第71話〜第80話(全111話)
////////////////////////////////071
場面は一変する。不意に襲われて恐怖に引きつっていた女性が、突如反撃、いや、攻撃する側へと転じたのだ。
ノースリーブの女の右手がギラリと光った。いや右腕全体がまばゆく輝いたように見えた。その輝きは虹色のようでもあったし、青白くコバルトブルーのようでもあった。また、あるいはエメラルドグリーンのようでもあった。それはまるで刃のようだった。でもきっと俺の見間違いだろう、そんなことが起ころうはずがない。
彼女は戦闘用アンドロイドか?強化サイボーグかも?人間ではないのか?
女は、一歩も踏み込むこともせずただ左下方に向けて大きく右腕をなぎ払った。、、、っそ、そう、少なくとも俺にはそう見えた。
男は袈裟斬りにされたように、斜めに大きく細く長く血を噴出させたまま立ち尽くしていた。少しだけ時が流れた。男の肉体は斜め半分ズルっと崩れ落ちるように、そうしてバサッと全身、倒れた。
だが、その前に起きていたことがある、まさにほんの瞬間の出来事だった。黒い大きな塊が男が崩れ落ちる前のその男の頭に取り付いたのだ。
いったい、時間の感覚はどうなっているんだ?どんな順番で画が流れているんだ?
さっき飛んで来たアレ、いや、犬は人を飲み込まんばかりのデカい口を開けて頭に噛み付いた。それはとてつもないサイズの犬だった。デカ過ぎて、その認識に俺はやや自信を失いそうだったが、たぶん、間違いなく犬だった。そんなのはじめてお目にかかったぐらいのだ。こんな生き物が世に存在するのかというぐらいのだ。
犬はバクっという擬音がまさにピッタリに男の頭をその大口の中に収めて、そのまま右方向に首を振った。男の首が胴の付け根からそこになかった。引きちぎられたのだった。そして犬が再び口を開けた時、首がボトリと落ちた。
何だ、この狂気の、そしてコマ送りのこの一幕は?
女が振り返る、男が襲いかかる、黒い犬が飛びかかる、女の手が光る、男が切られる、犬が噛み付き首を引きちぎり、袈裟斬りにされた男が崩れ落ちるまで、すべてが刹那の時の中に集約されて、俺の脳の中をその一部始終の情報を伝える電気信号が駆け巡ったのだった。
いや、待て。今のは真実なのか?ついに現実逃避の無意識が、俺の頭の中を妄想で埋め尽くし、社会からドロップアウトしかけている一人の刑事を最期は精神破綻で葬り去ろうとしているのだ。いや、もう、しているのか?
衝撃だった。そういう惨劇の舞台演出かもしれないほどの。
だがそれは、間違いのない事実だった。俺の頬に付着したそれはまさに血しぶきのしずくだったのだ。驚愕と恐怖をないまぜに俺は我に帰った。
鼻先から尻尾を除いたとしてもざっと見渡しただけで体長5メートル以上か、三つに分かれたように見える長い尾を含めて、そう、おおよそ6メートルはありそうだ、、、俺の方に顔を向けたその犬の眼は真っ赤な光を放ち、、、刑事本能で迂闊なことに現場まで3メートルほどの距離にまで接近してしまったこの俺に、犬は牙を見せてもいないのに、ビシビシとそこらへんの空気が震えるようなその気魄のオーラで無言威嚇を与え続けていた。
知らない間にその場に膝を着いていた女が静かに立ち上がりながら言った。
「なかなかの切れ味だったわね」
え?何? 今、そう言ったのか?
犬はそれに答えず俺を睨んだまま唸っていた。その次の女の声は、俺を睨む犬を諭すように、それでいて叫んだかのような大きな声に近かった。だが、その響きはどこかしらやさしく憂いていた。
「やめなさい! リンカーン! もういいのよ」
そして死体を見下ろしながらこうも言った。
「センター長、私の友人のうちのひとりを紹介しておきますよ。ねっ」
巨大な黒い犬のことを振り返ったのだった。
「それに、あなたが知っている私の個人情報はほとんど正しくありません。本当のことを知っていたらあんな風になんてできなかったはずです。セントラルホストデータをどうにかするなんて造作もないことですって、もっと早く教えてあげたらよかったかもしれませんね」
な、なんだ?なんだって?そんなことができるのか?ほんとに何者なんだ。
犬の目ヂカラによる金縛りから解けて、わずかな距離にも関わらず、俺はわずかずつ警戒しながら、進みが足先の寸法の半分ずつほどの臆病さへの恥ずかしさも隠すことなく、ほとんどすり足気味にその女に近づいて行った。ただし、犬の顔を見るのは絶対に無しだ。この場から真っ先に逃げ出したいくらいの恐怖を気にしないように気にしないように、俺はまた前に出た。
不思議だと思ったのは随分後になってからのことだったのだが、現場周辺にはたくさんの野次馬や人通りがあったはずの時間帯や通りの状況で、にも関わらず悲鳴のひとつも聞こえて来なかったことだった。
周囲は、、芝居の中のまるで書き割りのごとく動いていなかった。
「 、、、 君は、、、ひょっとしてテレビで見た山本さん?」
女の1メートル前に立ち(と言っても低く唸る犬が発する圧力というか風圧に全力で逆らいながら)、俺は愚かな最初の質問をした。だが確かに、あの山本小百合氏にそっくりだったのだ。少しの間が空いて女が答えた。
「、、、 えっ、 いいえ違いますが」
「、、、 こ、これは大変失礼致しました。ところで大丈夫ですか?お怪我は?」
「、、、 ええ、私は大丈夫です」
女の右腕の先端部分にはまだ血がしたたっているようだ。それにまだ少しだが青白く光を宿し残しているかのようだった。さもありなん。ガイシャの方はと言えば、上半身を左肩側から右斜めに肝臓のあたりまでを切り裂かれて歩道の自らの血の海に沈んでいた。そして、頭と胴体は離れ離れだ。
女はただ手を小さく払った。まるで剣士同士の斬り合いの後に剣先に着いた血を振り払う姿を彷彿とさせるかのごとくだった。
巨大な犬がもう一度低く短く唸った。
「ダメ!」
犬は黙った。
俺はIDバッジを女に見せた。それを取り出すのに内ポケットに手を入れようとした時、また犬が今度は強く大きく唸ったが女は何も言わなかった。
「警察の方、、、」
「エッ?」
「警察」
「ちょ、ちょっと待ってください」
今、俺は教師をしているはずだ!IDバッジは教師の、、、それなのになぜ?頭を急速回転させてみたが何もわからない。ええい、ままよ。
「はい、少しお話を聞かせてもらえませんか?」
「正当防衛です」
「それにしてはだいぶやり過ぎですね。それにそれを決めるのはあなたではなく警察の仕事です」
犬がにじり寄ろうとしたが女はキッとした声で言った。
「リンカーン!」
その場が凛と固まった気がした。冷たく言い放ったが美しいと思う響きだった。
「良かったらお名前を」
「調べればどうせわかることです。正覚寺優子と言います」
「正覚寺優子、さん」
手の甲のウェアラブルモニターに文字表示されたフルネームを俺は見た。
「はい」
「すみません、仕事柄、今起きたことを聞かないわけにはいきませんので、、、」
////////////////////////////////072
モニターをスクロールして属性情報を確認しようとしたが、アクセス不能の表示と共にシステムダウンしてしまった。スイッチを押すがうんともすんとも言わなかった。
「そうでしょうね。でもあなたがお持ちの先ほどのIDバッジでは、この州での警察捜査権はありませんよ。確かそういうものを越境捜査と言います」
「あっ、これはこれは良くご存知ですね」
「ではよろしいですか?」
「待ってください。そうはいきません。それでは、一般市民としての現行犯逮捕権を行使してでもあなたからお話をお聞きしなければなりません」
「無理やりの論法です。そんな権利、今の時代には存在しません。ついでに言いますが、私は拒否します」
「仕方がありません。私の身分を明かしてでもこちらの警察に対応してもらいましょう。率直にお尋ねします。そもそもあなたは襲われたのですか?それともあなたは襲う方だったのですか?」
「質問など許可したつもりはありません。あら、それにいいんですか?あなたもタダでは帰れませんよ」
完全に手がなくなった。あとは力ずくで?まさかな、あっという間にあの犬に喰われてあの世ゆきだ。
「わかりました、私の負けです」
「では、これで」
「ああ、すみません、せめて事の発端だけでも、、、」
「しつこいですよ!うちのリンカーンが気が立ってますので」
犬の口元にもやはりガイシャの血のしたたりが生々しく残っている。ああ、なんてこった。。。
「ほんとにすみません、越境だろうが何だろうが私も警察官の端くれなんです」
「? はしくれ? ですか。面白い表現をなさるのね?」
ん?今、おもしろかったか?そんなつもりはさらさらなかった。それに、口調も温度感もが変わってる。上流階級のそのニオイがプンプンして来たぞ。
正覚寺優子は続けて言った。
「、、、、、わかりました。それではちょっとお話しましょうか」
「そうですか、感謝します」
正覚寺優子なる女性がかなりのタメを置いた後のやり取り。180度、風向きが変わった。巨大な黒い犬のすぐ横に音もなく滑り込んで来た、これまた黒くて巨大なリムジンが控えていた。ひょっとしてここは巨大生物・巨大物体の島だったのか、、、
バリッと黒のモーニングスーツ?を着た一体のアンドロイドが「お嬢様」に一礼してドアを開けた。手動?この時代に?いやわざとそうしたんだ。この女のために、ドアを開けて見せた。いったい何者なんだ、ほんとに。
お城の中のきらびやかな客間に通された気分とは多分こういう感じだろうと、勝手に俺は推理しながらリムジンの中へ、リビングへとお邪魔した。正覚寺優子は、何かの毛皮に覆われたソファーに腰をかけて俺と向かい合った。おい、リンカーン、まさかお前の毛皮じゃないよな。あらためて間近で見て気づいた。
見事な完成度のサイボーグ犬なのだとわかったのだが、殺意剥き出しで俺から視線を一時も離さず、だだっ広いリムジンキャビンのご主人様の足元に、リンカーンはドサッと寝そべってみせた。少しボディーが揺れたようにさえ感じた、この巨体では無理もない、でも気のせいだな、俺はそう思うことにした。それほどデカいんだ、このリムジンは。
正覚寺優子は自分のIDバッジを俺に見せてくれた。富永優子?
「ごめんなさい。富永はお仕事用の名前にしています。俗にいう偽名です」
もの凄く軽く言い放った。
「いや、オペレーションネームと言うんですよ」
「あら、勉強になりました」
「とんでもない」
中央省庁の用語を使ってカマをかけてみたが相手は乗っかって来なかった。
「正覚寺優子は本名なのです」
そこではじめてわかった、というか思い当たった。鈍いな、俺の脳みそは。こっちの州警察本部長の名字が正覚寺ではなかったか。
「偽名は冗談ですよ。母方の性です」
「ひょっとして南部州本部長の?」
「はい」
彼女の返事のタイミングとニュアンスに迷いはなかった。
「大変失礼致しました。しかし、それにしても先ほどの件はどう理解すれば良いのか、俺にはさっぱりなんですよ。良かったら少しだけでも教えて頂けたら嬉しいのですが」
////////////////////////////////073
令嬢のそばでひれ伏すリンカーンが低く少し唸りはじめていた。こういうのを密室の恐怖とでも言うのだろうな。俺は実感した。どこにも逃げ場のない空間。このリムジンのドアは、招かれざる客であるこの俺が自力で開けられるとは思えなかったのだ。ドアと思しきその部分には、取っ手もボタンもセンサーらしきスイッチパーツも何も目に入らなかった。
「実は私にもよくわからないのです。ああいうことは無意識のうちにこれまで何度か経験したことです。最初のうちはただただ驚くだけで、本当に何もわけがわからずでしたが、そうしているうちに少しずつ記憶していられるようになりましたし、なんというか、こう、意識することもできるようになりました。さっきのことなどは無意識というより、私の意識がそうさせたのだろうと私は思っています。そうであるなら私は第一級殺人犯ということになります。どうなさいますか?刑事さん? あ、桜田さんでしたわね?北部州警察の」
「はい。いや、その、この俺に捜査権もへったくれもないのはよく心得てます。ただひとつだけ、個人的な関心だとご理解頂いて結構ですから教えて頂けたらと思いますが、さっきのあなたの右の手に起きたことを、つまり光の剣のように俺には見えたのですが、あれはいったい何だったのか、もし良ければそのことだけでも教えてもらえませんか?」
「 、、、 」
「もちろん絶対に口外は致しません」
「企業秘密、いえ、国家機密ですわ。それに世の中に他にも絶対的なものがあるとは思いませんでした」
「それはどういう?」
「ごめんなさい」
「ところで、、、はしくれ、という言葉のどこに興味を持たれたんですか?何かが面白かったんですか?どうして話を聞いてくれたんですか?」
最後に立て続けて聞いてみたが、案の定、回答も微笑みも返って来なかった。この空間のきっとどこかにあるスピーカーから声がした。
「お嬢様、そろそろ参りましょう」
さっきのアンドロイドか。運転手であり護衛であり。まるで人間と区別のつかないその完成度は、今日の科学技術の進化の賜物だ。しかし、それよりさらに進化した究極の精度を実現出来る連中がこの世にはいるのだと、そのアンドロイドと目の前のサイボーグ犬を見て思った、直感だった。彼女の存在自体と恐るべきテクノロジーによる魔法に対して、感動と尊敬と畏怖の念と純粋な恐怖を以て、、、そして俺は話がそこで終わったことを飲み込んだ。
犬が首を上げた。巨大リムジンのドアというか、まるで壁のような寸法の大きさで静かにそれが開いて、外ではアンドロイドが降りろと無言で俺に言った。このアンドロイド、どうやら全身が武器だらけでできていやがる。刑事の無意識が俺に何かを告げようとしたが、俺には何も出来ることはなかった。だがしかし、とにかくこのまま引き下がるには何とも惜しい気がした。
「では、桜田さん」
「あ、あのう、またいつか」
「残念です。いつかはありませんよ」
彼女の優しい口調の中に脅しにも似た凄みを感じた。
実はその場を1ミリたりとも動いてはいなかったのか。すっかり勝手にどこかに連れて行かれている途中かと思っていたが、そのリムジンは今俺の目の前からわずかに浮上して音もなく行き去ろうとしていた。
昔々のことだ、そういう未来の時代に憧憬の念を持ち続けて、科学の進歩を信じ続けていた人間たちがいた。今やその夢は見事に結実したのだと時を遡って彼らに教えてあげたくなった。
そして空気が一拍した。
時が再び正常に動き始めた、そういう音が聞こえた気がした。俺を取り巻く周囲の環境が元に戻った。凄惨の現場に気づいたいくつかの悲鳴が塊となり、やがて波となり、大きな悲鳴叫喚のうねりとなってどっと押し寄せた。俺は溺れかけそうになって大急ぎで脱出を試みる。呼吸をしようとすれば危ない、息を止めたまま一気にかき分けていこう。
ふーっ、危ない危ない、うかうかしていたら俺が犯人扱いされるところだった。サイレンがもう聞こえ始めている。町中の監視カメラが即応通報したんだ。野次馬たちに気持ちと声のトーンを合わせながら、誰かに腕を掴まれはしないかと冷や冷やしながら群衆の流れの中を俺は全力だが注目を浴びぬよう極力平生を装って、そのつもりで、逆流した。
いくら管轄外とは言え、結果としてこの法治国家で俺は殺人犯を見逃した。警察官生活の中ではじめて。しかも現行犯。ったく、なんてこった!
俺はやっと大通りからそれて路地に入った。とことん古そうで静かそうなバーを見つけて、カウンター越しに見える、いったい何の果実酒かわかりもしないようなラベルの貼られたボトルコレクションを見るとはなしに見遣りながら(いやいや、よく見ているではないか)。
カウンターの中の女から、客の注文も聞かずに出されたショットグラスが三つ。そのうちのひとつをグッとあおったら、喉も胃袋も溶けて流れ落ちそうなその熱さに俺は身をよじった。グラスを磨きながら目の前にいたサイボーグの女が小馬鹿にしたように笑った。
すぐに血流の中に強すぎるアルコールが混じって来たらしい。本物のアルコールじゃなかったかもしれないな。だが、もう手遅れか。
あの女、正覚寺優子の綺麗な顔と(こういうのってのは何でいつも美人しか出てこないんだろうな、、、)冷たい瞳、そしてあの右手の剣、いや右腕か、そしてもうひとつ、あの凶暴かつ巨大な犬の、真っ赤に人を飲み込むように光っていた眼を少しでも忘れられるだろうか。血のしたたるあの口元を。ああ、刑事失格だ、、、などど思うまもなくだ。熱湯を飲み込んだような腹部の熱さと痛さで俺の意識は遠のいていった。もう、なるようになれ!破れかぶれだ。
悪いヤツをとっ捕まえて、そいつに残酷以上の罰を与えることならあの犬(そう、リンカーンと言った)に任せておけばいい。俺ら警察なんて必要性はまるでない。嗚呼、ああ、すべてがバカバカしい。俺たち警察は何てひ弱で情けないのだ。本当の力なんて、俺たちには何にも無いのだ。しかも致命的な服務規程違反。
、、、、、そうして 、、、、、
俺は刑事も警察官もやめた。
////////////////////////////////074
俺がやめると言った時、藤岡がこう言った。あいつは異様なほどに明るかった。
「先輩! 必要になったらいつでも呼んでくださいね。お嫁さんになってあげますよ!」
「ああ、その時は連絡させてもらうさ。それまでバカな男に騙されるんじゃないぞ」
「はいはい」
「はい、は、一回な」
「はいはい」
「藤岡」
「はい?」
「お前、いい女だったんだな」
「先輩?」
「何だ」
「いつか殺す」
そして、いくつめかの朝だった。
「先生!おはようございます!」
だが、俺はまったく違うことを考えていた。何年も前のことではない。あの夜の事件のことだ。
警察は一応というか、捜査をしたらしい。ほんの型通りに。現場付近の監視カメラの記録データ検索結果には何もなかったのだ。何も映っていなかったということが、本当は何かが起きたのだとする反証となる可能性を誰が否定できようか。そのことは、すべてが人為的なブラックアウトではなかったのか。
あの後、リムジンの中で彼女が他にも言っていたことがあった。
「上司につけられているという何となくの感覚はありました。職場を後にしてからずっとそういう感じだったと思います。ただ今日は随分と長くリンカーンが一緒に歩いてくれていたので、その間は近づいて来れなかったでしょう」
いや待ってくれ。上流階級のお嬢様が徒歩で帰宅するだと!?
「そして、今日は気晴らしにウインドウショッピングでもしてみたかったこともあったものですから、迎えの者もいつもより離れたところに待たせてありましたし、リンカーンにももうひとりで大丈夫だからと帰したこともすべて含めて、私があまりに不用意だったということだったのかもしれません。そういう意味では後悔しています。でも、リンカーンはセンターに帰ったものとばかり思っていましたが、私にわからないように気遣ってくれていたようですね。おかげで助かりました。ほんとにいい子なんです、この子は」
明らかに作り話をわざと嘘としか見えないように披露してくれている。まったく、何なんだそれは。もひとつ、そもそもだ。権力者のご令嬢がなぜ勤め人なんかしているのだ?
人間の頭などひと噛みで食いちぎってしまう大きな犬のほんとに大きな頭を彼女はポンポンしながら微笑したのだった。車内のサイドテーブルから小さなシャワーノズルと洗浄液吸引ホース、乾燥気噴射口が同時に作動して彼女の右腕と犬の口元にやや固まりつつあるあの男の血液を一瞬にして綺麗に拭い去ってみせた。
つけられていた?それを彼女は知っていた?もしかしてあの惨事の状況をわざと作った?つけさせていた?わざと一人歩きをしてみせたのか?
「先生!」
「、、、」
「先生っ!」
「え? あっ! おはようございます」
「天知先生、どうかしました?大丈夫ですか?何も見てない、聞いてない、そんな感じで歩いてましたよ、危ないです。それに先生に挨拶をした子どもたちが変な顔してましたよ」
「竜宮先生、失礼しました、もう大丈夫です。今朝はひどく頭痛でつらかったんです。その後遺症ですよ。でも今はもう大丈夫です。先生のおかげです。助かりました。今度ディナーでもいかがです?」
「まあ、ほんとですよ~。約束しましたからね」
この学校のマドンナ先生が、新人教師のこの俺に好意を抱いてくれているだろう感覚は、教師としてスカウトされてここに来た初日から持っていた。マドンナ先生は普通に会話をしていた体で小走りに俺から離れて校舎をめがけて行った。
警察を唐突にやめたことに、ほんの何時間で後悔するに至って、しばらくの間は、自分だけ部屋の片隅に座り込んだままの重々しい気分だった。
その日が終わってどれくらいしてからだろう。ウェアラブルモニターに通信が入ったが発信先は空白だった。いったい誰だと思っていたら、州立第一高等学院に教師が1名欠員しています。訪ねてみてはどうですか?大きなお世話かもしれませんが食べていくにはお仕事が必要でしょう、、、と言うのだ。
俺は答えた。
「どこの誰かもわからない人から仕事を斡旋されるなんていい話な訳がない。昔の仕事柄、人を信用しないタチなんだ。だが、紹介してくれて感謝する、ありがとう」
俺はその場を取り繕ったつもりだ。
「昔、とおっしゃいましたが、ついこの間までのことですね」
少し間があった。
「お嬢様、いかが致しましょう?ご辞退されたいそうです」
「あら、そうなの?残念ね。なら、もう結構よ。リンカーン、おいで。ワシントンと遊んであげてね」
向こうで聞こえるその声を聞いた俺は慌てて言った。全身に電気信号が走った。
「待って、待ってくれ!わかった、喜んでお受けしたい。それでいいか?いや、それでよろしいですか?いえ、失礼!!是非お願いします!」
なんか、みっともなかった。
「はい、結構です。、、、、、、、、 お嬢様、お受け頂けるそうです」
少し離れたところかららしい、少しだけはしゃぎめの声がした。犬たちをかまっているのか?
「そう、わかったわ。ご苦労さま。、、、、、 桜田さん、 、、、 よろしくお願いしますね! あっ、そう、今はアマチさんでしたわね」
えっ?なんだ?なぜ? 通信が切られようとしていた。
「待ってくれ!どうして、どうしてなんだ?俺は学校の先生なんかやったことはない。そもそも資格証がないんだ」
ニセのIDで戦っても勝ち目なぞない。俺は本当のことを言った。
お嬢様ではない声が応えた。
「問題ありません。あなたが幼い時から優秀であったことはわかっています。それにあなたの観察力、数々の潜在能力の高さや、新しい局面への適応能力などが大変素晴らしいこともわかっています。あなたがこれまで経験されたことは休憩時間にでも話してあげたら子どもたちは必ず皆耳を傾けるでしょう。それに資格証なんて不要です、と言うべきような文脈に今あるようですが、オフィシャルか否かは別としてあなたはちゃんと臨時教師のIDバッジをお持ちです。それくらいの身上調査は致します」
「え?」
ニセモノなんだが。それもお見通しってことか。
「話を戻します。社会における経験こそが本当に子どもたちが学ばなければならないことです。ここを卒業したら学生たちのほとんどは、総合情報統計センターとその関係先に勤めることになります。そこは高報酬でも職場としてはデータ信号だけの無味乾燥の地です。人の血の通った話は、特に生ではもう聞く機会などありません。だからあなたを見ていると人間臭さに一定の興味を覚えるのかもしれませんね。よろしくお願いします」
「褒め言葉と受け取りましたよ」
「はい、そのように」
「ひとつよろしいですか?」
「どうぞ」
「なぜ臨時教師だと?」
「、、、ですから、調べるに造作もないことです」
「それは?」
「お答えできません」
「なぜ?」
「、、、 国家機密ですので」
「は、おもしろい!」
「痛み入ります」
執事だか秘書だか、それともあのリムジンのアンドロイド運転手であったかはわからなかったが、慇懃無礼かつ無礼千万でそこまで一気にしゃべったその相手は、最後にもう一度感謝しようとした俺が言葉を言い終わらぬうちに一方的に通信を切断した。
////////////////////////////////075
「先生!ランチの後でまた聞かせてよー」
「おー!」
真っ赤なフレームの、大きなレンズのメガネをかけた、この学校で一番IQの高いと言われる娘のうちのひとり、佳織が、俺の横を走り抜けながらこっちを振り向きもせず片手だけをヒョイと挙げて言った。
「廊下は走るなー」
「グランドでーす!」
実に真っ当に切り返された。100メートルを9秒の速さだ。正面玄関まで50メートルあたり付近まで行った時、その娘は今度は振り返って俺に、そして俺の横を歩く生徒にも向けて手を振ってみせた。
「先生!早く! 大人のくせに遅いぞーっ。みんなもーっ!」
「いいかー、出勤も登校も徒競走じゃないんだぞーっ!」
朝礼までまだ15分ある。なのに校舎全体の空気はもうすべて講義開始のための準備を終えてあとは始めるだけ、そんな空気感に包まれていた。
正面玄関の横の壁面に、豪華な細工だが、そのサイズはどちらかと言えば控えめな大きさの銘板に、最高学府南部州立国民国家第一高等学院と名のあるのを見るたびに、いったい最高なのか高等なのか第一なのか、どっちなんだ?と毎朝のようにくだらない自問自答しながらほくそ笑んでセキュリティをくぐり抜けるのが俺の日課だ。
だが、そのたびに俺の頭の中で、バカかお前、と誰かに小さく叱責された。そして、明日の朝になるとまた新鮮な気持ちで俺はその叱責を甘受する毎日、それを繰り返すのだった。不思議だった。何の疑問も違和感も湧かないのだ。
「通称・生徒会長」の娘と一緒に俺は堂々と歩を進めている。さっきの娘は双子の妹の方だった。いや、、、三つ子だ。
グラウンドを横切る時に俺たちをヒューヒューとはやし立てる声が聞こえた気がした。
「なあ、志織」
「通称・生徒会長」は齋藤志織という名だ。
本当の生徒会長は昔いた。あまりに優れたその生徒会長が卒業してからというもの、その冠は永久欠番とされたのだ。いったいどれほど優秀なやつだったんだ?
「なーに?先生。早くいこう!」
「生まれ変わりって信じるか?」
「へええ、私は信じるわよ、先生」
「じゃあ、自分とうりふたつの人間が世界には必ずいる、あるいは顔も見た目も違うのに同じやつがいる、しかもたくさん。この話は?」
「信じる、信じる」
「お前、軽いなー」
「やめて、私、尻軽じゃないわ、訴えてやるからっ!」
「そういうセリフを吐く女をもう一人知ってる」
「通称・生徒会長」は真っ白な歯を見せて屈託なく笑った。俺は、この我らが「生徒会長」のことが好きなのか?まさか、女として見てる?おいおい、やめてくれ。
俺は自分の学生たちの前に立っていた。
「先生、おはようございます!」
齋藤志織のIQ180にふさわしいキーの高い声が講義室内に響いて、俺は今に帰って来たことをあらためて、そしてやっとこさ実感した。
「おー、みんなおはよー! 今日も頭は元気かー」
「先生! つまんねえぞー」
最前列の席にも関わらず平気でヤジを飛ばせるこの学生は、齋藤志織の三卵性三つ子の弟で名を志朗と言う。
「志朗、お前、今日もバカか?」
「俺の脳ミソは全部志織と佳織の頭の中に住んでるからな」
「残念だったな」
「おー、おかげで今日もバカ絶好調だー」
そのやり取りにクラス全員が吹き出した。実はこれが毎日のルーティーンだ。いや、毎日、正確に反復というか複写したかのように同じやり取りの時間だった。昔の、ある時代にあってはすぐさま事件となって大きく社会問題化しそうな要素だらけのこのやり取りが、講義室内で笑って済ませられる鷹揚で寛容な感覚が今の時代にはあった。
「よーし、わかったわかった、朝礼をはじめるぞ」
大きなレンズの赤いメガネの向こう側で「通称・生徒会長」のエメラルドグリーンの瞳が静かに笑っていた。
////////////////////////////////076
最高学府南部州立国民国家第一高等学院の「生徒会室」は校舎の最上階13階にある。地上1階は、フロア全部が教職員室、機械室、警備室から成っていて、2階から12階までが講義室、つまり教室だ。2階フロアは1年1組から11年1組まで約200名、3階が1年2組から11年2組までの約200名、12階に1年11組から11年11組まで、という「横割り」の共助構成の学舎である。
この国は数百年をかけて?やっと縦割り社会から解放されようとしていた。
地下1階が運動フロア、プール、各種のジム施設、地下2階に各研究室、重要機械室、発電・蓄電設備、地下3階が機密情報室。生徒と職員のほとんどは地下2階までのアクセスが許可されるが、機密情報室フロアには誰がアクセスできるのか、それを知る者が誰なのかそれさえわからない。補足すれば広大かつ緑豊かな校庭はグラウンドというより州民の憩いの広場としてそこにある。
そして、もうワンフロア、特定の許しを得た者だけが足を踏み入れることのできる13階の生徒会室フロアの内装には、たまに見えるワンポイントにS.J.というイニシャルが刻印されていた。
それは伝説の「生徒会長」陣川 忍を指している。それをスクールネームとして使っていたのは、年齢13歳、稀代の天才と謳われた陣内志乃、その人である。IQ190とも200とも称えられた陣内志乃は、各学年で飛び級を重ねてわずか3年でこの学院を卒業していった。本名もすべての属人情報も機密情報室のホストマシンで永久秘匿とされたことが、伝説の「生徒会長」の偶像崇拝へと人心を傾斜させるには十分過ぎるくらいの根拠だ。
そのエピソードを知る者はごく限られ、時のうつろいと共に普通の人々のメモリーの中からそれは薄らいでゆく。ただ脳内の深いところでモヤモヤと漂っては消え、漂っては消える何か御伽話のような、都市伝説のようなそういう存在として「歴史」の中に、そこにいた。
(だが、陣内志乃がこの地に降り立つのはまだまだ先のことだ。決して今の時空が逆転しているのではない。未来を読み解き、事実が生まれる前からその座は用意されていた。刻印も伝説も。ただその日の来るのを待っている。伝説の生徒会長、その本人が現れる前からもう既に伝説が始まっていることをほんの少しの者たちだけが知っていたのだ。それはまさに「予言」であった。)
また、生徒会室にはもうひとつある。
七人の「魔女」がその謎めいたたたずまいのままの印象を保ち続け、そこに「住んで」いたことだ。
魔女たちに姓はない。香織里、由香理、宏子、圭子、郁子、佳代子、万規子の七人は、一切老いることをせず、永遠に17歳のまま、今は学院と、そしてとある存在と共にあった。機密情報室もその管理下に置く彼女たちの任務はただひとつ。それは命を受けて「生徒会長」を守護することだ。
「通称・生徒会長」の志織がまだ「通称・生徒会長」でなかった頃のある日、志織は13階フロアの生徒会室から上がって来なさいと直接呼び出された。
12階までエレベーターで上がる。そして、もう一階上まではフロアの中央の階段を使った。
志織は七人の魔女たちを前にして、堂々とそして深々とそこへと示された豪華な飾り付きの椅子に腰をかけている。これがあの、話に聞いた魔女たちか。浅くかけて警戒心を悟られまいとしての上の行為だったが、魔女たちはその空気を歯牙にもかけない表情だった。
しばらく沈黙の時が流れたが、志織の方から静かに口を開いた。
「失礼ながら諸先輩方。私に御用とは何でしょうか?」
一生老いることのない魔女たち。こうして向き合うのははじめてだが、なんだただの女の子たちじゃんと志織は思った。フッと誰かが声をもらしたような気がしたが。
自分を取り巻くように腰をかけている魔女たちの中で、最もリーダー格に相応しいかなと思える長い黒髪の、ん、銀?明るさの加減?でキラキラと銀色に輝く髪、目元のキリッとしたその魔女が応えた。志織はその銀色の瞳をただ見つめた。
「ようこそ最上階へ、齋藤志織さん。私は香織里。知っての通り苗字はありません。来てもらったのには脅かそうとか悪意はないから心配ご無用です」
「 、 、 、 」
「私たちは志織さん。あなたの友人、仲間です。主従関係はないけど守護者という表現が適切かも。あなたは選ばれた人間界の財産、、、」
志織は、ただ切り込んでみた。
「財産、ですか?それはなんという財産です?」
へへへっと香織里という魔女の隣の魔女が、いや違った、左から2番目の魔女が笑った。一番右端の魔女が応えた。
「それはね、私たちと同じってこと、平たく言うとあなたも魔女。ああ、ちょっと違うけど。あなたは普通に歳をとるから。自分じゃ自分が魔女だなんてわからない、わかりもしない。それは時に救いの手を差し伸べる者ともなる。時に破壊の神とも破邪の神ともなる。そういう意味での財産」
一番左の魔女がぶっきらぼうに付言する。
「あなたにはこの学院の生徒会長をやってもらいます。今、空席なので」
志織は、その赤い瞳をじっと見返しながら言った。
「私にその気はありません」
「いいじゃない。どうせクラス委員長やってるんだし」
「名前だけでいいのよ」
「いいえ、、、」
////////////////////////////////077
そこまで言葉にした時、志織の頭は極太の釘を打ち込まれたような激烈な痛みに包まれた。1秒間の痛みの後に、志織は右から2番目の金髪の魔女を睨んだ。
「素晴らしいわ。もの凄い念を感じる。私の念をまともに受けたのに、平気そうだし、反射的に打ち返しても来ないし、防御も制御力も大したもんね」
「じゃ、合格」
「じゃ、って何?」
「よしなさい!」
香織里が一喝した。志織が憤慨して言った。
「何のつもり?私には説明を受ける権利があるわ」
「そうね」
左から2番目に座るショートカットのとても幼い顔立ちの魔女が微笑んでみせた。真っ青な空のような瞳をしていた。彼女は話し始めた。
「あなたは普通の人間じゃない。女王の血脈みたいな、それね。それは王室のってことじゃない。ガイアの神のってこと。めんどくさいからそう理解するといいじゃん。私たちは神の使いに言われてあなたを守る妖精さんたち。何から守るか?真面目に話すよ。志織の力が覚醒しないようにあなたを見守り、あなたが真に困った時にはそれを補い、助ける。あなたは平和の女神としてその寿命を終えるまで私たち七人がそばにいる。あなたはそれを受け入れ飲み込み、決して誰かと敵対しないこと、もちろん私たちとも。必要な時にすべて。それがあなたの宿命。生徒会長になってね、なんていうのは実態としてということではなくて、象徴としてそこにいてね、それでいいの。ここ、学校だし」
「なんとなくわかってもらえた?」
「あなたたちが、どうやら私をどうにかしようと思ってはいないということがわかった」
「上手よ、そうそう」
「でも、象徴とか生徒会長とかあるべきなんてだいぶ強引な論理展開だと思います」
志織の指摘に少し間があった。今は真ん中に座る香織里が口を開いた。ん?
「では、「通称・生徒会長」にしましょう」
「それはどういう?」
「あらためて自己紹介しましょう」
無視された。
「質問に答えて下さい。「通称」ってどういう意味です?」
「面白いし」
「少なくとも学院全体は面白がるんじゃない?」
「私は香織里」
志織の問いかけははぐらかされた。
「ハイ、私は佳代子、ヨロシク!」
さっきのショートカットの子。次に、一番右の魔女が言った。
「私は万規子」
一番、左の魔女。
「由香理です、よろしくお願いします」
右から2番目は宏子と言った。釘を頭に打ち付けた魔女だ。陽気に、へへへっと笑った、あのよくしゃべる子の隣の娘が圭子。あとの一人は郁子という名前だ。青い縁どりのレンズの小さなメガネをかけて、私が一番頭いいですと言わんばかりのオーラを発していた。
「質問をひとつ」
「どうぞ」
「確認しますけど、あなたたち本当に魔女?」
「そうよ」
「そ、魔女」
「正しくは天使だけどね」
「天使?」
「そ、天使」
「私たちのこと、皆が魔女って呼ぶ理由はね」
「ひとつは」
「いつまでも歳をとらないこと」
「もうひとつは」
「こわいのよ」
「あんたは黙ってなさい」
「それぞれに特別の能力があること」
「たとえば、宏子は念動力。普段は使わないけど頭に打たれたでしょ、クギ。痛かったでしょ、ごめんなさいね」
「ええ」
「佳代子には超量子コンピューター並の計算予知力がある」
「普段は使わないけど」
「超量子コンピューターって?」
「黙って、佳代子」
「由香理の聴力は尋常じゃない距離」
「圭子は味覚、郁子は触覚。触覚といっても相手の脳波まで読める」
「頑張れば塩基配列の傷まで読める」
「万規子は嗅覚」
「そして最後に」
「私、香織里は視覚」
「どこまで見えるか視力検査したら笑っちゃうわよ」
「 、、、ということで、以上七人で五感プラス2、第七感までの超能力者」
「今どき、超能力者って言葉、はやらないわ」
「古い、古い」
「カッコ悪い」
「わかりやすい表現だし、いいじゃない」
「便宜上ね」
「本当のこと教えてあげたら?」
「ちょっと黙って!」
「香織里、コワーい」
「どうして?」
志織は訊いた。
「うん?」
「どうして歳をとらないんですか?」
「それは答えられません」
「それは、魔女だから。へへへっ」
「うるさい」
「うるさいってなによ!」
「やめなさい!」
「超量子コンピューターって?」
「昔のコンピューターの現代版のことよ」
「へえええ」
「話も終わったようですし私は失礼します」
「じゃあね、齋藤志織さん」
「じゃ、通称・生徒会長!」
「そいじゃ」
「またね」
「それでは」
「お疲れ様でした」
「では、また」
////////////////////////////////078
「いい子ね」
「いい子かなぁ」
「わかんないでしょ」
「でも、凄い潜在能力」
「ビンビン来るわ」
「優子さんが言うのがわかるわ」
「うん、そうだね」
「久しぶりね」
「だって、ご主人様なんだもんね」
「お言いつけよ」
「悪いコが出ないようにしないと」
「優子さんに怒られるわ」
「あなたたちほんと楽しそうね」
「ねえ」
「なに?」
「何千年も前から?」
「忘れた」
「いい暇つぶし」
「ほんと怒られるよ」
「うん、あんな子久しぶり。本気でいこう」
「仕方ないなあ」
「優子さん、聞こえますか?」
「何?志織」
「今日、天使たちと話ができました」
「そう、良かったじゃない。で、魔女の感想は?」
「みんな、いい人たちって感じでしょうか」
「あなたよりスゴく年上だけどね。何百年とか、何千年とか生きてるから」
「そうなんですか」
「それに人じゃないし」
「ああ、そうでした。ついつい」
「それで?」
「生徒会長をやって欲しいって」
「それだけ?」
「はい。通称だって」
「そう。それは天使たちが今は切迫するものを何も感じていないことの証左ね」
「私はどうすれば?」
「あなたは普段通り。天使たちは必要な時にしか何もしないから」
「生徒会って、何をすれば?」
「何もしないわ。名前があるだけ」
「名前だけ?」
「何かいいじゃない。通称・生徒会長って響き」
「それだけなんですか??」
「ええ、大昔は意味も活動もあったみたいだけどね」
「優子さんは?」
「私は命の順番が来るまで」
「その後は?」
「また次の人が現れる」
「優子さん、いなくなっちゃうんですか」
「あら、残念がってくれてるのなら嬉しい」
「茶化さないで下さい」
「あなたには遊び相手に先生を雇ってあげたからいいでしょ」
私にできるのは、たまに優子さんとこうやって頭の中で会話すること。
まぶたを閉じれば優子さんの美しい容姿がまぶしい。「女王の血脈」って言葉は本当は優子さんのことなんだろうな。二人の会話は天使たちにも聞かれないから心配しなくていいわって優子さんは言ってた。
でも、どうしてなんだろう?神の使いである天使にだってできないことがあるんだ。。。
そんなことを志織は思索していた。
志織の講義室に天知の声が染みた。
「よーし。今日の昔話はな。政財界が大きく揺れた事件の話をしよう」
「女王陛下、参上しました」
マリー・ヒミコ・アンドロメダ三世の執務室に参内した王宮医長は、機械仕掛けの乾燥した表情で言った。
「医長、今日は大変良い天気ですね」
「はい、陛下。ヘルスデータに何もご心配にはおよびません」
医長はモニターを見やってから応えた。
「私の腹部のことです」
「順調に4ヶ月めですがいかがなさいましたか?」
「賛成も反対も意見は無用です。これを知る者たちがごく少数のうちに取り出し極秘裏に成育させてください」
「ですが、陛下」
「意見は無用と言いました」
「申し訳ありません」
「私の血を引く者をいったんは遠ざけますが、結果としてそれが我が国、ひいては世界のためになるはずです、わかりましたね」
「はい、陛下」
「知る者たちは王宮殿から一生出しません。私と宮殿墓地と共にあります」
「はい、心得ております」
姫の誕生のいきさつ。あの時の女王陛下の決意に満ちた表情は忘れはすまい。陛下は決められたのだ。王宮医長は何度か思い出すこのエピソードを、時を経てこの試験管を見るたびに振り返る。
試験管内の「卵」は順調に育っていた。この「卵」は女王陛下のものではない。大陸へ嫁がれる前に残されて行かれたものである。
王宮、王室ながら、いや王室であるからこそか、血は水よりも濃いのだと医長はひとりごちた。隔世遺伝の要素が非常に濃いこの受精卵から誕生する双子は、陛下に良く似た美貌とカリスマの主であろう。
////////////////////////////////079
「長官とお話できますか?」
「お待ちください」
「長官。王宮医長から秘匿通信指定です。おつなぎしてよろしいですか」
「わかりました。つないでください」
「どうぞお話ください」
「長官」
「どうしました?」
「陛下からご伝言です」
「お聞きしましょう」
王宮医長は、陛下と長官の孫娘の養育を依頼した。それが陛下の意思であると。当然、一生切り離されてしかるべきこの縁がつながり、愛しい孫娘の養育を自分が担うことを中央省長官山本太郎は、我が命と引き換えにすべき最上級の望みと捉え、今、極上の喜びに満たされて、長官執務室の一辺10メートル大きな窓から「下界」を見下ろしている。グラスの中の超高級な果実酒に透かした空がスペクトラムで虹色に映えた。
今、新しい第一歩を踏み出した。
王宮医長は自らの雇い主に対して情報をひとつ秘匿した。国家元首の意思に背き、国家反逆罪に問われ、公開消滅刑に処せられてしかるべきの情報秘匿行為の動機が何だったのかが自分でも今ひとつ釈然としない。ただ、雷に打たれたようなひらめきが神の啓示としか理解できなかった。
それは、
受精卵はふたつ。だが長官に預けるのはひとつだけだ。もう片方よりも明らかにテロメアが短いが、もうひとつよりもさらに多くの何か得体の知れない物質とミトコンドリアが共存共生する体細胞が肉体を支配し、一切の生科学分析粒子波を遮断する双子の姉の超分子(ずっとずっと後の医学界でそれは「SEEDS TRON」と命名される)の存在を国家権力から守護する唯一の方法を思いつく。それは南へ逃がし「あの男」に委ねることだった。
「ヤンです。お久しぶりです」
「ああヤンさん! 月見里さんはおかわりないですか?」
「いいえ。残念ではありますが、小鳥遊さんと同室でしたがサナトリウム余命が6ヶ月から1ヶ月へと診断変更され、今朝個室へと移動したところです」
「珍しい。ヤンが秘匿通信してくるとはな」
「この複雑な認証手続きを早くやめさせて欲しいものです」
「我が有能な秘書に言ってはみよう」
「失礼しました。折り入って重大なお願いがあります」
「それは?」
「赤ん坊を引き取ってください」
「、、、、、。断る選択肢のない事案か。お前が言ってくるくらいなら皆まで聞かずともわかるというものだ。都の主には秘密か?」
「はい、もちろん。その母親にも伏せておかねばなりません」
「そうか、わかった。では、私の養女ということでいいな?」
「できれば、お役所のお仕事の方でお願いできますか?」
「わかっている。それぐらいは気をつかわせてもらおう」
「お願いします。でも、どうして女の子だと?」
「あのやんごとなき家系には圧倒的に女性誕生の比率が高い。ある意味偉大な性別ということ。確率論で言っただけだ」
「恐れ入ります」
「一言付け足しておく。悪名高き野蛮な組織の長をいつでも便利に使うでないぞ」
「はい」
「困ったら何でもかんでも南へ逃がすというのはやめるんだ」
「恐れ入りました、ご主人様」
ヤンの最後の言葉は言い終わらぬ内に通信は切断された。今日のご主人様は上機嫌だったのか、不機嫌だったのか、微妙な線だなと王宮医長は思った。任務に集中しよう。
////////////////////////////////080
特殊急速培養されて後、5歳の女の子が乳母兼ボディーガードのアンドロイド二体と共に、外交用IDで簡単に州境を越えて南の地に降り立ったのはそれから1年後のことであった。
「正覚寺の家のものです。お迎えに上がりました」
「優子です。お世話になります、家政婦のリンさん?」
「はい。秘書をしておりますリンダです。よろしくお願いします、お嬢様」
簡易の対面暗号に応えた9頭身の金髪美女は膝を折って目線を合わせながら挨拶をした。
全長10メートルはあろうかと思える薄紫色の光沢をした装甲車のようなリムジンは、州都ハカタの中心部にそびえ立つ巨大な「城」へと「王女」の護衛をまっとうし、地下の駐車場へとその巨体を静かに納めた。
微細な、極めて微細な彫刻を施した巨大で分厚い扉が音もなく開き、いくつかのアーチを抜けて「王女」はエントランスホールに入った。
出迎えたのは尾の先までが5メートル以上はあるだろう巨大な犬が二頭。良く見れば三つに割れたしっぽをクルクルというよりブンブンと回しながらゆったりとそばまで来て二頭揃っておすわりから伏せをした。
二頭は目だけをやや上に向けて優子を見上げた。優子はその従順の意に応えてふたつの大きな顔の間に我が身をバフッと預けてモフモフの塊に包まれてみせた。
「気に入っていただけたようで良かったです。リンカーンとワシントンです」
「そうですか、とてもいい子たち。ヨロシクね、私は優子」
黒毛で金色の目の方に、あなたがリンカーンね。赤茶で緑の目をした方には、あなたがワシントンね。二人とも機嫌の悪い時は瞳が赤いのね。わかった、覚えておく、と続けて言った。
「見事なものだ」
「ご主人様、お嬢様をお連れしました」
「おかえり、リンダ。やあ優子。私は正覚寺秀雄。今日から君の養父となる。よろしく頼むよ」
「はい、財前のお父様。優子です。よろしくお願い致します」
「ははははっ!これは一本取られたな。ところで君の母親の苗字は分かるかい?」
「はい、富永です。母上は出産死しました」
「よくできた。合格だ」
何の予備知識もない。事前の打ち合わせもシナリオも想定問答もない。にも関わらず、犬たちもそうであったが、この新しい義理の父娘は瞬時に通じた。あらかじめリンダはこうなることを予測した。
なぜかはわからないが、我が主人に長年仕えて来て理解した我が主人のパターンだ。それにしてもこの少女までがそうなのかとは、その謎だらけのやり取りを自分で目にするまで現実感は薄かった。
だが、このふたりは選ばれた種族なのだなとリンダは黙って飲み込んだ。いつか、自分の分身が北と王宮で立派な女性として穏やかに暮らしていってくれることをふと願っている自分におかしみを感じながら。ご主人様にこのただひとつの願いを叶えてもらおう。私のわがままをご主人様はきっと喜んでくださるはずだ。
「リンダ、いいかな?」
「はい、ご主人様」
「自分の部屋と日常に関連するところから先に、優子を案内してやってくれ」
「はい、おっしゃる通りに」
「お嬢様、こちらへどうぞ。まずはお部屋に参りましょう」
「ねえ、リンダ」
「はい、お嬢様」
「リンダはアンドロイド?」
「私はサイボーグです。合金製なのは身体のほぼ半分です」
「そう。リンダ、とっても綺麗よ」
「ありがとうございます」
「リンダはお父様の愛人なの?」
リンダは、いたって平生に応えた。
「愛人ではありませんよ。それにご主人様は独身でいらっしゃいます」
「そっかー、独身か~」
豪奢なエントランスホールから豪奢な控えの客間を抜けて一番奥のエレベーターで階上を目指す。50人乗り?のエレベーターは城の塔の先端を目指す勢いで上昇し、静かに停止した。
たぶん、長い髪のお姫様が拉致された挙句に幽閉される場所に相応しい、それでいて、たぶんこの城内で最も豪華な造りの部屋のひとつに違いない。歴史上のどこかの著名な教会のステンドグラスを思い浮かべるような荘厳装飾を施された天蓋を見上げて、優子は思った。
「幽閉のお姫様も悪くはないか」
優子はそう思って脳内でちょっと遊んでみはしたものの、もちろんそうならない未来のあることもわかっている。
「ステファニー、特に問題はないかな?」
「はい、本部長。町は今日も明るく平和です。デイオペレーション上申事案はゼロです」
つまり、本部長の耳に入れるべき事案はゼロであることを言ったのだ。
気候は温暖というより、亜熱帯に近いのかもしれない。
この街は、この州土はいったいいかほどの色数でできているのだろうというぐらい総天然にカラフルで何百万色もあるだろう。
でも、この街の色合いとニオイと空気感が私は好きだ。今は世を忍ぶ仮の姿といったところか。いつの日か自分が真に支えるべき真のリーダーが現れるまで。
窓の向こうの空気感は、城の別棟の中にしつらえた州警察本部長執務室の隅々までを温かく優しく包み込んでくれているようで、正覚寺秀雄(財前秀雄)は非常に心地よかった。本部から電送されている5D映像のステファニーが、執務室のデスクの袖に控えながら、そして忖度しながらの潤んだ微笑を浮かべている。
「本部長、そちらに参りますか?」
「ありがとう。気を遣わせたようだな。「その時」はリンダに頼むさ」
「、、、あら、少し妬けますわ」
「君たちの感性と洞察力は本当に大したものだ」
「ええ、半分以上は人間ですので」
ステファニーの鼻が少しツンと上を向いた。