ある青年の追憶②
「報酬は気にしなくていいからさ」
あの日、久しぶりに会った彼女から「力を貸してほしい」と言われた僕が発したその言葉は、純粋に善意からくるものだった。
子どもの頃、彼女の無実を晴らせなかったことに対する罪滅ぼしが、これでようやくできると思っていた。
しかし彼女は、僕の言葉を聞いて苦虫を噛み潰したような顔をした。
「払うから、ちゃんと」
吐き捨てるように発せられた言葉を聞いて、僕はまたやってしまったのだということに気がついた。
あの頃から、僕は全く成長していない。
子どもの頃から、僕は“持つ者”だったと思う。
実家は裕福だったし、家族仲も良かった。勉強は得意だったし、運動も平均以上にはできた。
「困っている人には手を差し伸べてあげなさい」
そう言われて育ってきたし、大人になった今も“弱者を助ける”ことを目指して生きている。
けれどもその考えは、果たして正しいのだろうか。
第三者の視点から“弱者”“持たざる者”だと決めつけて、上から目線で施しをすることが、果たして“善”なのだろうか。
白い半紙に墨汁が一滴落とされたように、そんな思いがじわじわと心に広がるのを感じた。
しかし僕が謝るより先に、彼女が先に口を開いた。
「ごめん、嫌な言い方して。あの時も今日も、片山の優しさだってことはわかってるよ」
そう言って寂しそうに笑う彼女は、あの頃よりもずっと疲れ果てていた。
その時の彼女の顔が、今も頭にこびりついて離れない。
◇◇◇
太田さんが死んだ、と知ったのは、テレビのニュースを通してだった。
“被害者”とされる金成利一に同情的な論調で進められるニュースを見て、胃酸が逆流するような感覚を覚えた僕は、慌ててトイレへと駆け込んだ。
昨日、あんなに元気だったのに。
すぐ目の前にいた彼女が、すぐ触れる距離にいた彼女が、すでに手の届かない所に行ってしまったことが受け入れられず、僕はただただ胃液を吐き続けた。
つけっぱなしのテレビから、聞きたくもない情報が流れ続ける。
「お世辞にも、あまり感じが良い方ではありませんでしたね」
彼女のことを大して知りもしないくせに、無責任にそう語る“近隣住民”に、腹の底から怒りが湧いた。
その日、金成の自宅で何があったのか。
金成利一は「絵莉朱が急に襲いかかってきた」と言っているようだが、僕にはそれが事実だとは思えなかった。
「殺してやりたい」という思いを抱くほどに、彼女が金成に対して関心があるようには見えなかったのだ。
「すみません、どうしても確かめたいことがあるんです」
事件とは無関係であるはずの僕が、突然そんなことを言い出すものだから、上司もさぞ驚いたことだろう。
けれども彼は、僕の話を親身になって聞いた後で、「警察には伝手があるから伝えておこう」と、そう言った。
上司が掛け合ってくれたおかげかどうかは定かではないが、しばらくするとボイスレコーダーの存在が明らかとなった。
ちょうど、週刊誌の“悪女:絵莉朱”の連載が終わった頃だった。
「御守りの中に隠されていた」というそのボイスレコーダーは、彼女には内緒で僕が忍ばせておいたものだ。
念のために言っておくが、もちろん悪用する気など全くなかった。無事に離婚が成立するまでの間、彼女の家の中で“何か”が発生した場合に備えての保険として用意したものだったし、何もなければそのまま処分しようと考えていた。
「困った時には握りしめてみて」
そう言ったのは、手元で録音ボタンを押してもらうためだったが、非常時に彼女が御守りを握りしめてくれるかについては、正直賭けだった。
なので今回、会話の内容がきちんと録音できていたのは、本当に運が良かったのだと思う。
おかげで、彼女の意思で録音されたものだと判断されたボイスレコーダーの内容が、今回の事件の証拠としても認められたのだった。
実際のところ、録音は彼女の意思でされた訳ではない。彼女は、ボイスレコーダーの存在すら知らなかったのだから。
本来ならば、きちんと彼女に説明した上で、彼女の意思で録音してもらうべきであったことは認めよう。理由がどうであれ、僕がしたことは盗聴だ。
けれど、それではどうしても動きが不自然になる。金成のような人間が、彼女の不審な動きに気づかないとは思えなかった。
ボイスレコーダーに残された会話の内容と金成が語った内容とが、あまりに乖離していたことに疑問を持った警察が、事件をもう一度調べ直すことになったのだから、今回に関しては“嘘も方便”ということで許してもらいたい。
いつもの僕であれば、依頼人のためとはいえ、盗聴という罪を犯そうだなんて思わなかっただろう。
いくら理由があろうとも、その行為は“悪”であり、「“善”でありたい」という自分の信念に反しているから。
しかし今回に関しては、僕に迷いはなかった。
その時の僕を突き動かしていたものがなんだったのか、今でも言葉で言い表すことができないが、「彼女のためにできることはなんだってやってやる」と考える僕の心を占めていたのが、“善意”なんてものではなかったことだけは確かだ。
◇◇◇
その日は、唐突に訪れた。
『速報 起業家:金成利一を殺人の疑いで逮捕』
スマートフォン上に表示されたその文字に、大きく息を吐き出す。
“金成絵莉朱”についての悪意ある記事を掲載していた週刊誌も、明日には訂正記事を載せると言っている。
ようやく、この日が訪れたのだ。
彼女がこんなことを望んでいたかはわからないし、こんなことをしても彼女は帰って来ない。
けれども、ようやく彼女の汚名が返上できたのだ。
職場であるにもかかわらず脱力感に襲われるのも、致し方ない。
職場の上司が、後ろから僕の肩を叩く。何も言葉はないけれど、その手はとても温かい。
パソコンのトップには、メール通知が来ている。太田さんの母親と、彼女の高校時代の友人からだ。どちらも件名には、感謝の言葉が記されている。
机上では、スマートフォンが震えている。画面には、中学時代の恩師の電話番号が表示されている。
みんなみんな、心の中に複雑な思いを抱えながらも、今この瞬間を喜んでいる。
彼女がようやく正しく評価されたことを、心から喜んでいるのだ。
正直、ボイスレコーダーに残された彼女と金成の会話を思い出すのは、とても辛い。
彼女が包丁を手に取る理由となった発言が、僕に関することだったのだから。
「私が彼らに頼めば、片山君の仕事を潰すくらい、簡単にできるんだよ」
金成のその言葉を聞いて、彼女はどう思ったのだろう。きっと、「自分がなんとかしなければ」と、そう思ったのではないだろうか。
本人は認めないかもしれないけれど、彼女は正義感が強い人だから。
本音を言えば、彼女に生きていてほしかった。
僕の仕事がどうなろうと構わないから、彼女には生きていてほしかった。
けれども彼女は、僕が悲しむことを望んでいないだろう。
僕がここで悲しんでしまったら、きっと彼女は「かえって傷つける結果になってごめんね」って、そんなことを言うだろう。「全部裏目にでちゃうんだよね」って、そう言って泣きそうな顔で笑うだろう。
だから、僕は悲しまない。
彼女が金成に立ち向かってくれたおかげで、僕は弁護士としてこれからもやっていけるんだ。
僕が言うべきは、「ありがとう」という言葉。
僕がすべきは、これからも弁護士として精一杯働くこと。
そんなことを言うと、太田さんは「呪いじゃん」って笑うかな。「私のせいで辞められなくなっちゃってんじゃん」って、そんな風に言うのかな。
けれどもこれは“呪い”じゃない。僕がこれからも頑張り続けるための“足場”なんだ。
この世界は、生きづらい。
どれだけ綺麗事を言おうとも、人は他者を見た目や肩書きで判断するし、長いものには巻かれる。
誤解されがちな彼女は、理不尽な思いをたくさんしただろうし、諦めなければいけないことばかりだっただろう。
彼女にとっては、この世界にあまり良い思い出はないかもしれない。
だからこそ、彼女には来世で絶対に幸せになってほしい。
彼女のことをきちんと見てくれる人、わかってくれる人に囲まれて、たくさんの人に彼女の良さを知ってもらいたい。
そして、お伽話のようにいつまでもいつまでも幸せに暮らしていてほしい。
そう思っているのは、きっと僕だけじゃないはずだ。
「どうか彼女が、彼女自身の良さを認めてもらえる世界に生まれ変わりますように」というのは、本来の彼女を知る人々の共通の願いだろう。
きちんと評価されるだけで良い。正しく理解してもらえさえすれば、彼女は自分の力で幸せを手に入れることができる人間だから。
「太田さん、やったよ」
口の中でそう呟くと同時に、涙が頬を伝うのがわかった。
次回最終話です。




