悪役と野望
ジェラルド殿下との婚約を結んでから、私の生活は一変した。
王太子妃教育は分刻みでスケジュールが組まれていて、私は前世も含めて過去最高に忙しく過ごしている。
この婚約がいずれ破棄されるものだと知っているのは私だけで、周囲の人間は私がこのまま王太子妃になると思っているのだから、当然のことだろう。
教育係に聞くところによると、週に二度は休日がある今の私のスケジュールは、それでもかなり楽な方らしい。
公爵家の娘として、マナーや教養面での教育はすでに施されていることが理由だそうだ。
この国では、王族の結婚相手に身分を求めない。
もちろん、政としての側面が強いことは事実だが、王族である本人が「どうしても」と望むのであれば、相手が庶民であったとしてもそれを阻むような規定はない。
そうでなければヒロインと王太子は結ばれることができないのだから、当然と言えば当然か。
それでも、臣下や国民に受け入れられるかは微妙なところだけれど。
実際に、子爵家の御令嬢が王太子妃に選ばれた前例があるらしい。
「その時はもう、眠る暇もないほどの忙しさだったそうです」
教育係が青い顔をしてそんなことを言うものだから、私はまだ見ぬヒロインに少し同情する。
下位貴族とはいえども、子爵家の御令嬢ですらそのような状態だったのだ。庶民であるヒロインの負担は相当なものだろう。
でもまあ、仕方がないことだ。
国のトップを支える者として、自身に必要なスキルを身に付けるのも義務のうち。
王太子妃教育のせいで自分の時間が減ることに関しては、想定していたことだった。
予想以上に私を忙しくしているのは、ジェラルド殿下。
婚約後、王太子との交流の場が定期的に設けられるだろうという話は聞いていたし、私も二、三ヵ月に一度は彼と顔を合わせる機会があるのだろうと思っていた。
それがまさか、これほどまでに高頻度だとは。
なんだかんだと理由をつけて、ジェラルド殿下は週に一度のペースで私を呼び出している。
彼もやるべきことは山のようにあるはずだけれど、一体どのような生活を送っているのだろうか。
しかし、じゃあ彼が私を気に入っているのかと問われると、それはよくわからない。
現に、今目の前に座るジェラルド殿下は、私に対して探るような視線を送っている。
眠気を誘うようなゆったりとした空気が流れる温室の中、テーブルには可愛らしいお菓子が数種類並べられ、ティーカップからは華やかな紅茶の香りが漂っているにも関わらず、ジェラルド殿下の視線のせいで全く和やかな雰囲気にはならない。
私の冷たい風貌も、その原因の一つなのかもしれないけど。
このまま殿下と睨み合っているわけにもいかないので、私は紅茶が入ったティーカップに手を伸ばす。
せっかく温度まできちんと管理されて淹れられた紅茶なのだ。温かいうちに飲まないと失礼だろう。
私がティーカップをソーサーに戻すのを見届けて、ようやくジェラルド殿下が口を開く。
「エリスは王太子の婚約者として、何がしたい?」
両腕を身体の前で組みながら、難しい顔でそんなことを問われるものだから、何かの面接が始まったのかと思った。
しかし彼の瞳は真剣そのもので、私は気持ちを引き締める。
「お恥ずかしい話ですが、まだ何もわかりません。ですので、まずは王太子妃教育に励みます。何をしたいのか、何をすべきかを見つけるために」
これは、本音だ。
“価値のある人間”だと周囲に認めてもらうことが、私の望みだ。
そのためにはまず、自分が与えられた役割をきちんと果たさなくてはならない。
加点を狙うことも必要だが、それと同じくらいに減点されないことも重要なのだ。
そう言ってにこりと微笑むと、ジェラルド殿下は「そうか」と言って、自身の前に置かれたティーカップに口を付けた。
『ガクレラ』のゲーム内でそんな印象はなかったけれど、ジェラルド殿下は寡黙な人間らしい。
頻繁に呼び出されて同じ空間で過ごすものの、そこに会話はほとんどない。
それゆえ、私の中では会話が一往復すればその日のノルマは達成したと考えている。
今日もノルマは達成できた。そろそろ帰ってもいいだろうか。
今の私は、一分たりとも無駄にできる時間なんてないのだから。
そう考えた私が、どうやって退席を申し出ようかと思っている時だった。
「私の野望を、聞いてはもらえないだろうか」
ジェラルド殿下がぽつりと、けれども決意の籠った声でそう呟いた。
「もちろんでございます」
殿下の様子からただならぬ気配を感じ取り、私は一層姿勢を正す。
「私は、身分制度を廃止したいと思っている」
…一瞬、時が止まったかと思った。
まさかそんな大それたことを、この場で伝えられるとは思ってもいなかった。
「理由を、お聞きしても?」
なんとかそう発したものの、その言葉が震えているのは誰の目からも明らかだろう。
「私は、誰もが身分に囚われることなく、平等に暮らせる社会を作りたいのだ」
そう言うジェラルド殿下の両手は膝の上で結ばれており、普段よりも若干白いその両手から、拳に込められた力の強さが見て取れた。
「ジェラルド殿下は、身分制度を撤廃することで、世の中の不平等をなくしたいとお考えなのですね?」
私がそう尋ねると、殿下は「そうだ」と言って重々しく頷いた。
ここで「素晴らしい考えですね」と言ってあげたら、彼は喜ぶのかもしれない。
けれども、そう発言するのはあまりにも無責任すぎるだろう。
ふーっと静かに息を吐き、ジェラルド殿下に負けないくらいに目に力を籠める。
「それは、叶わないでしょう」
私のその発言を聞いて、ジェラルド殿下の瞳の奥が僅かに濁った。
「どういうことだ?」
その言葉からは不満が滲み出ており、王太子といえどもまだ子どもなのだなと、無関係なことを考えてしまう。
「見かけ上、全ての人間が平等な立場になったとしても、必ず差異は発生します。経済状況、能力の差、容姿の美醜、挙げればきりがありません。差異があるということは、そこに優劣が発生するということです」
前世でも、そうだった。
身分制度など疾うの昔に廃止された日本においても、平等な社会など存在しなかった。
学校の小さなクラスの中ですら、明確な立ち位置が決まっており、ヒエラルキーが存在していたのだ。
「差異は差異だろう。優劣とは違う」
ジェラルド殿下のその言葉に、私は静かに首を振る。
「差異を差異として捉えられるほどに、人は強くないのです」
彼の考えはとっても素敵だ。理想的で、とっても素敵。
けれども、全く現実的ではない。
「ジェラルド殿下は、どうして平等な社会を作りたいと思われるようになったのですか?」
どことなく落ち込んだ様子の殿下を前にして、気づけば私はそう口走っていた。
「国としての意思決定の場に座るのが、貴族ばかりだと気がついたのだ。私は、どのような生まれかに囚われることなく、自由な選択ができる社会にしたい」
殿下の“野望”を全否定したにもかかわらず、彼がまだ私と会話を続ける意思があることに、内心でほっとする。
「身分制度を撤廃したとしても、その状況が変わるのは、随分先のことになるでしょうね」
私の言葉を聞いて、ジェラルド殿下が僅かに眉を寄せたが、気づかなかったことにしよう。
「例えば、ジェラルド殿下は明日からパン屋でパンを作ることができますか? 」
私のその言葉に、殿下は短く「無理だな」と答えた。
「それと同じことです。『自由に選んで良い』と言われても、現在の庶民は国の意思決定を行えるだけの知識を有しておりません」
これは、前世で高校すら卒業していない、学のない私だからこそわかる。
たとえその職を選ぶことが許されていようとも、そこに求められるだけの知識がなければどうすることもできない。
王立学園への入学者が貴族に限られているこの世界において、庶民の中でもずば抜けて裕福な家庭は例外として、大多数の家庭の子は国政に関われるだけの知識を得る場などないのだから。
「身分制度の撤廃より前に、庶民が学べる場を用意する必要があるということか」
ジェラルド殿下はそう言うと、何かを思案するように眉間を指で押さえた。
しかしここで、私の頭にある疑問が浮かぶ。
「そういえば、“特待生制度”を利用して知識を得た庶民は、学園卒業後はどうしているのでしょうか? 国家として、彼らのその後の記録などは残していないのですか?」
『ガクレラ』のヒロインは、特待生制度を利用して王立学園に入学したという設定だった。
各学年二人ずつしか選出されない特別枠に選ばれたヒロインは、かなり優秀だという描写があったように思う。
王立学園に入学する庶民は、そのような狭き門を突破してくるのだ。卒業後だって活躍しているに違いない。
しかし私のその言葉を聞いて、ジェラルド殿下は大きく目を見開いた。
「“特待生制度”とは?」
「え? 成績優秀な庶民が、特別に王立学園への入学を許可される、あの“特待生制度”ですよ」
「そのような制度は、聞いたことがないのだが?」
ジェラルド殿下の言葉に「何を馬鹿げたことを」と思ったものの、彼は真剣そのもので、とても冗談を言っているようには思えない。
「他国の制度だろうか? 詳しく聞かせてくれないか?」
そう言いながら私に向けられるジェラルド殿下の眼差しは、今まで見たこともないほどに期待に満ち溢れていた。