3 現
夫の職業について、わたしは最後まで知らずに暮らす。
領事館の役人だったのかもしれないし、あの国に進出した企業の一員だったのかもしれない。
わたしが知っているのは夫がトップではなかったと言うことだ。
二番手に近い位置にいたのか、それとも三番手だったのか、あるいはもっと低い身分だったのか不明だが、一番上の人間ではなかったことだけは確実だ。
何故わたしにそれがわかったかというと、夫がいつも文句を言っていたからだ。
夫は自分が――少なくともあの国、あの社会では――実際に手にしていた身分より価値がある人間だと信じている。
夫にとってそれは当然のことで、一度も疑ったことがないはずだ。
だから日常的に癇癪を起こす。
周囲に迷惑を撒き散らす。
それでもわたしと過ごした数年の期間に幾度か昇進をしたようなので実務能力はあるらしい。
それとも周囲の人間が夫の癇癪に手を焼き、高位の閑職に追い遣ったのだろうか。
夫の遠い祖先は豪族だ。
いつの時代に爵位を授かったか知らないが、その後は貴族となり、いずれ先代が順に亡くなれば伯爵となる。
君主制社会ではそれなりの身分だが、わたしにとってはどうでもよい。
世襲は制度であり、継いだ人間の実力とはまったく無関係なのだから……。
が、そのような生活環境の中で育ったことが夫の気質を傾けたと想像するのは容易だろう。
けれども夫の上昇志向、というより特権志向は赤ん坊の頃から既に夫の中に芽生えていたようだ。
赤ん坊が欲しいときに乳を貰えず泣き叫ぶのは何処の国でも珍しい光景ではないが、夫の場合は当時から人が自分に従うのは至極当然のことだと思っていた節がある。
わたしはそれを夫の実家で乳母から聞く。
召使の数が多く、召使部屋が幾つも設けられた、見上げるほど大きく広い屋敷の中で……。
わたしの目には四十代前半に見えた夫の乳母は、屋敷に到着したわたしの姿を一目見るなり、ハッと息を呑んで驚いている。
「まあ、まあ、本当に日本のお人形さんにそっくりだこと」
と目を見開きながらわたしに対する感想を述べ、ついで乳母の特権なのか、日ごろ傲慢な夫の制止も受けずにわたしに近づく。
が、わたしはといえば、その時点でもう人生のすべての希望を奪われたと感じていたので反応できない。
それで黙っていたのだが、
「大丈夫ですよ。他の誰かが何を言おうと、わたしはあなたの味方です」
とわたしの耳許で乳母が言い、ついでわたしを軽く抱き締めると次には夫を同じ行為を繰り返す。
そして、
「坊ちゃんの意地の結果なのですから、大切にしなければいけませんよ」
と進言する。
夫はそれに笑顔で答えるが、心の中は空っぽだったかもしれない。
夫の乳母が告げたように、わたしと夫の結婚は親族の多くに反対されたようだ。
それを持ち前の頑固さと、誰でも自分の言うことを聞かねばならぬとする夫の信条が突き破り、強引に婚姻にまで漕ぎ着ける。
その間の詳しい事情を何も知らないわたしだが、裏で母が暗躍したのは事実だろう。
その疑いは今でも消えない。
とにかく母はわたしを自分の目から見えないところに追い遣りたかったのだ。
夫が日本ないし東洋の幾つかの国の人間に――あくまで大英帝国の貴族としてだが――偏見を持たない態度は立派だが、その感想はわたしが彼と他人の関係であって初めて生まれる。
他人としてなら、わたしも夫に偏見はないが、事実として、わたしは彼の法律上の妻であり、そしてそれ以上に何処までも相容れない間柄なのだ。
夫は笑わない妻に失望している。
家事をしない妻にも失望しているが、それは失望の上位ではない。
あの国、あの社会の社交界に参加しないことにも失望しているが、それも失望の上位ではない。
妻は夫の言葉に従わない。
いや、命令されれば時には食事だって作るのだが、それだけのこと。
夫に連れられ、嫌々だが、クラブにも顔を覗かせる。
国境近くや川や海まで観光旅行をしたことさえある。
晩酌の友も勤めている。
が、やがてわたしは動かなくなる。
初めはやんわりと次には瞳を死人色に変えながら……。
完全な無関心。
夫が妻に失望し、かつ最も腹を立てているのがその無関心だ。
夫は強要が好きではない。
少なくとも、自分でも感じてしまうようなあからさまな強要は……。
だから夫は妻が自らの意志で自分に従わないことに腹を立てつつ、直接的な行為には及ばない。
いつも、その直前で踏み止まる。
そのとき心の中では、いずれ妻が自分に傅くようになると信じているはずだ。
これまで多くの人間たちが自分に対して見せた従者の態度そのままに……。
時にその考えが揺らぐこともあるはずが、運動で一汗流せば元に戻る。
夫はそういった類の人間だ。
だから妻にあからさまな暴力を振るわない。
時に拳を振り上げ、時に自慢のライフルで妻の心臓を狙うことがあっても、それ以上には進展しない。
ついで沈黙と罵声の応酬が繰り返される。
日により数分で終わることがあれば、一時間以上続くこともある。
その間ずっと妻は完璧な無関心で自分を覆い、夫は罵倒を繰り返すことで、その突破を試みる。
が、やがて諦め、酒を飲みにリビングルーム行くか、クラブに出かける。
明日以降の妻の心境変化を望みながら……。
そうして広い家の中に残されたわたしは、夫の従者がすべて自分の棲家に戻っていれば一人となる。
が、大抵の夜は従者が雇った寝ずの番が家の周りを警戒しているので一人ではない。
もっともわたしも向こうも互いに無視し合うので事実上は一人なのだが……。
その時間、寝室でじっとしていることがあれば、夜なのに生温かくて常に出の悪いシャワーを浴びていることもある。
結婚の際どうにか持ち込んだ数冊の本を暗く明滅するスタンドを頼りに読むことがあれば、晴れの日には家の外に出て満点の星や月を眺めることもある。
そんなときは大抵意識が飛んでいる。
カエルの大合唱も聞こえないし、マラリアを媒介するハマダラカの羽音も耳に入らない。
けれども、ふとした拍子に正気戻ると恐怖する。
地面にはサソリその他の危険な害虫たちが相当数いるし、月明かりが届かず影をなすタマリンドの木々には大小の蛇たちがうねっているからだ。
不思議と彼らはわたしを標的としなかったが、それはただの気まぐれだったに違いない。