悪役と妥協
結局あの後、私がどのようにして家まで帰ったのか覚えていない。
目を腫らして帰宅した私に、両親は何か言いたげな顔をしていたけれど、「疲れているから部屋に戻るわね」と言ったきり部屋に閉じこもった私に、彼らは何も言わなかった。
私を心から心配する両親に、何も告げずにいるのは心苦しくも感じたが、ジェラルド様の本心を彼らに知らせることなどできなかった。
言葉にすれば、自分の中の何かが崩れ落ちてしまうような気がした。
「仕方がない」という気持ちと、「認めたくない」という気持ちの間で揺れ動きながら、ベッドに沈み込んだ私は、その日は結局そのまま寝落ちてしまったようだ。
次に目を覚ました私が最初に感じたのは、「寒くて熱い」という感覚だった。
心が弱っていたところに、急に冷え込む日が増えたことも原因だったのだろう。医師からは「気温の変化と疲労による発熱です」と告げられた。
その日から私は、熱で一週間寝込むこととなった。
ジェラルド様を筆頭に、多くの人から「見舞いに行きたい」と言われてるとラルフから聞かされたが、それらは全て断ってもらった。
「とてもじゃないけれど、人に見せられる有様じゃないわ」と言う私に、ラルフは「こんなエリスを見られるのは弟の特権ですね」と言って笑った。
「ジェラルド様に、そのまま伝えておきましょう。きっと悔しがられますよ」
にんまりと口端を引き上げながらそう言うラルフに、私は曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
そんな反応をしながらも、「ラルフの言う通りだろうな」とも思った。
見舞いを断ったにも関わらず、ジェラルド様は忙しい合間を縫って、私に毎日手紙と共に花束を届けてくれた。
彼から送られてくる花束は、どれも“愛”にまつわる意味を持つ花で構成されており、そのことに気づいた時にはちょっぴり泣いた。
ジェラルド様の愛情を身に染みて感じながらも、唯一得られなかった彼の“恋慕の情”に執着している自分が、みじめで仕方がなかった。
「早く良くなってほしい、だが無理はするな」「エリスがいない学園はつまらない」と書かれた手紙を見て、「恋愛対象じゃない女にそんなこと言わないでよ」と少しでも思ってしまった私は、相当弱っていたのだろう。
『ガクレラ』の婚約破棄の場面を何度も夢で見たことも、理由かもしれない。
私に冷たい目線を向けながら、「おまえのような人間と人生を共に歩むなど考えられない」と声を荒げるジェラルド様と、そんな彼にぴったりと寄り添うマイ。
「これは夢だ」と、夢の中ですらわかっているにもかかわらず、打ちひしがれて絶望している、そんな夢。
そういう悪夢を見るのは決まって真夜中で、飛び起きる私を待ち受けるのはいつも真っ暗闇だった。
その度に私は、世界で自分だけがひとりぼっちでいるような気持ちになり、「このまま闇に溶けて消えてしまえればいいのに」と、そんな風に思った。
「私がいなくなれば、二人は結ばれるのかもしれない」
「私がいなくなれば、二人とも悲しむだろう」
「“悪役”でない私も、二人の仲を邪魔しているのかもしれない」
「私が身を引いても、二人は喜ばないだろう」
身体が弱ると心も弱るというのは本当のようで、私は自身の心の中の相反する思いに翻弄され続けた。
そして、そんな状態でも「ジェラルド様に会いたい」と思ってしまう自分に、ほとほと呆れ果てていた。
◇◇◇
部屋に閉じこもっていた期間中、私は静かに枕を殴りつけ、声を殺して泣き咽んだ。
しかし、ぐちゃぐちゃに乱れた情緒は熱が下がると共に落ち着き、完治した頃には、私は一種の悟りを開いていた。
全てを受け入れるしかないのだ、と。
正直なところ、私からジェラルド様に婚約の解消を申し出ることも考えた。
彼の幸せのためになら、私は身を引く覚悟もあった。
けれどそれが、上手くいくとは思えない。
この世界のジェラルド様は、「私のことは気にせず自由にしてください」と言われたからといって、嬉々としてマイの元に行くような人間ではない。
私が婚約解消を申し出たとしても、彼は絶対に了承しないだろう。
当然のことながら、この世界のジェラルド様は、マイと一緒になるために私に婚約破棄を言い渡すような人間でも、もちろんない。
そして何よりも、現時点でジェラルド様に好意を抱いているようには見えないマイを、無理矢理彼の婚約者にする訳にはいかない。
私がジェラルド様の元を去ったからといって、彼の想いが実を結ぶとは限らない。そのことがわかっている以上、私が勝手に動くべきではない。
人の心は、第三者の手で自由自在に動かせるものではないのだから。
そうなのだ。人の心の動きは、他人にどうこうできるものではではないのだ。
もちろん、ここでジェラルド様が私を蔑ろにするようであれば、私は婚約者として、その行動を指摘することができる。
けれども、彼はそんなことはしない。婚約者である私にも心を砕き、きちんと愛情を持って接してくれている。
心の中で密やかにマイを恋しく思っているだけであれば、それを注意することもできないし、注意したってどうにもならない。
ならば私に残された道は、そんなジェラルド様を受け入れるか否かという二択だ。
私は、受け入れる。
ジェラルド様が私に恋心を抱いていなくとも、私達には月日をかけて築き上げてきた信頼と絆がある。
それは必ずしも“恋慕の情”に劣るものではない。
ジェラルド様は、私を愛してくれている。そしてそれを、きちんと示してくれている。
私からジェラルド様への“愛情”と、彼から私への“愛情”の中身が、ほんの少し違うからと言って、嘆き悲しむ必要などどこにもないのだ。
そう考えるに至った私は、あの日あの場で話を聞いてしまったことを、ジェラルド様には伝えなかった。
伝えてしまえば、彼はおそらく後悔するだろう。私にそんな話を聞かせて、私を悲しませてしまったことに対して。
彼は実直で、優しい人だから。
ジェラルド様の私に対する愛情が本物だということは、胸を張って断言できる。それは家族愛に近いものかもしれない。けれども、それだけで十分じゃないの。
人生を共に歩むパートナーとして認められただけで、これほど喜ばしいことはない。
そこに恋心がなくとも、きっと私達は上手くやっていくことができる。
自分にそう言い聞かせて、私はあの日感じた悲しみを、胸の奥へとそっと仕舞い込んだ。
◇◇◇
彼女の物語が、終わる。
創立記念パーティーの華やかな賑わいが、扉のすぐ向こうにある。
ふーっと細く息を吐く私に、ジェラルド様が優しい眼差しを向ける。
「緊張しているのか?」
どうして、と続けられた言葉に、私はゆっくりと微笑みを返す。
「ジェラルド様の婚約者として見られる場は、いつだって緊張します」
そう言って彼の腕に回した手に力を籠めると、ジェラルド様が肩を揺らした。
「今日のエリスは、女神が舞い降りたかと思うほどに美しい」
「もう何度も、伝えていただきましたよ?」
「何度だって言いたくなるくらいなのだ」
ジェラルド様の真剣な眼差しは、その言葉がお世辞でも誇張でもない、彼の本心であることを示していた。
「ありがとうございます。ジェラルド様は、いつも素敵ですよ」
ジェラルド様の瞳を覗き込んでそう言うと、彼は僅かに眉を顰める。
「…揚げ足を取らないでくれ。いつものエリスも、女神のように美しい」
思った通りの反応に、思わず「ふふっ」と笑いが溢れる。
そして、そんな私を見つめるジェラルド様は、蕩けるような笑みを浮かべている。
今この状況を、“幸せ”という言葉以外で言い表すことができようか。
「さあ、行こうか。皆が我々を待っているだろう」
「はい、ジェラルド様」
ジェラルド様に促され、私達は扉へと歩を進める。『ガクレラ』の彼女が断罪される、その会場へと。
恐ろしいとは、微塵も思わなかった。
ジェラルド様の心がどこにあれ、婚約者は私なのだ。
その気持ちを胸に、私はパーティー会場へと足を踏み入れたのだった。




