狂気の章
ドラッグを入手した翌日の夜。獅子丸は秋本のバーに来ていた。ここは今、三〇人ほど秋本ファミリーのメンバーが集まり賑わっている。獅子丸たちが回収したドラッグを肴に、お祭り騒ぎが始まるのだ。
薄暗いバーの中、キャンドルの小さな明かりに照らされ、秋本が皆に語りかけた。
「みんな、今夜は集まってくれてありがとう。先日、我々の仲間、獅子丸、木崎と徳川が、ドラッグを受け取ってくれた。今日はこいつをみんなで楽しもうじゃないか」
早速野郎どもが「イエーイ!」「ヤッホーイ!」「金、暴力、S○X!」などと叫び声をあげ、ドラッグに群がり始めた。
別にこいつらは、ドラッグなど吸わなくとも元からトチ狂っているだろう。獅子丸はそんなことを考えながら、カウンター席に座ってウイスキーをラッパ飲みしていた。
前回、ドラッグを吸って大暴れしてしまった獅子丸は、今回はその使用を禁止されてしまったのだ。木崎を初めとするファミリーの仲間から、お前はやめておけと、耳にタコができるほど言われた。
そういうわけで、隅からファミリーのメンバーを眺めているのである。
ある男は、秋本に話しかけながら、注射型のドラッグを左腕に打ち込んでいた。他方では、既にドラッグを服用してハイになった奴らが、殴り合いのケンカをしていた。周囲にはケンカを楽しむ男どもが、応援や罵声を浴びせている。よく見るとケンカをしている片方は木崎である。相手のがたいがかなり良く、一方的にボコボコにされている。
「ウオォァー!」
突然、獅子丸のすぐ後ろで奇声が聞こえた。
振り向くと、徳川が自分の着ている白スーツを引き裂いていた。スーツのボタンがはじけ飛び、床に転がっていった。弱々しく転がっていく、金色のボタン。徳川は一切躊躇せず、中に来ている白シャツもビリビリと破いている。こいつも、ドラッグを服用したに違いない。
「徳川。トレードマークの白スーツが台無しじゃないか」
「あと二千着あるので大丈夫っす!」
「すぐバレる嘘をつくな」
「あー、なんか開放的な気分だな」
徳川は言いながら、ズボンとパンツを同時に脱ぎ、全裸になった。
獅子丸は初めて徳川の裸を見たが、童顔で細身な見た目にそぐわず、下半身がやたらと毛深い。
獅子丸は極真空手でこの全裸の男を懲らしめてやるか迷ったが、別に害があるわけではないと考え直し、持ち上げかけた拳を下ろした。
「ウイスキーが不味くなるから、家か土に帰れ」
「アヒヒフフフヘヘアヒアヒ」
徳川は呪文のような笑い声を発すると、獅子丸に背を向けた。もちろん裸である。そして、マフィアの仲間たちをかき分け、間をすり抜け、バーのドアへ近付いていった。
獅子丸は最初、これでゆっくり酒が飲めると安心したが、徳川の背中を目で追い、心配になった。するすると、急ぐようにバーの出口へ向かっていく徳川。
まさか、本当に家へ帰るつもりか? もしくは土へ。
「おい、徳川、どこへ行く」
獅子丸は少し大きい声で彼を呼んだが、振り向く様子はない。聞こえていないのか。
獅子丸はカウンター席にウイスキーの瓶を置き、徳川を追った。バーの中ならまだしも、全裸で外へ出るのはさすがに止めるべきだろう。通行人にでも出くわしたら、即通報は間違いない。
ついに徳川はバーのドアを空け、外へ出てしまった。獅子丸がその後を追って外へ出ると、徳川はフラフラと歩き、裏道へ入っていった。
獅子丸は取りあえず、裏道の様子を確認した。そこは営業中の居酒屋と三階建てのマンションに挟まれているが、幸い、今のところは人影がない。マンションのゴミ捨て場の横に、『たむろ禁止! ゴミ持ち込み禁止!』と張り紙がしてある。早く徳川を呼び戻さなければ、この張り紙に『裸の男禁止』と付け加えられてしまうだろう。
「徳川、おい」と声をかけたが、またも反応はない。徳川は裏道に立つ一本の電柱に近付いた。
「うわあ、丁度いい電柱!」
徳川は電柱のそばで両手をすり合わせると、猿も顔負けの滑らかさで、電柱を上り始めた。実は、徳川は木登りが得意だったのだ。
全裸で電柱を上り始めた徳川。獅子丸はその白い尻を眺め、数秒間ぽかんと口を開けていた。しかしすぐさま気を取り戻し、徳川に向かって叫んだ。
「ちょ、徳川! 危ないから降りてこい!」
極真空手の達人であり、剣道四段、書道三段の実力をもつ獅子丸も、さすがに困惑を隠しきれない。
徳川はようやく獅子丸に気付き、電柱にしがみついたまま、顔だけこちらを向いた。獅子丸の方を見下ろしながら、口を開いた。
「あ、獅子丸の兄貴! 俺、今なら飛べる気がするんすよ!」
「は? 取りあえず自分の年齢言ってみろ、ほら」
「翼見えるでしょ、俺の背中のやつ! 翼生えたんすよ俺!」
「チ○コしか生えてねえよ! 降りろ!」
全く会話がかみ合わない。なんと、徳川は自分の背中から翼が生えた幻想を見てしまっているのだ。
徳川はさらに数メートルほど上ると、そこで止まった。そして再び、獅子丸の方を向いた。
「いきますよ! 見ていてください、獅子丸!」
「呼び捨てにすんな!」
獅子丸がそう言ったのもつかの間、徳川は大笑いしながら飛び降りた。全裸でこの高さから落ちるのはかなり危険だ。
獅子丸は素早く走り、間一髪のところで徳川をキャッチした。
翌日の朝。徳川はバーの椅子に、全裸で縛り付けられていた。困り果てた獅子丸が、徳川を拘束したのである。徳川は大胆にも、そんな状態で爆睡し、よだれを垂らしていた。
徳川は「ふがっ」という間抜けな声で目覚めると、そばで仁王立ちしている獅子丸を発見したらしく、
「あ、兄貴」
と声をかけてきた。
別段、悪びれる様子もない。
「俺はいったい、何をして……」
「……」
困惑する徳川を眺めながらも、獅子丸は無言を貫いていた。はっきり言って、うんざりしているのだ。
徳川は立ち上がろうとしたようだが、椅子に縛り付けられているため、当然動くことができない。椅子をガタガタと揺らすのみである。
「あら?」
彼は首を曲げ、自分の両手や、両足、後ろなどをキョロキョロと確認した。同時に、自分が全裸であることも把握しただろう。
「え! あ、兄貴、まさかこれは兄貴の仕業ですか」
「ああ、そうだ」
徳川は捨てられた犬のような悲しい目で獅子丸をしばらく見つめたあと、つつと涙を垂らした。
「兄貴……兄貴の性癖までは責めませんけど、さすがにこんな強引な方法はあんまりっすよ……」
「は?」