰り返し流れていた。
「このビルから隠れ場所を探すのは、骨が折れそうだったからね。隠し部屋に潜んでいる可能性もあったし。そこでちょっとした騒ぎを起こして、正確な居場所を炙り出そうとしたわけさ」
少年は目を閉じ、音楽に耳を傾ける。「B面よりA面の曲の方が好きなんだけどね。レコードを買ったことがある? 21世紀に廃れた文化だけど、今から200年前にはそういう音楽媒体があったんだよ。B面というのは裏面のことで、タイトル曲でない方の地味な曲のことを言うんだよ。まあ今流してるのは、当時の録音だけど……」
「俺はこっちの地味な方が好きだな」
「そう? 大人だね。光があれば影がある。華やかな表の人間がいるなら、裏稼業の人間もいる。僕は表の方に憧れるけど」
役目を果たしたというように、曲がぷつりと途切れる。少年が次の曲に聴き入ろうと顔を上げた隙を、ドレッドヘアは見逃さなかった。重さ20キロはある重厚な砲身を素早く構え直し、少年に向けてスイッチを捻った。
完全に不意を突いたはずだった。しかし少年はまるで未来を知っていたかのように俊敏に反応し、ドレッドヘアが構えると同時に折れた牛刀を投擲していた。
大きく口を開けた銃口に、刀身が深々と突き刺さる。青白い光を放ちながら電気銃は爆発し、ドレッドヘアの男の体をばらばらに引き裂いた。
「任務報告、2248年3月31日、対象組織の壊滅を確認。金庫からブローカーとの取引資料と、闇カジノの会員証が二枚見つかりました。尻尾の先くらいは掴めたかもしれませんね」
「了解。相変わらず仕事が早い。記録は継続中だね」
「記録?」
少年は瓦礫を避けて廊下に出ながら問い返す。オペレーターの声が答える。
「こちらの設定した期限の半分未満の日数で、任務を完遂した記録。あんまり早く終わるもんだから、実はもう次の仕事を入れてある。今日の夜の便で東京に移動してきてね。荷物は本部に送ってあるから」
「無茶なスケジュール組むなあ。また引越しですか。何回目の転校なのか……」
「——それだけ、君の能力を買っているということだ」
別の声が割り込んできて、少年は背筋を伸ばす。若い女の声だった。
「局長……、聞いてらしたんですね」
「相変わらずいい腕だ。しかし日付の感覚を失ってもらっては困る」
「は……、何か間違いがありましたか」
少年はおずおずと尋ねる。
「今回は転校ではない。明日は4月1日。君は進学して高校生になる。任務続きで欠席ばかりだったから、実感がないのも無理ないが……、明日からは学生の自覚を持って臨み給え。なにしろ次は、高校への潜入捜査だからな」
「潜入捜査……」少年は口の中で命令を転がした。「つまり、標的はその高校の人間、というわけですか」
「察しが早くて助かるよ」女の声がイヤフォン越しに聞こえる。「とある生徒の暗殺を任せる。改造人間の疑いのある少女だ。調査の上、黒と分かった時には始末してもらいたい」
彼女は反応を窺うように言葉を切る。少年はまるで動じた様子もなく、任務の内容を復唱した。
「では、期限は5ヶ月……、この学期が終わるまでだ。やってくれるね? ……真白雪くん」