悪役と失恋
「王立学園の創立記念パーティーが開催される」と発表されたのは、つい先日のことだ。
日時は三ヶ月後。おそらくこれが、『ガクレラ』でエリスが婚約破棄を言い渡されたパーティー。
少し前の私であれば、“前世の私”や“『ガクレラ』の彼女”の亡霊に怯えて、このパーティーに恐怖心を抱いていただろう。
けれども、今は違う。
私は、悪女と呼ばれていた絵莉朱でも、『ガクレラ』の悪役エリスでもない。
この世界の私は、素敵な婚約者や義弟、友人達に囲まれた、幸せなエリスなのだ。
そのことを思うと、何度だって顔が緩む。
「楽しそうだな。何があった?」
いまだに続く“婚約者親睦会”の場でそんなことを考えていた私に、ジェラルド様からそっと声が掛けられる。
二人掛けのソファーに横並びで座ることにも、すぐそばに彼の熱や香りを感じることにも、すっかり慣れていることに気づいた私は、笑みを深めた。
「…幸せを、噛みしめておりました」
私がそう言うと、ジェラルド様は目元を緩めた。
「今日は創立記念パーティーのドレスの打ち合わせをしていたと聞いている。私には、見せてくれないのか?」
下ろしたままの私の髪を指で弄びながら唇を尖らせるジェラルド様に、私はつい笑い声を漏らしてしまう。
「ふふ。当日を楽しみにしていてくださいませ?」
私の返事を聞いたジェラルド様は僅かに目を見張ると、そのまま私の腰を抱き寄せて、頭頂部に口づけを落とした。
ぽかぽかと暖かい日差しが降り注ぐ温室全体が、和やかな空気に包まれる。
私とジェラルド様の間には、幼い頃から築き上げてきた確かな信頼関係がある。
それは決して燃え上がる恋心のようなものではないけれど、穏やかで強固なその関係が、私はとても気に入っている。
「幸せですね」
ジェラルド様に抱き寄せられている私からは、彼の顔を見ることができない。
けれども私の呟きを聞いて、腰に回されたジェラルド様の腕に力が入ったのがわかった。
◇◇◇
王居に与えられた私の私室にドレスが届けられたのは、それから一ヵ月後のことだった。
届けられたドレスを見て、私は溜息を溢す。
「なんて美しいの…」
学園内で開かれるパーティーとはいえ、そこは貴族の子息子女が通う場。
学園内にパートナーがいる場合、その人にエスコートしてもらうのが暗黙の了解になっているそうだ。
従って、私はジェラルド様の横に立つことになる。どうしても彼の色を纏いたかった。
しかし、私と彼の色合いの相性は、決して良いとは言えない。
仕立て屋の人々に「どうか力を貸してくださいませ!」と私が泣きついた時、部屋中に緊張が走ったのを覚えている。
王太子の婚約者が着るドレスを、全面的に任せられてしまったのだ。彼らの気持ちはよくわかる。
そして今日、おそらく仕立て屋の威信がかかったそのドレスを見た私は、あまりの素晴らしさに言葉を失った。
「まだお直しが必要ですが」とは言われたものの、そのドレスは短期間で作られたとは思えないほどに精巧で、手が込んでいるように思われた。
「こんなに早くに仕立ててくださるなんて…。とても大変だったでしょう?」
私がそう言うと、仕立て屋の店主がにっこりと笑った。
「我々の持てる力全てを出し切り、仕立てさせていただきました。気に入っていただけたようでなによりです」
彼女の言葉を聞いて、もう一度ドレスに視線を向ける。
無駄な装飾のないシンプルなラインのそのドレスは、私のスタイルの良さが際立つようにデザインされているのだろう。一目で高級だとわかる布地は、光が当たるとキラキラと輝き、まるで星空のように美しい。胸元から手首までを覆うレース地のおかげで、色気と共に上品さがプラスされている。
「このドレスを着たエリス様を『地味だ』とおっしゃる方はいらっしゃらないだろうと、自信を持って言えます」
仕立て屋の店主の言う通り、落ち着いた色見でありながらも華やかなそのドレスは、想像を超えた出来栄えだった。
このドレスを着てジェラルド様の横に立つ日が楽しみだ。
彼はどんな言葉を掛けてくれるだろうか。美しいと思ってくれるだろうか。
そんなことを考えていると、途端にジェラルド様に会いたくなってきた。
一目見るだけでいい。そう思って彼の予定を尋ねたところ、「ただいまはアンドリュー第二王子殿下と、私室にいらっしゃいます」との答えが返って来た。
そういえば、“交流会”と称した雑談の場が、定期的に設けられていると教えてもらったことがある。
ジェラルド様とアンドリュー殿下とラルフの三人だけが参加する気楽な集まりで、軽くお酒を嗜んだりするらしい。
その場になら、私が顔を出しても邪魔にはならないだろう。
そう思ってジェラルド様の私室の前まで来た私は、中から聞こえた会話に足を止める。
「また彼女の話か」と言ったのは、おそらくアンドリュー殿下だ。
その言葉に「私のことを話しているのかもしれない」と期待して、好奇心からその場で耳を澄ますことにした自分は、なんと楽天的で愚かだったのか。
「あれほどまでに素晴らしい女性に、私はこれまで彼女以外に出会ったことがないし、これからも出会うことなどないだろう」
親しい友人しかいない場で、気が緩んでいるのだろう。アルコールの影響もあるのかもしれない。いつもより饒舌なジェラルド様の言葉を聞いて、他の二人が「何度も聞きました」「ほんと彼女のこと大好きだよね」と口々に言っている声が聞こえる。
その時点で私は、ジェラルド様が絶賛する相手が自分であると信じて疑わなかった。
しかしその直後に続けられた言葉を聞いて、身体が硬直する。
「優しくて聡明で、彼女以外の人物に恋心を抱くなどありえない」
“優しくて聡明”…?
胸がざわりと波打つのを感じる。
どちらかというとキツイ性格をしている私を“優しい”と、学園での成績もそこそこの私を“聡明”と、そのように称するだろうか?
落ち着け。落ち着け。
そう自分に言い聞かせるけれど、扉の向こうから聞こえる声は止まってはくれない。
「優秀でありながらも、どこか放っておけない性格をしているだろう? 仕草も可愛らしいし、私が守ってやらねばと、庇護欲をくすぐられる」
“可愛らしい仕草”? “庇護欲”?
公爵令嬢として、厳しい教育が施されてきた私の“仕草が可愛らしい”?
公爵令嬢として、権力で守られている私に“庇護欲”?
何よりも、“優秀”などと言われたことはない。“優秀”と言われて思い浮かぶのは…。
考えれば考える程に、嫌な気持ちが身体中に広がる。
とにかく、落ち着かなくては。
そう思えば思う程に、頭の中の彼女の顔がはっきりとした輪郭を持つ。
「顔も好きだ。特に、感情豊かなあの目が」
…その言葉が、決定的だった。
マイなのね。
ぱっちりとした垂れ目が印象的な、優しくて聡明な彼女。
平民でありながら、学園でも上位の成績を収める、優秀な彼女。
ころころと変化する表情が可愛らしく、小柄で庇護欲が掻き立てられる彼女。
私とは、全く違う彼女。
やっぱり、こうなってしまうのね。
この世界で生きるジェラルド様と、『ガクレラ』のジェラルド様は、別人だ。
その人の人格は経験によって形作られるのだから、私と共に月日を重ねて来たジェラルド様が、『ガクレラ』のジェラルド様と同一人物だとは言えないだろう。
けれども、彼の核までもが全く別物だとは思えない。
おそらく、異性の好みも…。
わかっていたことじゃない。
ジェラルド様の好みがマイのような女性であることも、私が彼の好みからかけ離れていることも。
だからいまさら、傷つく必要なんてないのよ。
どくどくと脈打つ心臓の鼓動の音から逃げるように、首を左右に大きく振る。
ジェラルド様がマイに恋しているからと言って、私達の積み上げてきたものがなくなる訳ではない。
私と彼のこれまでの関係が、変化する訳ではない。
迫り来る浮遊感に抗うように、足元にぐっと力を込める。
多くを求めすぎた私がいけなかったのだ。
そこに“恋心”が存在しなくとも、私とジェラルド様はきっと良い関係を続けていくことができる。
だから悲しまなくてもいい。大丈夫。大丈夫。
心の中で何度も、繰り返しそう唱える。
けれども、瞳から溢れる涙を押しとどめることはできなかった。




