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 目を閉じれば風景が浮かぶ。

 嘗てわたしが過ごしたあの家を中心に大写しとなる。

 家はそこかしこが傷んでいたが、灼熱の太陽の耀きとジリジリと身を焦がす大地の熱気に負ける気配がまったくない。

 朝宵の気温変化で板材がパキンと爆発するように鳴る毎日だったが、もちろん何処も壊れないし、変わらない。

 ただ歳月が僅かずつ傷みを与えるだけだ。

 耐えるのではなく慣れているのだろう。

 自然の一部に同化するように……。

 文明人のために建てられた自らの来歴を否定するかのように……。

 一部の高山域以外では雪の降らない国。

 代わりに雨季、スコールがある。

 すべてを破壊し、押し流す強烈な雨の群れだが、現地の人間には風景の一部らしい。

 あのときのわたしがもし観光客であったなら、同じ想いを共有できたかもしれない。

 が、わたしは母に売られるように、あの国に嫁がされる。

 もうずいぶん昔の話だが、思いだせば肌がヒリつく。

 母がわたしを厄介払いしたかったのはわかるとして、何故あの国を選んだのか……。

 わたしにはそれが計り知れない。

 それに何故、あの男だったのかも……。

 かつて良家の令嬢だった母には不必要な知識が数多くあり、また家の地位と連動した付き合い相手が幾つもあって、その中の一つとして浮かび上がってきたのかもしれないと想像する。

 が、そうではないかもしれないと否定する。

 単なる偶然かもしれない。

 あるいは別の意味で偶々だったのかもしれない。

 が、母が下した選択の結果は明白だ。

 それで、わたしがあの国に売られる。

 当時の母が金銭的に困っていたとも思えないが、夫の家側の礼儀として、相当額の結納金を受け取った可能性は否定できない。

 それを元にまた何人もの若い自称芸術家のパトロンにでもなったのだろうか。

 いずれにしても、わたしは与り知れないことだ。

 子供の頃、わたしは自分が悪い子供だとは思っていない。

 けれども両親にとって――とりわけ母にとって――、わたしは悪い子供だったようだ。

 母の言うことに逆らった覚えはないが……。

 やれ、と言われたことはすべて遣ったつもりだったが……。

 勉強には一生懸命取り組んでいる。

各種の習い事を断った覚えもない。

 付き合うな、と禁じられた友だちとの遊びや冒険も止めている。

 唯一母に逆らったのは大学を一つ多く受けたことで、やがてそこに受かり、奨学金も獲得し、ようやく実家からの独立前段階に差しかかったタイミングで、母がわたしをあの男に売る。

 どのような甘言を母があの男に囁いたのか、わたしは知らない。

 夫も一度も話してくれたことがない。

 わたしたち夫婦は冷え切る以前に、何処までも非夫婦を貫きながら過ごしている。

 夫はわたしの初めての男で、それは歴史の一部で、この先変わることはないだろう。

 当時のわたしがあの行為を知らなかったことなどあり得ないが、けれども何の期待もなく倍近い年上の夫に身体全体を組み敷かれ、押し潰される。

 わたしは体重が軽いやせっぽちの若い娘で、夫は運動好きの筋骨逞しい男。

 白人にしては珍しく体毛が少ない方だったが、それでも東洋人と比較すると犬のようだ。

 あるいはもっと人間から遠い何かのイキモノ。

 わたしの好みを別にして客観的に夫を評価すれば、文句を言う筋合いの肢体でも顔でもないだろう。

 それどころか、映画スターといっても通るかもしれない。

 あるいは少し格下のテレビスターか。

 性格は傲慢。

 わたしと同じなのか、それとも違うのか、父母未生以前からの気質なのか、それとも両親や環境の影響なのか。

 残念ながら、わたしには判断材料が一つもない。

 が、わたしと同じであの結婚が失敗だったことは後に理解していたと思う。

 もちろんそれは自分のせいではなく、当然のようにわたしのせいで、心の隅ではわたしの母に騙されたと感じていたのかもしれないが、結局のところ、すべての責任がわたしに被せられる。

 どうしておれと結婚した、などと夫は言わない。

 何故なら、わたしの意志など夫には存在しないからだ。

 どうして家事をしない、どうして他の――支配階級の――女たちと話をしない、どうしていつも口を開かないのだ、とは口にする、あるいは問う。

 わたしの右耳と左耳が飽いてしまうほど頻繁に……。

 けれどもわたしの中には質問に対する答がない。

 だから答えられるはずがない。

 それで仕方なく黙り続ける。

 すると夫の怒りが高まってくる。

 毎夜、毎夜、場合によっては朝昼晩、わたしたち夫婦によって繰り返される日常風景。

 それを夫の従者である現地の男たちが興味のない目で眺めている。

 従者たちにとって、わたしという人間は存在しない。

 夫の所有物というのが、わたしに対する彼らの認識。

 嫌々ながら許容されているのだ。

 表情には出さないが、おそらく内心ではそう思っているに違いない。

 わたしにはそれがわかるが、わかったところでどうにもならない。

 夫から見たわたしとの精神距離以上に彼らとわたしとの距離は遠い。

 けれども互いに姿は見える。

 問題が厄介なのはその点だ。

 考えなければ風景と同化するが、夫の声がそれを破る。

 破って、互いの存在が家の中に浮かび上がる。

 わたしが家事をしないので、すべての家事は彼らの仕事。

 料理も掃除も洗濯も、それ以外の一切合切も……。

 わたしが夫の許に嫁ぐ前から、彼らはそれらをこなしている。

 夫が一時帰国した際にも彼らの心に危惧はなかったはずだ。

 その帰国が長期に及び、更に別の国に立ち寄って結婚までしようとは思っていまい。

 だから約半年後に夫がこの地に戻ったとき、彼らはとても面食らうことになる。

 夫の荷物の中にわたしが紛れて込んでいたからだ。

 夫がわたしのことを妻だと紹介すると彼らの心中に敵意が芽生える。

 が、それはほんの一瞬で消え去ってしまい、わたしが彼らの中でいなくなる。

 そんなふうにわたしを射抜く彼らの目の正直さに、わたしでさえも戸惑ってしまう。

 わたしと夫が醸し出す非夫婦の雰囲気を感じた瞬間、彼らは夫の結婚の失敗を知るが、もちろん夫にそのことを告げはしないし、わたしを追い出そうともしない。

 何故なら哀れな夫は自分の結婚の失敗に、あのときまだ気づいていなかったからだ。


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