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悪女と呼ばれた私、転生先でも悪役です  作者: 小乃マル


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ある青年の追憶①

「いいね、あんた。図書館で無料で読めるものを、わざわざお金出して買ってもらえるんでしょ? 贅沢の極みじゃん」

 初めて彼女に声を掛けられた時のことを、僕は鮮明に覚えている。

 派手で近寄りがたい雰囲気を纏っていた彼女だけれど、正面から見る彼女の顔は、年相応に幼かった。


「でも、太田さんのお家も、本くらい買ってもらえるでしょ?」

 当時の僕だって、本が買えないくらいに余裕がない家庭があることくらいはわかっていた。

 けれども、授業参観で目にした彼女の両親の様子を思い返すと、彼女が金銭面である程度以上に恵まれていることは明らかだった。


 しかし彼女は、僕の言葉を鼻で笑った。

「あいつは無駄なことには金は使わないって豪語してるからね。自分の評価に関わらなけりゃ、私に金なんて使わないよ」

 彼女はそう言って口端を歪めたが、その目はとても寂しげだった。


 “あいつ”とは誰なのか、先程の彼女の言葉がどういう意味なのか。当時の僕はその意味を読み取ることができなかった。

 そして僕は最低の選択をした。もしも時間を遡ることができるのなら、僕は迷わず当時の自分を止めに行くだろう。


「このお金、太田さんが使ってよ」

 その時僕は、彼女にそう言って一万円を差し出してしまった。

 そんな僕に対して、彼女は訝しげな表情を浮かべた。

「は? 馬鹿じゃないの? あんたのためにって、あんたの親がくれたもんでしょ?」

「いいんだよ。本は、図書館で借りて読むことにするから」

 そう言った僕は、彼女が喜んでくれると信じて疑わなかった。


 しかし彼女は喜ばなかった。それどころか、その後放たれた彼女の言葉には、明らかな怒気が含まれていた。

「ふざけんな、いらねえよ」

 地の底を這うような、低い声だった。

「自分で稼いだ金でもないくせに、偉そうなこと言ってんじゃねえよ。同情のつもり? 人のこと馬鹿にすんのも大概にしろ!」

 興奮した彼女のその声は、後半はクラス中に響き渡る大声になっていた。


 自分の言葉が、彼女を怒らせてしまった。

 自分の善意が、彼女を深く傷つけてしまった。

 そのことに気がついた僕は、身体の震えが止まらなくなってしまった。おそらく、血の気も引いていただろう。


 その結果、何が起こったか。

 震える手でお金を差し出す僕と、そんな僕を睨みながら怒鳴りつける彼女。

 真面目で冴えない少年と派手な少女のそんな様子を見て、クラス全員が「カツアゲだ」と判断した。


 もちろん、僕は事実を伝えた。

「太田さんは悪くない。僕が勝手に彼女にお金をあげようとしたんです」

 しかし僕のその主張は、聞き入れられることはなかった。


 担任の先生はこう言った。

「怖がらなくてもいい。本当のことを言ってくれ」

 最初から本当のことを言っているという僕の言葉は、彼の耳には届かなかった。


 僕の母親はこう言った。

「うちの息子が、お宅の娘さんにどれだけ傷つけられたと思っているんですか? これは恐喝という、立派な犯罪ですよ!」

 傷つけたのは僕だと言っても、母は信じてくれなかった。


 彼女の父親はこう言った。

「本当に、大変申し訳ありませんでした。不出来な娘だとは思っておりましたが、まさかこんなことをするとは。私どもの監督不行き届きです」

 その言葉は台詞のようで、どこか白々しかった。

 その横で「本当に申し訳ありません」と、俯きながら繰り返す彼女の母親の腕は痩せ細っていて、見ていて痛々しい気持ちになったことを覚えている。


 結局、彼らにとっての“事実”を、覆すことはできなかった。

 僕がどれだけ真実を述べようが、大人達は柔らかな笑みを浮かべて「大丈夫、わかっている」と言うだけだった。

 その時初めて、絶対的に正しいと信じていた大人達を、心底恐ろしいものに感じた。

 僕が今まで信じていたものはなんだったのかと、そう思った。


 そして同時に、彼らの誤解を解こうともしない彼女の態度に驚愕した。

 大人達から一方的に“悪”と決めつけられている彼女は、終始何もかもを諦めたような表情をしていた。

 彼女の濁った瞳を思い出すと、今でも胸が締めつけられる。


 その日から彼女は、学校を度々休むようになった。

 僕の軽率な行動が、彼女の居場所を奪ってしまったのだ。


 中学を卒業する間際に、一度だけ彼女と話す機会があった。

「なんか…悪かったね。私がこんなんだから、大事になっちゃってさ。片山にはちゃんと謝らなきゃって、ずっと思ってたんだ」

 彼女はそう言って、眉を下げた。


 どうして彼女が謝っているのだろう。

 どうして彼女が、こんなに悲しそうな顔をしているのだろう。

 その時感じた衝撃を、僕は一生忘れない。


「今からでも、間違ってるって言いに行こうよ」

 それでも僕は、必死に伝えればわかってもらえると思っていた。

 彼女に対する誤解を、なんとかして解きたかった。


 しかし彼女は、心底どうでも良さそうに呟いた。

「そんな無駄なことに時間使うの嫌だよ」

 その時にはすでに、彼女は誰かに期待をするのをやめてしまっていた。


 彼女のような人間を救うために、僕は何ができるのだろう。

 当時の僕は、その問いに対する答えを、結局見つけることはできなかった。

 当時の僕は、あまりにも無力だった。



 ◇◇◇



「先生、ご無沙汰しております」

 そう言いながら入室した病室は、どんよりとした空気に包まれていた。

 先程まで使っていた傘の先から雨粒が落ちるのを気にする僕に、先生は「気にするな」と静かに告げた。


 先生が定年を迎えたという知らせを受けて、すでに三年が経過していた。

 仕事一筋でやってきた人間に多いと聞くが、先生もまた退職後から徐々に体調を崩し、少し前から入院していると聞いている。


「遅くなってしまったが、まずはおめでとう。片山が無事に弁護士になれて、本当に良かった」

 弱々しい言葉ではあるものの、僕にそう言う先生は、あの頃と変わらず“先生”の顔をしている。


「ありがとうございます。直接ご報告ができず、申し訳ありません」

「いやいや、今では年賀状のやり取りをしている教え子も数える程度だからな。どんな形であれ、片山の近況を知れるのは嬉しいことだ」

 先生はそう言うと、ベッド脇に置かれたパイプ椅子を僕に勧めた。


 僕が腰を下ろすのを見届けて、先生はベッド横のサイドテーブルを顎で示す。

「…この記事を見たか?」

 そこに置かれた毒々しい表紙の()()は、真っ白な病室の中で異彩を放っていた。

 

「はい」

 病室に足を踏み入れた時から、それの存在には気がついていた。

 目に入れないようにわざと顔を背けていたそれは、“金成絵莉朱”についての連載が掲載されている週刊誌だった。


「太田が死んだと聞かされた時も衝撃を受けたが、この記事の内容も同じくらいに衝撃的だった。しかしこれも、私の責任だな」

「そんな…」

「いや、慰めはいらん。私はこの罪から目を背けずに生きていくと、そう決めているのだ」

 先生にとっても、あの事件は苦い思い出であろう。

 記事での“元クラスメイト”の発言を、先生はどのような気持ちで読んだのだろうか。


 先生が退職後すぐに私宛に書いたという手紙には、先生の懺悔の言葉が綴られていた。

 「あの時の私の判断は間違っていたのではないか」「私は大きな過ちを犯したのではないか」といった内容が記されたその手紙は、後半になるにつれて文字が震えていた。

 そしていまなお、先生が「自分が生徒の言い分を聞かなかったせいで、一人の女子生徒の人生を狂わせてしまった」と思い悩んでいることを、僕は知っている。


「先生だけのせいではありません。発端は僕の軽率な行動でした」

 この言葉は慰めでもなんでもなく、僕の本心だ。

 しかし先生は、固く目を閉じたまま首を横に振った。

「片山の声も、私は聞かなかったんだ。太田だけではなく片山のことも、私が傷つけてしまったんだよ」

 先生はそう言って、深く息を吐き出した。


 その後黙り込んでしまった先生を、僕は静かに見守ることしかできなかった。

 空気の音が聞こえるほどに静まり返った病室で、先生は何を思っているのだろうか。


 長く続いた沈黙を、破ったのは先生だった。

「これは私の自己満足以外の何物でもない。けれどもどうしても、弁護士である片山に頼みたい」

 重々しく発せられたその言葉には、先生の決意が込められているように感じられた。


「彼女の名誉を、回復させてやれないだろうか? もちろん、彼女の犯した罪を擁護することはできない。しかし、当時の彼女は“悪女”ではなかった。彼女を“悪”にしたのは、周囲だったのだ」

 そう続けられた先生の言葉に、僕は静かに首を縦に振るのだった。

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