第13話 暗躍
じっとりとした空気が東京の空を覆いつくしていた。ピンクや青に咲いた紫陽花が古い家の軒先に並び、水滴の溜まった薄暗い葉の上を蝸牛がのろのろと這っていく。6月だった。
治安維持局がのまえを保護してから一ヶ月、世間は不気味なほどに静かだった。活発だったエデンの活動もぴたりと止んで音沙汰なく、それがかえって水面下で何かが進みつつあることを暗示しているかのようであった。この魔都の上空にひしめく暗雲のように、昏い予兆があちこちに兆していた。
「呼びたてて済まないな」
雨粒の反射する音がざらざらと響く体育館の軒下で、シガレットを咥えた五頭と馬飼が振り返った。雪は白の雨傘を閉じて、彼らが据わる小さな階段に腰掛けた。
「お前の方から接触してくるとはな、真白雪。さすがの俺たちも近頃は大人しくしてる。何か用か?」
五頭が低い声で尋ねる。目には白い眼帯が痛々しく巻かれているが、それ以外の傷は癒えているようだった。あれだけの重傷を負わせられた割には回復が早い。腐ってもここら一帯を治めていた不良なだけはある。
「学園が平和になるのは有難いが、近頃都内のごろつきどもが異様な程に静かだ。例の『蠅の王』が何か企んでいるんじゃないかと、気になってね」
雪は砂利の上に出来た細い窪みを流されていく葉を眺めながら、静かに問うた。馬飼が煙草をくゆらして答える。
「知ってるだろ。俺たちはもう裏番の手から離れた。何が起こってるにせよ蚊帳の外だよ」
「学生たちのネットワークは顕在だろ? あんたたちは顔が広い。噂くらいは耳に入るはずだ」
五頭がホログラフィックの架空の煙を吐き出す。それから首を横に振る。
「悪いが、本当に何も知らない。……だがたしかに、下層グループだった弱小校の連中が近頃、妙に威勢良くなっているのは目につく。立場上、俺たちのグループは敵も多い。報復のリスクを考えて、下の連中にもしばらく単独行動を控えさせてるくらいだ」
「裏番の手が回ってるのかもな」
馬飼が同調して捕捉する。雪は桜色の鮮やかな煙の幻燈を眺め、しばしの間雨音に耳を傾けていたが、やがて無言で一枚の名刺大のカードを差し出した。
「……? なんだこりゃ」
馬飼がカードを受け取る。五頭が眼鏡越しにちらりと目を向ける。
「紹介状だよ。あんたたちにも守らなきゃいけない舎弟たちがいるだろ。いつまでも『蠅の王』の脅威に怯えているようじゃ、そいつの下から逃れたとは言えない」
雪は傘の柄を掴んで立ち上がった。「伏魔殿も戦闘要員は人手不足でね。自由に動ける実働隊が欲しい。……有り体に言えばスカウトだ」
「伏魔殿……。お前……、治安維持局の人間だったのか。俺たちを信用するのか?」
身分を明かした雪に五頭が訝し気な視線を注ぐ。
「この学園の連中は統率がとれてる。頭二人の人望があるからだ。そしてその二人は部下を守るために、体を張って裏の連中との付き合いを断ってみせた。その辺の大人よりよっぽど誠実だよ。少なくとも、僕は君たちを信用する」
馬飼がカードを下ろし、五頭の方を窺う。五頭は何も言わずぷかりぷかりと幻燈のシガレットをふかしていた。
必要なことは言い終えたと言うように、雪は立ち上がった。真っ白な傘を開き、校舎の方へ踏み出した。
白っぽいアスファルトに、彼の泥に黒く汚れた足跡が染み込んで、灰色の轍を残していった。
「……秘密のお喋りかい」
曲がり角の先で、雪は足を止めた。灰色の傘を差した伊邪那が壁にもたれかかって、こちらを見ている。
「なんだ、居たのか。祁答院」
「大事な友人が、性質の悪い悪漢に呼び出されたように見えてね。安心してよ、盗み聞きはしてない」
伊邪那は屋上の方を見て口を開いた。「……最近おかしなことばかりだ。不良たちがまとめて病院送りになったと思ったら、君と一さんが揃って学校に来なくなった。跡星担任は入院したとやらで姿を消すし、終いには屋上にヘリまで落ちる始末……。休校措置がとられて警察やマスコミがわんさか来てる。一体何が起きてるんだろうね?」
「お前には関わりの無い事だよ。首を突っ込まない方が賢明だ」
雪は傘を傾けて顔を隠したまま、彼の前を通り過ぎた。「ところで……」伊邪那は彼の背中に声を掛けた。「一ちゃんは元気かい?」
雪は足を止めることなく答えた。
「……さあな。僕が知ってると思うか?」
豆粒のように小さくなっていった雪の背中を眺めて、祁答院は微笑んだ。「知ってるさ、君はね」それから徐に時計を耳元に寄せると、番号を押して回線を繋いだ。呼び出し音が途切れて応答がある。
「……こちら祁答院伊邪那。……ええ。反応を見るに、見立て通り、一は生存の可能性が濃厚です。想定よりも、真白雪は使えそうです……」
伊邪那は目を細め、時計から聞こえてくる言葉に肯いた。「もちろんです、『枢機卿』。彼は我々の計画……、スノーホワイト・プロトコル、その鍵となる男ですから」
〇
青空を見ることも少なくなってきた梅雨の朝が、シャッター街となった廃墟のアーケードに忍び寄っていた。崩れかけ穴の開いた屋根からは雨が漏り、二世紀前の懐かしい賑わいの影を洗い流しているかのようだった。
しかし雨音に負けず耳を澄ませば、そのシャッターたちの奥から微かに溢れてくる静かな熱狂が、その廃墟群で鼓動していることを人は知るだろう。もっとも、こんな旧道から外れた隣家も無い街の死骸に近づく者など、物好きなマニアか、後ろ暗い人間しかいなかった。
真白雪は、後者の一人だった。彼はアーケードの入り口で雨を避けながら、時計を覗き込んだ。
確認するまでもなく、約束の時間を過ぎていた。やっと尻尾を掴んだ裏カジノへの潜入任務……。バディとして参加するはずの見の姿が見えない。やはり、不慣れな現場での仕事に気後れがあるのだろうか。
インカムの方に反応があった。雪は耳を押さえ応答する。ノイズの向こうから少し緊張したような、大人びた少女の声がした。
「あ、あー……。こちらオペレーターの染 袈裟丸。兄さん応答願います」
「今日は袈裟丸か……」
雪は後輩の声に応じて呟く。インカムの向こうで少女が返す。「よろしくお願いします、お兄ちゃん」
「せめて兄さんにしてくれ」
呼び名を訂正して軽く頭を抱える。いや、そもそも兄さん呼びも許可していないのだが。
「久々に一緒の仕事だから……」
歳の割に落ち着いた声音に似合わず、幼らしい反応を見せる。歳は一つしか違わないはずなのに、僕には妙に子供っぽいんだよな……。雪は頭を掻く。
「兄妹役の任務ももう二年前か……。……と、感傷に浸ってないで、見先輩はどうしたんだ? それの連絡じゃなかったのか」
「ああ、うん。見ちゃんだけどね」インカム越しに妹が居ずまいを正すのが伝わった。
「どうも行きの道で車と接触したみたいです。怪我は軽いみたいだけど、ぶつかってきた車の運転手がどうもそっちの筋の人みたいで……。揉めてるみたいだから付近の隊員を向かわせてるけど、そっちに付くのはいつになるか分からないって」
「そうか……、道具一式は僕が預かってるから問題ないけど、先輩は大丈夫なの?」
「大事にはならないと思う。一応こっちは警察ですし。……それで、見ちゃんの代役だけど、今からそっちに迎える隊員がなかなか見つからないの」
「おいおい……。『ラス・ヴェガス』は二人組でしか入店できない決まりだぜ。偽装した会員カードもいつまでも使えるわけじゃない。今日を逃すのは得策じゃないんだがな」
「……雪くん、困りごと?」
「ああ、のまえか。悪いな、ちょっと『妹』と電話中で。……それで、誰か居ないのか?すぐ近くにいてカジノで目立たない程度に勝ち負けをコントロールできる技量があって、なるべく一般人らしい見た目のやつが……」
そこまで言って雪は目をぱちくりさせた。目の前に薄紫の傘を差して、ぼうっと突っ立ってこちらを見つめているのまえの姿があった。
「……のまえ!? なんでこんな所いるんだ?」仰天してシャッターに頭を打ちかける。のまえがリードを掲げる。首輪に繋がれた栗毛の犬が行儀よく座ってこちらを見上げていた。
「デイジーのお散歩してたの。のまえの家のワンちゃん。気づいたら監視の人がどっか行っちゃって、雪くんに会えないかなと思って歩いてたらいつの間にかここに着いてた」
デイジー。『ジョン・ウィック』の犬と同じ名前か。なんか縁起悪いな……。と雪は失礼なことを考える。
「監視の隊員……って、そうか、見さんの応援に向かった人か。しかしんな偶然……」
雪は言いかけて目を覆った。「……あるんだったな、お前の場合……」
雪は改めてのまえの方を見た。すぐ後ろを指先ほどの大きさの、虫のような二機の追跡装置が舞っている。一応監視は付いてるみたいだ。だが、護衛が居ないとなるとちょっと心もとない。
「……兄さん。あの、どういう関係なんですかその女……。お兄ちゃん……?」
何故か焦ったような袈裟丸の声がする。そうか、事情を知らない袈裟丸からすれば、任務中に知り合いと鉢合わせしたように見えるのか。雪は独り合点して説明する。「うちで監視してる保護対象だ。事情があって偶然合流した。……ちょうど良いから見先輩の代役は彼女に任せる」
「えっ……。それなら、本部の判断を仰ぐべきでは?」
袈裟丸がオペレーターの声に戻って聞き返す。
「良い。現場判断だ。彼女の能力は誰よりもカジノ向きだし、このままこの物騒な区画を一人で帰すのも危い。僕と一緒にいた方が安全だ。局長には後で僕から説明しておく」
「そう、ですか……。……怒られそうになったら、お兄ちゃんに責任とってもらいますよ」
「任せろ。最近始末書を書き慣れてきたところだ」
そう言って通話を切ると、雪はのまえに向き直った。「……と、いうわけだ。急ですまないけど、のまえには僕に同行してもらいたい。と言っても危険な場所だし、もちろんこのまま帰ってもかまわない。今日はドンパチやる予定じゃないけど、君は隊員じゃないし参加する義務はないからね。その場合は本部の迎えが来るまで、ここで待ってもらうけど」
雪の言葉にのまえは首を横に振った。「ううん、追いてく。雪くんの家……、住まわせてもらってるし、お返ししたい」
「僕の家っていうか、伏魔殿の寄宿舎なんだけどね」
雪は一抹の不安を微笑みで掻き消して言った。「……じゃ、まずは変装からだ」




