悪役と前進
「あなたの時間割、これで合っているの…?」
呆然と呟く私の手の中には、マイの時間割表がある。
一限から六限、多い日には七限までびっちりと授業が詰まったその時間割は、見ていて目がチカチカする。
この学園では、基本的にはクラス単位で必修科目の授業を受ける。
その上で、より各々に必要な知識を身につけられるように、五限目以降は各自自由に授業を選択する仕組みになっている。
私の場合、王太子妃教育を受ける必要もあって、必修科目以外の授業は二つしか取っていないが、これでも「少なすぎる」という訳ではない。
マイの授業数が、異常なのだ。
「入れられるだけ入れてみました」
そう言ってマイは、悪戯が見つかった子どものように「えへへ」と笑った。
「ずっと、勉強したくてもできない環境にいましたから。存分に学べる今が、楽しくて仕方がありません」
「本当に、素晴らしいわね」
特待生に選ばれたマイが、優秀であることはわかっていた。
「マイは全ての科目において三本の指に入るほどに優秀な成績を収めている」と、ジェラルド様からも聞いていたが、彼女にとっての“全ての科目”がこんなに膨大だとは思っていなかった。
「エリス様と違って、私は勉強だけに打ち込めますから」
マイは当然のようにそう言ってのけるが、「一日にどのくらいの時間勉強しているの?」という問いに対する返答に、私は度肝を抜かれた。
「無理して身体を壊さないでね…?」
思わずそんなことを言ってしまった私に、マイは満面の笑みで答える。
「もちろんです。健康な身体がなければ、何もできませんから。けれどこの身体、とっても丈夫なんです!」
そう言って力瘤をつくってみせるマイに、ついつい笑ってしまう。
しかしマイは、そこで急に真面目な顔をした。
「幼い頃、貴族でない私は学ぶことができないと知って、絶望しました。けれどもエリス様が特待生制度を発案してくださったおかげで、私はその機会を得ることができたのです」
本当にありがとうございます、と頭を下げるマイの手に視線を落とすと、右手の中指が一部赤くなっていることに気がついた。
右手中指第一関節。そこだけが赤く、皮膚が硬くなっていることからも、彼女が毎日どれほど頑張っているのかが伝わってくる。
彼女の優秀さは、ヒロインとしてのチート能力によるものではなく、彼女本人の努力によるものなのだ。
これほどまでにやる気のある優秀な者が、「平民だから」という理由で教育を受けられないのは、国にとっても大きな損失だということは、誰の目から見ても明らかだ。
彼女の努力が後続の道を広げることになるだろうと思うと、なんだか誇らしい気持ちになる。
「あなたのような人材を、ジェラルド様も求めていたのでしょうね」
心に浮かんだままにそう呟くと、マイは恥ずかしそうに微笑んだ。
「私はただ、好きで勉強しているだけなのですが…。それで国のお役に立てるのであれば、私としても嬉しいです」
「何か目標があるのかしら? 就きたい職業だとか」
『ガクレラ』よりも特待生制度の開始が早かったおかげで、何人かの卒業生はすでに社会に出ている。
そのほとんどが、なんの伝手もない平民では選べないような職業に就いていることが報告されていることから、この制度は概ね成功していると思われる。
これだけ熱心に勉強しているのだから、マイも大抵の職業には挑戦できるだろうと思い尋ねてみたところ、彼女はわかりやすく瞳を揺らした。
そのまま少し口籠もり、恥ずかしそうに俯きかけた彼女の様子を見て、「言いたくなければ構わないのよ」と、伝えようとした時だった。
「…王宮で働きたいと、思っております」
射るような目線を私に向けながら放たれた言葉からは、マイの決意のようなものが感じられた。
「高望みであることはわかっています。けれども、エリス様のお側に仕えられたらと…そう思っています」
マイの言葉を聞いて、胸が温かくなるのを感じる。
当然のことだけれど、自分の専属侍女であっても、私の一存でマイを王宮の侍女にすることはできない。
しかし、マイから真っ直ぐに好意を向けられたことに関しては、素直に嬉しい。
卒業してからも関わっていきたいと、側で仕えたいと思ってもらえていることが、とても嬉しい。
もちろん、王宮の侍女というのは、なりたいからといって簡単になれるものではない。貴族の子女にとっても憧れの職業なのだ。きっと倍率も高いだろう。
そのことを伝えた上で、「あなたがそう思ってくれていること、ジェラルド様にもお伝えしておくわね」と言うと、マイはぱあっと笑った。
しかし彼女はすぐにはっとした表情を浮かべると、「すみません」と呟いた。
「こういうところですよね。もう少し、冷静でいないと…」
そう言いながら、自分の頬をムニムニと摘まむマイは、可愛らしいことこの上ない。
ハンナ嬢から「八つ当たりだった」と言われてもなお、マイは彼女から投げつけられた「無作法な振る舞い」という言葉を気にしているらしい。会話の途中で表情を曇らせるマイを見るのは、初めてのことではない。
他者からの指摘を聞き入れて、すぐに改善しようとするその姿勢は、見習うべきものだとは思う。
素直で努力家な彼女のことだ。きっとすぐに、どんな時でも涼しい顔をしていられるようになるのだろう。
けれども私は、そんなマイを目にするたびに、少し残念な気持ちになってしまう。
感情表現の豊かさは、マイの美点だ。貴族の世界の常識を知ったからといって、元々持っていた美点を消し去ろうとする行為は、あまりにもったいない。
常々そう思ってはいたものの、頑張ろうとするマイの気持ちを削ぐことになるかもしれないと、今までずっと言わずにいた。
行動のすべてが裏目に出ていた前世の記憶が、私の口を重たくさせていた。
でも、あの時、裏庭ではきちんと伝わったのだ。
今の私なら言えるかもしれない。
今の私の言葉なら、正しく伝わるかもしれない。
マイに気づかれないように、細く長く息を吸い込む。
「ねえ、マイ。今からいうことは、公爵家の娘からのアドバイスではないわ。あなたの友人である一個人の、独り言だと思ってほしいの」
ゆっくりと吐き出した言葉は震えてはいなかったものの、私の緊張がはっきりと表れていた。
それに気づかないマイではない。
「エリス様?」
彼女が不思議そうな顔を少し傾けると、茶色の髪がサラサラと肩から溢れた。
光に当たって普段よりも明るく見える彼女の髪は、思わず手を伸ばしてしまいたくなる程に美しい。おそらく、丹念に手入れがされているのだろう。
視線を髪から僅かに横に逸らすと、次に目に入ったのは、形の良い小さな唇だった。
「感情を、無理して押し留める必要はないのよ?」
マイの目を見ることができない私は、そう言いながらも彼女の口元ばかりを見ていた。
ゆっくりと、目線を上にあげる。
マイの頑張りを、否定するつもりはまるでない。しかし、そう受け取られても仕方がない内容を、彼女がどのような表情で聞いているのか、確認するのがとても怖い。
けれども私の目に映った彼女の瞳は澄んでいて、私は話を続けることを許されたような気持ちになる。
「冷静さを求められる場面も、もちろんあるわ。あなたが王宮で働くことになれば、おそらくたくさん。けれども、友人として私といる時は、そんなことを気にしなくてもいいのよ。私は、あなたのその感情豊かなところが好きよ」
勢いのままそう言うと、体内の酸素が全てなくなったような気がした。
言いたいことは全て伝えた。
後はマイが、それをどう捉えるかだ。
あまりにも早口に、一方的に言葉を投げかける私に、彼女も始めは呆然とした表情を浮かべていた。
しかし後半になるにつれ、彼女は何かを耐えるように口をきゅっと引き結んだ。
そして、全てを聞き終えた彼女から放たれた「…ありがとうございます」という言葉と、目に涙を浮かべながらも花が綻んだかのように笑う姿を見て、全身に喜びが駆け巡る。
きちんと伝わったのだ、と。
そのことを実感して、私はようやく一人の人間になれたような気がした。
前世を生きていた“絵莉朱”からも、ゲームの登場人物である“エリス”からも、解放されたような気がした。




