悪役と終幕
扉の向こうへと足を踏み入れた私は、会場の雰囲気に圧倒された。
会場は賑やかで活気があふれているものの、決してうるさいという訳ではなく、皆楽しそうに、思い思いに過ごしている。
「私と、踊ってもらえるか?」
早々にそう尋ねるジェラルド様の言葉は、疑問形でありながらも断られることなど想定していないように感じられた。
私が「はい」と答えるや否や、私の手を取り会場の中心へと私を導いたジェラルド様は、そのままもう片方の手を私の腰へと伸ばす。
「エリスが私の婚約者であることを、ここにいる全ての人間に見せつけてやりたい」
そう言ってジェラルド様は、妖艶に笑った。
会場中の視線が、私達に向けられるのを感じる。
大勢の目の前でジェラルド様と踊ることにも、すっかり慣れた。
元々、目立つことも身体を動かすことも好きではない私だけれど、ジェラルド様とのダンスはとても楽しい。
ジェラルド様のリードに合わせてくるりとターンすると、談笑していた令嬢たちから「きゃあ!」と歓声が上がるのが聞こえた。
そのまま二曲、三曲と、休むことなく踊り続けたので、おそらく私の頬は上気し始めていることだろう。
ちらりとジェラルド様を盗み見ると、彼とばっちり目が合った。
「そろそろ休もうか」と涼しい顔で言うジェラルド様は、息も乱れていない。
「学園内の催しとはいえども、私とばかり踊っていても良いのですか?」
ダンスの輪から外れ、二人でノンアルコールカクテルを傾けながら辺りを見渡すと、数名の生徒が赤い顔をさっと背けた。
私とジェラルド様は婚約者同士のため、パートナーを交換せずに踊り続けることはマナー違反ではない。しかし、「見目麗しい王太子とぜひ一曲だけでも」と思う令嬢がいるだろうことは、容易に想像がつく。
それに、この機会を逃せば、おそらくジェラルド様とマイがダンスをすることは二度と叶わない。
ジェラルド様は王太子であり、マイは平民なのだから。さらには、ジェラルド様には私という婚約者がいるのだから。
「せっかくの機会なのですから、他の方とも踊られてはいかがですか?」
例えば、マイと。本当は嫌だけど。
けれども私も鬼ではない。彼が想い人とダンスができる、一世一代のチャンスなのだ。そのくらいのことを許容できるだけの、心の広さは持ち合わせている。
自分の感情に蓋をして、ジェラルド様ににこりと微笑むと、彼はわかりやすく眉間に皺を寄せた。
「エリスは、私と他の女性が踊るのを、嫌だとは思ってくれないのか」
「必要以上にベタベタされるのは不快ですが、それでも美しく笑っているのが、王太子妃の務めですから」
私がそう答えると、ジェラルド様は少し傷付いたような顔をした。
「私は、いつもエリスが他の男と踊るのを、腸が煮えくり返る思いで見ていると言うのに…」
「社交の場であれば、仕方がないでしょう?」
「わかっているから、普段は我慢しているのだ。だが今日は、エリスを他の男に触れさせてなるものか」
「でしたら、私はその間ラルフと一緒におります」
「ラルフでも駄目だ。今日は私の側から離れてはならん」
だから私も誰とも踊らん、と言うジェラルド様は、なんだか少し子どもっぽかった。
けれども、そんな子どものような執着心を向けられて、嬉しいと思ってしまう自分がいる。
マイよりも私を選んでくれたことに、喜びを感じる自分がいる。
「では今日は、ずっと二人で過ごしましょう?」
私がそう言うと、ジェラルド様は満足気な笑みを浮かべた。
◇◇◇
時計の針が、パーティーの終了時刻を指そうとしている。
「そろそろか」
ジェラルド様の目線を辿ると、閉幕の挨拶をしようと前に出る学園長の姿があった。
「とても素晴らしい夜だった。共にいてくれて、私のわがままを叶えてくれてありがとう」
ジェラルド様の言葉を聞いて、鼻の奥がツンとする。
ねえ、エリス。今日は素晴らしい夜だったわ。
ジェラルド様から婚約破棄を言い渡されることもなく、絶えず幸せだったわ。
私達は、“悪役”の座を逃れたのよ。
「私も、とても楽しい夜でした」
そう言って笑いかけようとしたその刹那。聞こえてきたのは、会場の扉付近から聞こえる叫び声と、「止まれ!!」と言う怒号。
目の前のジェラルド様の顔色がさっと変わったのを見て背後を振り返ると、目に入ったのは一直線にこちらへと走り来る人。
―――カイン・スピアーズ。
「なぜここに」と、一瞬頭をよぎったその疑問は、恐怖によってすぐに塗り潰される。
私が最後に見た伯父よりも、痩せこけて不健康そうな顔色をしているけれど、眼光は鋭く、その姿は手負いの野生動物のようだった。
「どけえええええええ!!!」
彼の細い身体のどこからそんな声が出るのだろうかと思うような咆哮に、身体を竦ませる私と、そんな私を守るように手を広げるジェラルド様。
伯父の手に握られたナイフが、会場の照明に反射してきらりと光ったのがわかった。
このままではジェラルド様が。
「助けなきゃ」と、思う暇もなかった。
私の前に広げられたジェラルド様の腕を掴んで体重をかけると、彼の身体がぐらりと後ろに傾く。
前からの衝撃に備えていたジェラルド様は、まさか後ろから腕を引かれるとは思ってもいなかったのだろう。
「は」という声を発したジェラルド様は、呆然としていたように思う。
何が起こったのかわからない、わかりたくない、というような、感情が抜け落ちたような表情をしていたように思う。
そのままジェラルド様の前に立ち塞がるように身を翻した時、すでに伯父は私の手の届く距離にいた。
にたりと笑う伯父の顔が、前世の夫の顔と重なる。
彼の手に握られたナイフが迫り来る。…あの時と同じように。
「エリス!!!」という叫び声と、不快な高笑い。
それに続いて訪れたのは、「熱い」という感覚。
…刺されたな。
混乱を極める周囲とは対照的に、私は驚くくらいに冷静だった。
狂ったように笑い続ける伯父は、すでに衛兵によって取り押さえられており、まずはそのことに安堵する。
そのまま私の名を呼び続けるジェラルド様へと視線を向けると、彼は今にも泣きだしそうな顔をしていた。
少し視線を逸らすと、人ごみをかき分けてこちらへ向かって来る、ラルフとアンドリュー殿下。二人の顔色はあまりにも悪く、「倒れてしまわないかしら」と、心配になるほどだった。
「仰向けに寝かせて傷口を押さえろ!」
「清潔な布をありったけ持って来い!」
誰かがそう叫ぶ声が、どこか遠くに聞こえる。
このまま、死んでしまうのかな。
前世で夫に殺された時と同じような感覚に、そんな思いが頭に浮かぶ。
蘇った絵莉朱の最期の記憶に、腹を立てる気力すらなかった。
目の前で、最愛の人が叫ぶ。
ラルフやアンドリュー殿下、そしていつの間にか加わったマイが、私の名を呼んでいる。
全員が、この世の終わりのような、悲痛な表情を浮かべている。
こんな形で、彼らの心に影を落とすことになるなんて。
これじゃあまるで、本当に“悪役”みたいじゃない。
私がこのまま死んでしまったら、ジェラルド様は私の亡霊に囚われ続けることになるだろう。
血を繋ぐ義務がある立場にありながら、「エリスを忘れて他の者と結婚することなどできない」などと言い出すジェラルド様の姿が、容易に想像できる。
私はそんな未来を、望んでいない。
彼の背中を押せるのは、私しかいない。
「ねえ、ジェラルド様?」
私がそう呟くと、刺された脇腹からこぷりと血が溢れた。
今まで意識したことはなかったけれど、言葉を発するにも身体に負荷がかかるらしい。私が言葉を発すると共に溢れ出る血液を見て、ジェラルド様が「もういい黙れ!」と怒鳴る。
けれども、私は黙らない。
「最期のお願い、聞いてくださる?」
「聞かん。最期になんかさせるものか」
「私が死んだ後、婚約者はマイになさるといいわ。きっと彼女となら、ジェラルド様の目指す未来に近づけると思うの」
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。私の婚約者は君だ」
「お願い、聞いてくださらないの?」
酷い人ね、と言って口端を上げると、ジェラルド様の瞳から涙がぼたぼたと落ちた。
そのままマイに視線を向けて、「ごめんなさいね」と呟く。
ごめんなさい、マイ。「好きに生きたい」という、あなたの意思を無視してしまって。
けれどもきっと、あなたもジェラルド様のことを好きになると思うの。
とても誠実で、一途な人だから。あなたの望みも、最大限叶えようとしてくれるはずよ。
最後の力を振り絞って、笑う。
できるだけ優雅に、痛みなど感じていないように。
彼らの記憶に残る私が、幸せな顔をしているように。
私はとても幸せだったわ。
あなた達のような素晴らしい人々に出会えて、本当に良かった。
こんな私を信じてくれて、愛してくれてありがとう。
だから、ねえ、そんなに悲しい顔をしないで?
その言葉は音にならず、僅かに口から空気が漏れるだけだった。
…同じ“死”であっても、誰かに惜しまれながら命を終えるのは、随分と気分が良いものなのね。
頭の隅で一度目の“死”を思い出しながら、私はそっと目を閉じるのだった。




