ある悪女の追憶③
片山に見送られて、タクシーへと乗り込む。
いつもは気にならないタクシーの扉が閉まるバタンという音が、今日はやけに大きく聞こえて、なんとなく外の世界と隔絶された気持ちになる。
窓越しに「またね」と口を動かす片山が、なぜだかとても遠くに感じられて、しんみりとした気持ちが胸に広がった。
ゆっくりと息を吐き、膝の上に抱えたバッグに目を落とす。
でかでかとロゴが描かれたそのブランドバッグは、金成に買ってもらったものだ。
別にこのブランドが好きな訳ではない。誰もが知っている有名なブランドだから、いらなくなれば高値で売れるだろうと、そんな不純な理由で選んだバッグだった。
そしてそのバッグについている、子どもの掌くらいの大きさの御守り。薄水色でぷっくりとした袋状のそれは、ブランドバッグからは笑ってしまうくらいに浮いている。
「びっくりするくらい似合わないね」
私にその御守りを渡した張本人である片山も、そう言って苦笑いしていた程だ。
「でも、御利益はあるんだよ。困った時には握りしめてみて。きっと助けてくれるから」
この御守りを渡す時、片山は真剣な表情でそう言った。
「神様とか、そういうの信じてる系?」
冗談めかしてそう聞くと、片山は気まずそうに目線を逸らした。
「そういう訳でもないんだけどね」
歯切れが悪い返事ではあったけれど、なぜかそれ以上は聞かない方がいいような、そんな気がした。
「なんか、このバッグにつけると、御守りが片山みたいに見えてきた」
「ブランドバッグみたいに光り輝く太田さんの世界の中で、御守りみたいに垢抜けない僕…ってこと?」
そう言う片山は、自虐しながらもどこか楽しそうだった。そんな片山につられて、私もついつい笑ってしまった。
「違うよ」
見栄えや他者からの評価ばかりを気にする世界の中で、たった一人自分を見失わずに生きているところが。
けれども、それは言わないでおいた。
◇◇◇
家に帰ると、出かける前にはなかった大きな花瓶が目に飛び込んできた。
「今日ってお手伝いさんが来る日だったっけ?」と思いながら、花瓶に生けられた花を一瞥する。
その大輪の花は毒々しい程に真っ赤で、なんだか不安な気持ちになる。
玄関ホールを抜けてリビングへの扉を開けると、すでに金成が帰っていた。
こんな時間に家にいるなんて珍しい。ゴルフクラブの手入れをしているということは、この後また出る予定なのかもしれない。
そのままキッチンに視線を向けると、広々としたアイランドキッチンの上には、まな板と包丁が出しっぱなしになっていた。金成がキッチンに立つ姿なんて、今まで一度も見たことがなかったけれど、よっぽどお腹が空いていたんだろう。
「…ただいま」
私がそう言うと、金成はゴルフクラブを拭く手を止めて「おかえり」と言った。
見慣れたその顔が、なぜだか恐ろしいものに感じられて、私は思わずバッグについた御守りをぎゅっと握り締める。
「どこに行っていたんだい?」
「…別に。どこだっていいでしょ」
自分は予定を教えたりしないくせに、私の予定は知りたがるのか。そりゃそうか、私のこと所有物だと思ってるんだから。
そんなことを考えていたせいで、いつも以上に棘のある返事になってしまった。
すると金成はゴルフクラブを静かに床に置き、その場にすくりと立ち上がった。
「最近、よく出掛けているみたいだね。こそこそと何をしてるんだ?」
にやりと口端を上げ、「男と会っているのかい?」と問われた私は、なんだか全てがどうでもよくなってしまった。
「不倫してるのはあんたでしょ? りりあさんから、連絡ももらってるんだけど」
そう言って冷やかな視線を向けたにもかかわらず、申し訳なさそうな表情をするでもない金成は、話の通じない宇宙人のように感じられた。
「もういいや、別れよ。別れてくれたら、それでいいから」
そう言いながらも、心の中で片山に謝罪する。
上手く離婚できるように考えてくれているのに台無しにごめん、と。
しかし金成は胡散臭い笑顔を浮かべながら、一歩、また一歩と、私との距離を縮める。
「こんなに早く別れたら、私の評判に傷がつくじゃないか」
「は? 不倫してるくせに何言ってんの? こっちは写真も持ってるんだよ? バラされたいわけ?」
金成の最低な返事に頭に血が上った私は、思わずそう叫ぶ。
しかし金成は、私の言葉を聞いて笑みを深めた。
「君は本当に世間知らずだね。君の言うことを、誰が信じるんだ?」
金成の口から発せられた、彼の本音に絶句する。
「用意周到な金成が不倫の証拠を掴ませるなんて、それほど“りりあ”に夢中なのか」と、そう思っていたけれど、写真という証拠があってもなお、私よりも自分の意見が聞き入れられるだろうと、そう考えていたのか。
それほどまでに、私のことを見下していたのか。
「最低だね」
私のその呟きを聞いて、金成は「何をいまさら」と言って笑った。
「本当は、君が悪かったことにしてさっさと別れようと思っていたんだよ? けれども、君が余計なことをするから」
「飼い犬に手を噛まれた気分だよ」と続けられた言葉に、「犬じゃないんですけど」と言い返すと、金成はさも当然のような顔で「犬の方がまだ賢いからね」と言った。
それに対して、腹を立てるだけの気力はなかった。
「で? 余計なことって? 何が言いたいの?」
この時の私は、「自分が悪者になってもいいから、さっさと別れてしまおう」と、そう考えていた。
けれども、その問いに対する金成の返事を聞いて、身体中の血液が凍ったかのように感じた。
「とぼけても無駄だよ。君がこそこそと男と会っていることは知っているんだ。片山君…だったかな?」
心臓の鼓動が、うるさいくらいに大きく響く。
「彼、弁護士になったばかりなんだってね? おおかた、私を嵌めようとでもしているんだろう?」
そう言って私との距離を詰める金成を見て、頭の中で警報が鳴る。
「なんで知ってるの」
私が離婚に向けて動いていることを金成に気づかれないように、片山とは連絡先も交換していない。なのにどうして、この男は彼のことを知っているのだろうか。
しかし金成は、私の質問には答えない。まるで私の言葉など聞こえていないかのように、べらべらと喋り続ける金成からは、私のことを“意思のある人間”だと思っていないことがひしひしと伝わってくる。
「私にも、弁護士の知り合いは何人かいるからね。片山君とは比べものにならないくらい、立場が上のね」
「何が言いたいわけ?」
「私が彼らに頼めば、片山君の仕事を潰すくらい、簡単にできるんだよ」
「…脅してるの?」
「脅しじゃない。事実を述べているだけだ」
薄ら笑いを浮かべながらそう言う金成を前にして、背中に冷たい汗が伝うのを感じる。
こいつならなんだってするだろうと、確信めいたものを感じる。
ごめん、片山。
私のせいで迷惑かけて、ごめん。
「頑張った」って言ってたのに、本当にごめん。
気がつけば私は、キッチンに放置されていた包丁を手にしていた。
「その言葉、取り消して」
そう言いながら金成に刃先を向けた私は、彼を本当に刺そうとは思っていなかった。
信じてもらえないかもしれない。けれど、「片山には手を出さない」と、約束してほしいだけだった。
しかし金成は、そんな私を見て、怯える素振りも見せなかった。
それどころか、「自分の思い通りになった」とでも言いたげな、満足そうな表情をしていた。
頭の中の警報が、大きくなる。
「来ないで」
威嚇するつもりで叫んだその言葉は、恐怖で震えていた。
包丁を握る私の手に力が籠っていないことなんて、誰の目にも明らかだろう。
金成が、笑う。心底愉快そうに、笑う。
刃物を向けているのは私なのに、金成の目はまるで獲物を追い詰める捕食者のようだった。
抵抗する獲物をいたぶって楽しんでいるような、そんな目だった。
逃げないと。
そう思ってじりじりと後退する私と、徐々に距離を詰める金成。
二人きりの家の中で、逃げるところなどないことなんて、わかっていた。
手を伸ばせば触れられる距離にまで、金成が迫る。
にたりと笑う金成は、今まで見たどんなものよりも、不気味で邪悪だった。
「ああ、絵莉朱。君は本当に愚かだね」
その言葉が投げ掛けられると共に、胸元に衝撃を感じる。
…刺されたな。
刃物が刺さった感覚はあるものの、不思議と痛みは感じなかった。
胸から溢れる血を見ながら、「あ、これは死んだわ」と思った私は、驚くくらいに冷静だった。
悔しい。悔しいなあ。
見慣れない花瓶も、包丁も、ゴルフクラブも、全部このために用意されたものだったのか。カッとなった私が手に取りやすいように、わざと目の前に置かれていたのか。
全部全部、自身の正当防衛を主張するために、金成が用意した罠だったのか。
そりゃあ私にも、悪いところはあったよ。
用意されていたとはいえ、本当に刺すつもりはなかったとはいえ、人に対して刃物を向けてしまったんだから。
けれどもどうして、私だけが“悪”になってしまうの?
金成のことだ。自分には非がないように仕立て上げる手筈は整えているのだろう。
きっと最後の最後まで、私だけが“悪”にされてしまうんだろう。
悔しい。悔しいなあ。
私が死んでしまうのは、仕方がない。
けれどもどうか、神様がいるのであれば聞いてほしい。
どうか金成にも、相応の罰を与えてほしい。
最後の力を振り絞って、いるかもわからない神様に祈りを捧げる。
最後に残す言葉が、誰かの幸せではなく、誰かの不幸を願うものだなんて。
そのことに気づいた私は、心の中で「つくづく私も最低だな」と呟いた。
「こんなに思い通りにいくなんて、やはり馬鹿な女を選んで正解だった」
そんな言葉と高らかな笑い声を聞きながら、私はそっと目を閉じるのだった。




