12 エッチな色
夏の終わりの涼しい夜。銀天街のはずれにあるバー・ブロッサムは、獅子丸の彼女、佐倉優香が経営するバーだ。獅子丸はカウンター席に座り、レッドアイを飲んでいた。佐倉は獅子丸の前に立って、一緒に酒を飲んでいる。佐倉が飲んでいるのは、紫がかった酒で、甘い匂いとアルコールの匂いが同時に鼻を突いてくる。
「そのお酒何?」
と獅子丸が聞く頃には、佐倉はグラスの中の酒をごくごくと飲み干していた。
「カシスマッコリ」
佐倉は、飲み干して氷だけになったグラスをカウンターに置いた。からんと音を立て、中の氷が揺れる。
「へえ、カシスとマッコリって合うの?」
「私は好きよ。カシスはちょっと甘すぎるところがあるけど、その甘さをマッコリの苦みがいい感じに消してくれるの。あと、後味もしつこくなくて好き。飲んでみる?」
佐倉は、空になったグラスを獅子丸の方へ押し出した。
「いや、もう飲み干しているだろ」
「うっふふ」
酔っ払っているのか、佐倉は頬を赤くして笑った。
「そんなことよりね、問題は色よ」
「色?」
「ええ。紫ってなんだかその、アレじゃない?」
「え?」
「やだ、大牙ってば、私に言わせようとしてる?」
「は?」
なんのことだか訳が分からない。真面目にわけが分からないので、獅子丸は「は?」と言うしかない。
佐倉はなぜだか、妙に照れた様子でうずうずしていたが、観念したのか口を開いた。
「なんだかエッチでしょ」
「ん?」
「紫って、なんかエロくない? エロいでしょ」
「そうか? 別に紫はどうとも思わんな」
「じゃあ大牙的には何色がエロいの?」
なんだかおかしな話題になってきたなと思いつつ、酔っ払ったときの話題なんてこんなものかとも思う。獅子丸は半分真面目に考えながら、答えを出した。
「まあエロいって言ったら、普通ピンクとかじゃないか」
「へえ。じゃああなた、私がピンクの下着着けてるの見て興奮してるの?」
「何言ってんだ。好きな女の下着姿見たら、たいがい興奮するだろ」
「あ、今好きって言った?」
「君さあ……相当酔ってるな」
さすがの獅子丸も参ってしまう。獅子丸は照れを誤魔化すように一気に酒を飲み、グラスを置いた。
「おかわり。シャンディガフで」
「はいはい」
佐倉は愛想よくグラスを受け取って、新しいグラスを出した。
佐倉がビールとジンジャーエールを混ぜてシャンディガフをつくり終えたところ、店の扉が開いて、男が来店した。白スーツを着た童顔の男、徳川だ。
「佐倉さん、獅子丸の兄貴、おつかれっす」
徳川はそう言って、カウンター席にいる獅子丸の隣まで歩み寄ってきた。「あ、隣いいっすか」と、獅子丸の隣の席に腰を掛けた。
獅子丸は、今しがた出されたシャンディガフを二口飲むと、グラスを置いて徳川に話しかけた。
「徳川。エロい色って言ったら、何色を思い浮かべる?」
「紫でしょ紫」
いつの間にか用意していたワインを一気に飲み干したあと、佐倉が会話に割り込んできた。
徳川は特別悩む様子もなく、簡単な質問に答える素振りで言った。
「俺的には白っすね」
「白?」
予想外な答えだったので、獅子丸は声が裏返ってしまった。獅子丸は軽く咳ばらいをし、会話を続けた。
「え、白? 白はむしろ逆じゃないか」
「逆? 逆っすか?」
「ああ。白っつったら、なんかこう清潔というか、汚れてないというか、とにかく綺麗な感じの印象があるだろう」
「クリーンな感じよね、クリーン」
いつの間にか用意していたなんらかのショットを一気に飲み干したあと、佐倉がまた割り込んできた。
徳川は豪快な佐倉の飲みっぷりを一瞥したあと、自分のあごをさすった。
「はあ、清潔ですか。むしろそれがいいんじゃないっすか」
「え?」と獅子丸。
「その純潔さが、一周まわっていやらしいんすよ。分かります?」
「お前、今までで一番気持ち悪いな」
獅子丸はため息をついたあと、わけもなく、シャンディガフの入ったグラスをさすった。
「なるほどね。分かる分かる。ところで徳川君、今日の飲み物は何にする?」
「佐倉、お前は何を納得してるんだ」
「あ、じゃあカンパリソーダで」
徳川はいつものひょうきんな口調で酒を注文した。
間もなく佐倉がカンパリソーダを用意し、徳川と二人で乾杯した。徳川はグラスを獅子丸の方にも寄せ、獅子丸とも乾杯を交わした。そのあと三口ほど飲んで、グラスをカウンターに置いた。
「徳川君、おすすめのデートスポットとかある?」
何の脈絡もなく、佐倉が聞いた。そして、獅子丸に短い目配せをする。どうやら、獅子丸と出かけたいらしい。
「えー、どこすっかね。でもたいがい、この銀天街の辺りか、道後くらいじゃなっすか」
徳川は少し考える風に答えた。徳川は獅子丸と佐倉の関係にはよっぽど気付いているだろうが、ずかずかと聞いてくるようなことはしない。意外である。今回も、二人の関係には触れず、普通にデートスポットについてのみ回答した。
「兄貴はどっか行きたいとことかないんすか」
徳川が聞いてくる。だが、特に思い浮かばない。
「え。いや、特にないな。ただ、俺は最近道後に行ったばかりだ」
そう、道後にて、一条寺やその他春山ファミリーの男どもと、熾烈な争いをしてきたのである。あのバトルが、もはや半年も一年も前のことのように思える。
「え? 誰と行ったの」と佐倉。
「俺とっす」
「え、徳川君とデートしてきたの?」
「デートっつうか……なんて言うんでしょうね」
徳川は首をかしげ、回答に困っている様子だった。
「ドライブだな。ドライブしてきた」
と獅子丸。車は運転していたし、嘘はついていない。まさか、春山ファミリーのやつらとカーチェイスしてきたなんて言えない。
「あーじゃあ、松山城はどう?」
佐倉は前かがみになり、カウンターに肘をついた。
「あの城登るのがデートに向いているのか。別に俺はかまわんが」
と獅子丸。松山城は、松山市の中心部である城山山頂に本丸がある城である。たどり着くまでには、一三二メートルの城山を登る必要がある。
「あー! 松山城いいじゃないっすか。夕方になると、山頂にカップルがたくさんいるって聞きますよ。夕日が綺麗に見えるんですって」と徳川。
「そうだったのか」
「兄貴、知らないんすか。恋人の聖地にも認定されているんすよ」
「ええ……。恋人の聖地安売りしすぎだろ」
「昔、松山城に現れるカップルにひたすら石投げるバイトしていました」
「しょうもない嘘こくな」
くだらない言い合いをしていると、佐倉が吹き出した。
**
そろそろ街の木々が葉を赤くし始め、秋を感じさせる季節となってきた。ある昼下がり獅子丸は、秋本のバーにて酒を飲んでいた。秋本と徳川も一緒に飲んでいる。
徳川が、
「あ、そういえば兄貴、車の件はどうなったんです?」
と言って、忘れていた話を持ち出してきた。車というのは、以前カーレースの末に大破させてしまった、『マルタ エレメント』のことであろう。結局、破壊された車や、川へ突き落した春山ファミリーの車は全て、羅生門兄弟に始末させた。だが、車を譲ってくれた藤原には、一切の連絡をしていない。
「え、ああ、エレメントのことか」
獅子丸はとぼけたように返事をした。
「兄貴、もしかして今まで忘れてたんすか?」
困惑する徳川。
「車の件? 何のことだ」
秋本が何らかのカクテルを飲み干したあと、聞いてきた。
「ああ、それはですね、ちょっと言いにくいんですが……」
そう言って、徳川は説明を始めた。春山ファミリーのバーに乗り込んだこと、目的通り奴らの車を爆破したこと、その後カーレースになったこと、石手川のほとりでエレメントを大木にぶつけて大破させていたことを、順番に説明する。秋本は最初、うんうんと頷きながら話を聞いてくれていたが、最後には口を開けてあっけにとられていた。
「お、お前ら、エレメントをおしゃかにしたのか?」
「申し訳ありません」と獅子丸。
「すみません」と徳川。
「いや俺に謝る必要はないんだかね。藤原は相当落ち込むだろうな。藤原にその連絡はしてあるのか?」
「いえ、まったく」
獅子丸は横に首を振った。
「ええ……。まあ、事情を説明して、誠心誠意謝るしかないな」
困惑しながらも、秋本は適切なアドバイスをくれた。
「もしくは、面白いジョークで誤魔化すかくらいじゃないっすか」
徳川はなぜか他人事のような顔をしている。
そのとき、何者かがドアを開け、店に入ってきた。ビクッと体を震わせ、獅子丸と徳川は店の出入り口の方を見た。噂をすればなんとやらで、入店して来たのは藤原であった。
藤原はすぐさま獅子丸たちを見つけ、テーブルへ近付いてきた。そして、秋本、獅子丸、徳川に一人一人丁寧に挨拶をした。そのあとすぐに、獅子丸が一番触れてほしくない話題に突入した。
「獅子丸、どうだったんだ? マルタエレメントの乗り心地は」
藤原はニコニコしながら、椅子にも腰かけずに聞いてきた。
「あ、ああ、良かったよ。良い車だ」
そう言ったあと、獅子丸はカクテルを飲んで口の中を湿らせた。
「そうか、良かった良かった。そうだろう、なんせ最新のモデルだからな。ところでよ、エレメントをいつガレージに返しに来てくれるんだ? あんまり気に入ったからって、このまま返さないなんてやめくれよな。ハハハ!」
車を褒められて、藤原は上機嫌である。なんてこった、これから獅子丸は、藤原の気分を奈落の底まで突き落とさなければならないというのに。
いつまでものらりくらりと遠回しにすることはできない。獅子丸は意を決し、その火ぶたを切った。
「藤原。その、車の件なんだが……」
「え? どうした?」
「良い知らせと、悪い知らせがある。良い知らせから聞くか、悪い知らせから聞くか、両方同時に聞くか。どれが良い?」
「お? なんだ、ジョークでも披露してくれるのか? じゃあ、両方同時に教えてくれ」
「お前の車のエアバッグは正常に作動したよ」
……。
一瞬の沈黙を置いて、徳川が吹き出した。藤原は獅子丸の言葉の意味に気付いたらしく、まず徳川の頭をひっぱたいた。
「笑っとる場合か!」
「すんません!」
ほぼ反射的に謝罪する徳川。
続いて藤原は、両手で顔を押さえたり、頭をかきむしったり、耳クソをほじって食べたりして、とにかく落ち着かない様子を見せた。それらの奇行を数十秒繰り返したのち、また口を開いた。
「クソ! てめえよくもやってくれたな、もう! 二度と車なんか貸さねえからな!」
「言い返す言葉もない」
獅子丸は手短に返事をした。
「だいいち、エレメントには高性能AIが付いていて、衝突等の危険が近付いた際には、ハンドルやブレーキペダルがある程度自動で動いてくれるはずだ。そんな大事故になる可能性は低いぞ」
その言葉を聞いて、獅子丸の頭にあることが思い浮かんだ。そう言えばあの日、エレメントを借りた日、確かにAIはハンドルを操作し、衝突を避けようと働いた。だが、獅子丸がそのAIを殴って破壊したのである。もしあのときAIを破壊していなければ、大木に衝突しそうになったとき、ブレーキを自動で踏んでくれていたかもしれない。
そんなことを思い出していると、隣に座っている徳川と目が合った。目が合っただけで、おおかた徳川の心情を掴むことができた。徳川も、あの日獅子丸がAIを破壊したことを思い出していたのだ。
(AIは獅子丸の兄貴が破壊しましたよね。そのことは黙っておきましょうよ。どうせ火に油を注ぐ結果になるだけっすから)
と、目で語ってきている。
獅子丸は黙ってこくこくと頷いた。
結局、秋本がいくらかの小切手(高級車の代わりとなるとおそらく数千万円)をそっと藤原に渡すと、藤原はぼそぼそと愚痴りながらも店を出ていった。




