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7 母

 もしかしたら、すべての出来事は、偶然、起こるのかもしれない。

 生まれついてからこれまで、わたしはそんなふうに考えたことが一度もない。

 が、今回、初めてそんな気にさせられる。

 あの日、あのとき彼に出会ったのが偶然ならば、その後のすべての出来事もまた偶然の産物だったのだろう。

 その中でわたしは翻弄され、自分でも知らなかった自分を顧みることになるが、それもまた高レベルの偶然がわたしを狙い、そして取り憑いた結果だったのかもしれない。

 それはともかく、それまでわたしの心に偶然が存在しなかったのは、もちろん母のせいだ。

 母はわたしを仕切り、狭くて色のない自意識内の境界にわたしを押し遣り、それがわたしに渡航可能な全世界だと教え込む。

 疑うことを知らないわたしは当然それを信じ、その中で精一杯母に好かれようと努力するが、それがまた母には気に入らない。

 わたしから開花する幾つもの利発な部分――もちろんそれは母譲りなのだが――、その一つ一つが、自分ではそれらを身内から外部世界へ解き放つことが出来なかった母を苛立たせたのだ。

 客観的に考えれば母は可哀想な人だったのかもしれない。

 が、それはわたしが長じてから思えたことだ。

 大人になって、それから死んで、漸く母の置かれた立場を知り――残念ながら共感はないが――理解する。

 生きている間、わたしは見事なまでに母の支配下に置かれている。

 そんな状況下にあることにさえ気づけないほど完璧に……。

 母の結婚が果たして不幸だったのか、幸福だったのか、わたしは知らない。

 わたしが知っているのは、母が不本意な結婚をしたことだけだ。

 母が結婚した歳は、わたしとそう変わらない。

 つまり結婚するには歳が若過ぎたわけで、わたしの場合と意味が異なるが、それが母の心を歪ませる。

 限定的であったにせよ、母には多くの友だちがいたはずだ。

 が、その中に不安定な思春期の心を暴き合うような真の友はいなかったらしい。

 いや、いたのかもしれないが、いずれにせよ母は己の家系に翻弄されてしまう。

 わたしの結婚相手は歳がほぼ倍の白人だったが、母の場合は十歳ほど年上の日本人だ。

 旧華族だが格式は下で、その代わり商売には成功していて巨万の富が手の内にある。

 母の両親は厳格に母を躾け、子供時代から少女時代まで母に自由は与えられない。

 少なくとも幼少時代には比較する相手もなく、母はそれを自然と受け止めながら育って行く。

 けれども何処かに不自然さ/窮屈さを感じていたのだろう。

 長じるに従い母の中で段々と大きくなっていったその感情が、母の体内に硬質なコアを産み落とす。

 誰にも譲れない母唯一のモノとして……。

 初めは無意識/無自覚だったのだろう。

 が、いずれそのコアは識閾下から意識界面に浮上し、自覚されることになる。

 その正体は――ある意味当然のように――強烈な自己愛なのだが、母は徹底的に自分を愛することで、最初は気づかないながらも理不尽と感じていた己の生活環境からの脱出を図ったのだ。

 いや、実際にはそこまで出来ずに己を守る盾とする。

 母にとって幸いだったのは、その美貌だ。

 母は美しい赤ん坊であり、美しい子供であり、美しい少女として生涯初期の時を過ごす。

 見かけも、両親や数多くの教師たちに教え込まれた種々の仕種も愛らしく、その上数十世代に渡って支配階級にいた家系の血を引くオーラがある。

 一族の中でさえ縁遠い者たちが平伏したくらいだから、母と会う機会があったごく普通の人間たちが受けた衝撃は想像に難くない。

 それは近寄りがたいモノへの接近であり、淫らな想像を一切許さない清潔さ/純真さの証のような存在に母を祭り上げたことだろう。

 母自身にそれが見えなければ、感動は本物だ。

 が、母はそれを感じ、己の糧/滋養となすように歪ませてしまう。

 母の結婚相手の男は家系的に美しくないので、まずそれが母の心を狂わせる。

 漠然とは聞かされていたが、初夜の行為が次に母を狂わせる。

 母は母の母や乳母の教えに従いそれに耐えるが、母にとってそれは己の美に対する冒涜で、日を追うに伴い、耐え難い苦痛、罪なく落とされた無間地獄の様相を呈する。

 快楽はない。

 喜びもない。

 満足も幸せも価値も覚醒も依存も報酬も睡眠も達成も支配も希求も原理も夢も何もない。

 あるのは単に若くて健康な肉体だけで、上になり下になり斜めになり逆さになり、遂には人ではないものにまで落とされながら、最後に他人の毒を注入されるのだ。

 自己愛の象徴である己の体内に……。

 その頃までに賢い母は己に纏わるすべての事情や性の意味を知り得たわけだが、それで汚された愛しい肉体が戻るわけでもない。

 牢獄。

 あるいは檻。

 夜以外の明るい世界で母に与えられた賞賛には正しい距離と空気感があり、それが母の自己愛の糧となったが、閨で夫がいくら妻の肢体の素晴らしさを口にしようと、その後の行為は母にとって蹂躙でしかない。

 わたしには母が性の喜びをまったく感じなかったとは思えないが、それ以上に母は自分自身を愛していたのだ。

 ……だからといって、簡単に結婚は解消できない。

 そこで考えた末に母は夫にある提案をする。

「跡継ぎは差し上げます。その代わり、二度とわたしに触れないでください」

 妻の冷え切った空恐ろしい言葉にもちろん夫は同意しない。

 けれども母にとって夫の同意など不必要なのだ。

「あなた、宜しいですね」

 母の宣言が確固たる言葉として口に出されるまで、健康に問題がない二人の男女にまったく妊娠の気配がなかったのは世の不思議か。

 それが宣言を経てすぐに子が宿り、二週間後にそれが確認される。

 やがてスラリと美しかった母のバランスが狂い始める。

 手足の細さはそのままに腹部ばかりが大きくなる。

 その身体変化が母の精神を参らせるが、我慢は十月十日だ、と唱えつつ母が耐える。

 著名な病院の個室で生まれた母の赤ん坊は女で、それを知って夫は落胆したが、それだけのこと。

 予想外の陣痛が急に来て自宅での出産が間に合わず已む無く病院に入院したため、退院するまで母は赤ん坊を如何にか自分の傍に置く。

 が、内心では見るのも嫌だったはずだ。

 その赤ん坊はやがてわたしとなり、何度か故意に母に殺されそうになりながらもスクスクと育ち、やがて容姿が母に似る。

 他に事情があったのかもしれないが、母が夫にわたしを押し付け、すぐに婚家を後にしなかったのは、それゆえだ。

 母にはいずれ己を凌駕するかもしれないわたしの姿が見えたのだろう。

 だからわたしが自分の美を自覚せず、更に完全に己の主人に従うような自己主張のない人間に変わり果てるまで、わたしを自らの傍に置いたのだ。

 時が充ち、完璧にわたしを己から遠ざけることができる日を、細く美しい首を長くして待ち侘びながら……。


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