悪役と悪意
本日、8:00と16:00の2回更新です。
「アベルが暴れるようなことがあれば、君達が危険な目に遭うかもしれない。自分のせいで妻や娘が怪我をしてしまったら、アベルはとても悲しむだろうからね」
伯父はそう言うと、父の寝室には誰も近づかないようにと指示を出した。
寝室の扉の外に護衛を一人立たせることになったが、これも伯父の身を案じた母が「どうしても」と説得した結果、伯父が根負けした形で配置されたものだ。
「自分一人で対処したい」という伯父の頑なさには驚かされたものの、きっとそれは伯父の責任感の強さから来るものなのだろうと、自分にそう言い聞かせる。
ならば私は、娘として何ができるだろうか。
先程は「知識のない私にできることなど何もない」と思ってしまったけれども、娘だからこそできることがあるのではないだろうか。
父に忍び寄る“死”の存在を感じたくないなんて、そんなことを言っている場合ではない。
前世では、物心がつく頃には既にこの世を去っていた実父。実父が生きていたらしてあげたかったと前世で妄想していたことが、今の私はまだできる状態にあるのだから。
そう思って、とにかく一度父の顔をきちんと見ておこうと、父の寝室の前に来た時だった。
扉の奥から何かを叩いたような、鈍い音が微かに聞こえた。
「伯父様!?」
伯父は「妻や娘を傷つけたとなればアベルは悲しむ」と言っていたが、おそらくそれは相手が兄であっても同じこと。
やはり、伯父一人を付き添わせるべきではなかったのだ。
副作用として報告されている異常行動の中に「暴れる」があったことを思い出した私は、ノックもせずに室内へと入室する。
共に入室すべきかと尋ねる護衛に対して首を横に振り、そのまま部屋の扉を閉めると、まるで隔絶された世界に足を踏み入れたかのような気持ちがした。
扉の前からでは、パーテーションで遮られていてベッド付近の様子は見えないものの、室内を満たす静けさが、かえって私の不安を増幅させる。
しかし、怯んでいる場合ではない。
最悪の状況を想定し、それでも自分自身を奮い立たせてパーテーションの奥を覗いた私が目にしたのは、先程までと変わらずベッドに横たわり目を閉じる父と、なぜか額から血を流している伯父の姿だった。
伯父の手にはガラス製の花瓶が握られており、そして伯父の足元には花瓶に活けられていた花と、中に入っていたのであろう水が散乱している。
「…伯父様?」
一体何があったのだろうか。
とりあえず伯父の手当てをしなければと慌てる私に、伯父がゆっくりと歩を進める。
伯父の表情は逆光になっていてよくわからなかったが、近づくにつれて彼が不気味に笑っていることに気がついた。
…前世で見たことがある表情だと、そう思った。
一刻も早く逃げなければならないと、本能が警告している。
明らかに様子がおかしい伯父と、二人きりでこの部屋にいるわけにはいかない。
そう考えて寝室を飛び出した私を、伯父は追ってもこなかった。
血相を変えて部屋から飛び出してきた私を見て、護衛は目を見開いた。
「伯父様の様子がおかしいのです! すぐに人を呼んで来て!」
私の口から出たその言葉は、ほとんど悲鳴に近かっただろう。
しかし、私の言葉に従って行動しようとした護衛が、私の後方に視線を移してピタリと動きを止めた。
「驚かせてしまって申し訳ない。急ぐ必要はないよ」
そう言って寝室から顔を覗かせた伯父は、やはり額から血を流していたけれど、その表情は“完璧人間”である伯父のものだった。
なぜか寝室から大怪我を負って出て来た伯父に、屋敷内は騒然とし、家中の者が集結する事態となった。
「アベルが暴れ出す可能性があるので、花瓶を除けておこうとしたんだよ。その際に誤って転倒して、頭をぶつけてしまって。恥ずかしい話だ」
主治医がいないため、母から傷の手当てを受けながら、伯父が恥ずかし気にそう説明すると、張り詰めていた空気が緩んだ。
伯父が穏やかな様子で「大したことはないんだよ」などと続けるものだから、辺りがなんとなく和やかな空気に包まれかけてすらいる。
しかし、伯父の説明はどう考えたっておかしい。
私が部屋を覗いた時、伯父が転倒した様子は全くなかった。
あれはどう考えても、自分で手にした花瓶を自分の額に振り下ろしたような、そんな様子だった。
「伯父様、本当のことをおっしゃってください」
そう言う私の声は、みっともなく震えていた。
「エリス?」
私の尋常でない様子に、母が心配そうな声を掛けるけれど、その声はすぐに伯父の声に掻き消された。
「私は本当のことを言っているよ。気が動転しているんだね、可哀想に」
眉を下げながらそう言う伯父は、“姪を心配する心優しい伯父”にしか見えない。
「動転なんかしていません。伯父様が転んだようには、とても見えませんでした」
私はなおもそう主張するけれど、伯父はますます悲し気な表情を浮かべて「いや、驚かせた私が悪かったんだ」と、私が誤解している前提で話を続ける。
そして、そんな伯父に周囲の人間も同調した。
また、私の声は届かない。
伯父が数々の功績を残している薬学者である一方、私はただの小娘。
公爵の娘という身分ではあるものの、公爵の実兄である伯父を前にすると、どちらの言い分が聞き入れられるかなど、火を見るよりも明らかだ。
いくらこちらが正しいことを言おうとも、その内容は聞かれることもない。
そのことが、私はただただ悔しい。
しかしそこで、諦めかけた私の肩に温かい手が置かれるのを感じた。
「エリス、話してみなさい」
いつの間にか、私の傍には母が立っていた。
その小さい身体から放たれる威圧感が、周囲を包んでいた空気を一掃する。
公爵夫人の冷たい声に、辺りに緊張感が漂う。
その瞬間、伯父の口端が僅かに痙攣したのを、私は見逃さなかった。
「たとえエリスが子どもであろうとも、気が動転してようとも、話も聞かずに主張を退けてよいことにはなりません」
普段使用人に対しても優しく穏やかに接する母が、ここまで強い言葉で相手を非難するのを聞くは初めてのことだった。
しかし、使用人すらも尊重する母だから、伯父が私の主張を無下にしたことを、ここまで怒っているのだ。
おそらくこの場にいる全員が、そう思ったのだろう。
全員が口を閉ざして俯く中で、母は鋭い目線を伯父に向けたまま言葉を続ける。
「エリス、あなたの言葉を聞かせてちょうだい」
そう言う母の横顔は、凛とした美しさを纏っていた。