悪役と胸騒ぎ
「以前エリスが言っていた“特待生制度”だが、来年度から試験的に導入されることが決定した」
つい二日前にもお茶をしたというのに、今日も朝一でジェラルド殿下から呼び出しがあったので何事かと思っていたら、どうやらそれを伝えたかったらしい。
彼はとてもご機嫌のようで、普段は手をつけない焼き菓子を、もう二つも口にしている。
「こんなに早く導入が決まるなんて…」
私が殿下に“特待生制度”の話をしてから、まだ三ヵ月しか経っていないのだ。仕事の早さから彼の本気度が伝わってくる。
「エリスのおかげだ。本当にありがとう」
ジェラルド殿下はそう言って屈託なく笑うけれど、対する私は苦笑いで返すほかない。
この世界において、おそらく近い将来誰かが提言し採用されるはずだった、王立学園における“特待生制度”。
本来提言者になるはずだった名前も知らない誰かに対して、私は心の中で何度も謝罪する。
手柄を横取りする気は、これっぽっちもなかったのだ。
しかし、結果として学園関係者に私の名を良い形で知られたのはよかった。
“特待生制度”の設立に、特権意識の強い一部の貴族の中には反対する者もいるようだけれど、学園長や教授といった学園の関係者は手放しで賛成しているらしい。
婚約破棄騒動が引き起こされる学園内において、私に良い印象を持つ者がいるというのは、かなり有利な状況だ。
ちなみに、“特待生制度”について王太子から国王に進言がなされてすぐに、学園長から私宛に手紙が届けられた。
手紙の中には、発案者である私に対する感謝の言葉と、学園長がどのような思いを持って学園を運営しているのかが綴られていた。
彼は「学びたいものには平等にその機会を」という考えの持ち主らしく、“特待生制度”に大きな期待を寄せているようだった。
その制度の設置が、私の不用意な発言によって、『ガクレラ』の設定よりもほんの少しだけ早まることになった。
それはつまり、王立学園で学べる庶民の数もほんの少しだけ増えたということ。
誰かの手柄を横取りすることにはなってしまったけれど、悪いことばかりではないと、自分を無理矢理納得させる。
そんなことを考えていた私は、喜びや反省が入り混じった複雑な表情を浮かべていたのだろう。
それまで上機嫌だったジェラルド殿下が、急に真面目な表情を浮かべた。
「ところで、スピアーズ公爵の具合はどうだ?」
殿下からのその問いかけに、胸がちりっと痛むのを感じるけれども、なるべく顔には出さずに小さく首を横に振る。
「回復しているとは言い難い状況です」
私の言葉に、ジェラルド殿下は僅かに顔を顰めた。
少し前に、父が高熱で倒れた。
原因不明の高熱であることから対症療法に頼るしかなく、ただただ回復を祈る毎日が続いている。
このことは、極々限られた人間にしか明かされていない。
いまだに正式な後継者が指名されていない状況で、スピアーズ公爵家の当主がそのような状態であると知られれば、少なからず国の混乱に繋がるからだ。
父の体調不良を知るのは、スピアーズ家で働く者を除いては、国王夫妻と、王太子であるジェラルド殿下、そして父の直属の部下のみだと聞いている。
後は、法律的にスピアーズ公爵家の第一後継者にあたる伯父だろうか。縁起でもない話だが、万が一でも可能性がある以上、それに備えておく必要があるのだろう。
一変して暗い顔をするジェラルド殿下を安心させるためにも、私は綺麗な笑顔を作って口を開く。
「ちょうど今日、伯父が我が家に訪れることになっております。何か解決策が見つかるかもしれません」
「伯父…スピアーズ公爵の兄か。他国で薬学の研究をしていると聞いているが、いつ帰国したのだ?」
「昨夜です」
伯父とは顔を合わせた記憶すらないが、幼い頃から熱心に薬の研究をしている人物だと聞いている。
弟である父がスピアーズ公爵家を継ぐことになったのも、伯父の意志を尊重した結果なのだろうと、母が昔言っていた。
「恥ずかしながら、私は薬学に関する知識はほとんど有していない。エリスの伯父上が、他国から何か有効な薬を持ち帰っていることを願うよ」
ジェラルド殿下はそう言うと、私に帰宅を促した。
暗に「早く帰りたい」と言っているように聞こえただろうかと心配になったが、私を見送る殿下はただただ私を気遣うような態度で、なんだか少し頬が熱くなった。
◇◇◇
帰宅した私を出迎えたのは、やつれた様子の母だった。
「あら、エリス。早かったわね」
公爵夫人として、一分の隙もない笑顔を浮かべる母だが、ここ最近の心労のせいで身体が一回り小さくなっているのがわかる。
「少し前に、アベルのお兄様がいらしたわ。今は主治医から、アベルの容体の説明をお聞きになっているところよ」
何を呑気なことを、と言われてしまうかもしれない。けれども、父の名を呼ぶ度に薄く涙の膜が張る母の瞳を、私は美しいと思ってしまう。
そこに、配偶者に対する心からの愛情を感じるから。前世の私には、持ちえなかったものだから。
「ジェラルド殿下も、『スピアーズ公爵の回復を心から願っている』とおっしゃっていました」
私がそう伝えると、身体の前で結ばれた母の両手に力が入ったのがわかった。
「そう。またお礼を伝えておいてね」
母はそう言うと、今度こそ泣きそうな表情を浮かべた。
しかし、その後すぐに客間の扉が開く音が響いた。
客間にいた人物が現れた方向に視線を向ける母は、すでに非の打ち所のない“公爵夫人”の顔をしている。
「お義兄様、紹介いたしますね。こちら、私達の娘のエリスです」
母からの紹介を受けて、私はゆっくりと頭を下げる。
「お初にお目にかかります。エリスと申します」
私がそう言うと、頭上で伯父が微かに笑うのを感じた。
「初めてではないんだけどね。でもまあ、君はまだ赤ん坊だったから、覚えてはいないか」
伯父はそう言いながら、目元をふっと和らげた。
女性と見紛うほどの線の細さと、日の光に当たったことがないかのように真っ白な肌とが相まって、この人が父よりも年上であることが信じられない気持ちになる。
「アベルの兄の、カインです。長いこと隣国で薬学研究をしていたから、アベルの体調不良に関しても、何か役に立てるかもしれないと思ってね」
そう言って差し出された伯父の手の甲には、血管が青く透けて見えた。
私よりも薄く見えるその皮膚を傷つけないようにそっと手に触れると、その手は驚くほどに冷たく、思わず身体がぴくりと跳ねる。
しかし私のそんな様子を気にする素振りも見せず、伯父は私の手をきつく握り返した。
「これから、エリスとは長い付き合いになるだろう。よろしくね」
そう言う伯父は相変わらず柔和な表情を浮かべているし、発せられた言葉だってなんてことない挨拶のはずだ。
しかし私は、肌がぞわりと粟立つのを感じた。
もう一度、今度は伯父の目を覗き込む。
優しく細められた目元は、姪である私との再会を喜んでいるように見える。
しかしその瞳は何も、目の前にいる私すらも映していないかのように思われた。