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10 ぶっちぎりスピリタス



 松山市は、路面電車の街でもある。道路のど真ん中にある線路を通り、一両の路面電車が自動車と並走するさまは、松山市民にとっては見慣れた光景だ。

 中でも、観光客の目をひくのは『坊ちゃん列車』なる列車である。明治から松山を走っている蒸気機関車をモデルに、現代に即して再現したディーゼル車で、濃い緑のボディーと、煙突からもくもくと立ち上がる煙が印象的だ。ただ、ディーゼル車である今では当然蒸気は発生しないので、これは昔の機関車を再現するための模擬的でクリーンな煙である。道後温泉駅から松山市駅まで走っており、この二つの駅では、列車の方向転換を確認することができる。人力で機関車を反転させる、現代では珍しい方法だ。

 坊ちゃん列車に乗車すると、高島屋の最上階にある観覧車『くるりん』に無料で乗ることができるなど、特典もある。ただ、終電が一五時半と早いので、観光される方は注意していただきたい。


 獅子丸は徳川に運転を任せ、助手席にゆったりと座っていた。二人はもちろん、道後にあるバーへ向かっているのである。車道や辺りを走る車の上に、傾きかけた陽が光を浴びせている。獅子丸は窓を開け、その顔に風を浴びていた。他の車の走る音や、駅に止まろうとしている路面電車のブレーキが聞こえる。

「この辺っすね」

 徳川がそう言って、道路の端に車を寄せ、レバーとハンドブレーキを操作して停めた。すぐ横の歩道をまっすぐ一〇〇メートルほど歩くと、バーにたどり着ける。あまりにも目的のバーの近くに停めてしまうと怪しまれるかもしれないので、少し離れたところに停め、歩いて接近するのだ。

 今回のミッションは簡単で、車を破壊するだけである。バーに乗り込んで春山ファミリーのやつらとケンカするつもりは毛頭ない。代わりに、やつらの車を壊してやるのだ。バーの横にある駐車場へこそこそと侵入し、そこにある車を爆破する作戦だ。

 爆破に使うアイテムを紹介しよう。ひとつはライター。これは、タバコに火をつけるときに使うような、ごく普通のライターである。もうひとつは、ハンカチ。ライターの火をつけるためのもので、布であればどんなものでの良い。

 そして、スピリタスだ。お酒に詳しい方には、説明の必要すらないないだろう。スピリタスとは、世界最強のお酒の名前である。ポーランド産のウォッカで、北米では販売禁止指定すらされているそのアルコール度数は、九六パーセントだ。もはやアルコールそのもの、そんなにアルコールが欲しいなら消毒液でも飲んだ方が安上がり、そういった代物である。並みの人間なら少し飲めば酔っぱらい、ぶっ倒れてしまうほど強力だ。ちなみに、その辺の虫にかけてやると即死する。そしてこのお酒が危険視されるのは、実際に殺人的な威力をもっているからである。スピリタスの瓶のラベルには、大概こう書かれている。「本商品の周りでは、火気の取り扱いに十分注意してください」と。アルコール度数のあまりの強さゆえに、火などつけようものなら、一瞬にして燃え上がってしまうのである。

 今回は、ライター、ハンカチ、スピリタスを用いて火炎瓶を作成し、車を爆破する予定なのだ。

 獅子丸は車を降りる際、用意していた五〇〇ミリリットルのスピリタスの瓶を持ち出した。シャツの胸ポケットにも手をあて、ハンカチがあることを確認する。そして、先に歩道へ降りていた徳川に話しかけた。

「徳川、ライターは持ったか」

 徳川は白スーツのポケットからライターを取り出して見せた。

「はい、完璧っす」

 駐車場はバーの横にあり、歩道に面していた。獅子丸と徳川はその位置を確認し、とりあえずバーの中を覗いてみた。そのバーはマンションの一階であり、側面がガラス張りであるため、容易に中の様子が確認できる。獅子丸が覗くと、バーの中では、スーツ姿の男が五人とバーのマスターらしきおじさんが一人、カウンターを囲んで談笑していた。まだ日も沈んでないというのに、ジョッキの酒をがぶがぶと飲んでいる。獅子丸は一人一人の顔を確認しながら、カッと目を見開いた。カウンターに手を突き、にこやかに談笑している男は、ネイビーカラーのスーツを着こなす美青年、一条寺ではないか。何たる偶然。

 獅子丸の一瞬の動揺に気付いたのか、徳川が後ろから声をかけてきた。

「獅子丸の兄貴、どうかしたんすか?」

「いや、なんでもない。早く用を済ませよう」

 二人はそそくさと駐車場へ入った。駐車場は奥に住宅があり、側面もバーとビルに挟まれていて、レンガの塀に囲まれている。歩道側からしか、出入りはできないようになっていた。車は二台置かれており、それで三分の一ほどが埋まっているので、あまり大きい駐車場ではない。

「どっちを燃やす?」

 獅子丸は二台の車を見比べながら言った。徳川は車の前を行き来して、中を覗いたり、外観をじろじろと眺めたりしたあと、前後に長い黒塗りの車の前で止まり、それを指さした。

「こっちの方が高そうっすね」

「よし」

 獅子丸もその車のそばへ行き、その前方、ボンネットを空けようと、手をかけて力を込めた。だが、ちょっとやそっとでは、ボンネットは開かない。それを見て、徳川が言った。

「こういうのは、車の中に乗って運転席からロックを解除しないと開かないっすね」

 確かに徳川の言う通りだが、だからといって、今からバーの中に入り「お前の車を燃やすから、カギを貸してくれ」なんて言うわけにもいかない。

 獅子丸は車から少し離れると、助走をつけて迫り、右足を大きく振り上げた。そして、その踵を勢いよく車に振り落とした。ゴンという音を立て、車の前方がへこんだ。

「よし、解除したぞ」

 獅子丸がそう言って手を引っかけると、ボンネットは容易に開き、内部のエンジンルームが丸見えになった。あまりの力技に、徳川が唖然としている。

「爆発に巻き込まれたら危ない。少し離れよう」

「は、はい」

 獅子丸は注意を促し、徳川とともに、車から少し離れた。今から火炎瓶を投げ込むのだから、爆発に巻き込まれたら大変だ。

 十分と思われる距離をとると、獅子丸は左手に持っていたスピリタス、その瓶の蓋を開けた。瞬間、まさに消毒液に近いアルコール臭が漂い、獅子丸の鼻を刺激した。すぐ隣にいる徳川にも、そのにおいは伝わったらしい。

「兄貴、それスピリタスでしたっけ? 俺にも伝わるくらい、凄いにおいっすね」

「そうだろう。徳川、スピリタスを飲んだことあるか?」

「いや、ないっすね。名前は聞いたことありますけど、見たのは初めてっすよ」

「そうか。少し飲んでみるか?」

 獅子丸は、面白半分で勧めた。こいつを飲んだとき、たいていどんな反応をするのか、分かるからだ。幸い徳川は酒に弱くはないので、卒倒するようなことはないだろう。獅子丸はスピリタスの瓶を徳川に渡した。

「あ、いいんすか」

 徳川はクンクンと臭いを嗅いで顔をしかめたあと、その瓶に口を付けた。

「うッ! ヴォェェ!」

 徳川は口から瓶を離すと、体をくの字に曲げ、ゲップと唸り声の混じったような声を出した。それを見て、獅子丸はハハハハと笑った。

「どんな味だ?」

 ニヤニヤしながら聞く。

「あ、味っつうかなんというか……。刺激が強すぎて、もはや味分かんないっすよ。ウエェ……。兄貴、こうなるの分かっていて俺に飲ませましたよね?」

「なんのことだ」

 獅子丸はシラを切ったが、自分でも口角があがっているのが分かる。あまりの苦しさからか、徳川の目が赤くなっていて、それを見るとますます笑いが込み上げてくるので、堪えるのが大変だ。

「意地悪だなあ……。これ、度数何パーなんすか。絶対テキーラとかより高いですよね。六〇パーくらいあるんじゃないんすかこれ?」

 徳川が瓶のラベルを見ながら聞いてきた。度数の表記を探しているのだろう。

「あのな、九六パーセントだ」

「え! ほんとだ、書いてある。こんなのアルコールそのものじゃないっすか」

「きつかっただろう」

「ズルいっすよ、兄貴も飲んでください」

 何がズルいのかいまいち分からないが、徳川が瓶を突き返してきた。獅子丸はそれを受け取り、すぐに瓶の縁に口を付けた。こういうきつい酒は、ためらわずに素早く飲む方が良い。二口ほど飲んで、すぐに瓶を口から離した。

「ウッ、ゴホッゴホッ」

 さすがの獅子丸も咳き込んでしまった。ドロドロとした液体が自分の喉元を通り、食道を、胸を通過し、腹に落ちていくのがよく分かる。あまり気持ちの良いものではない。

「うん、良く燃えそうだ」

 獅子丸は喉を詰まらせながらそう言った。

 いつまでもこんな茶番をしている暇はないので、二人は準備にとりかかった。と言っても、一分もあれば準備は完了する。

 獅子丸はポケットからハンカチを取り出し、くしゃっと小さくして、瓶の中へ詰めた。獅子丸と徳川が先ほど少し飲んだが、ほんの数口程度なので、瓶の中の酒はほとんどいっぱい残っている。すぐにハンカチは酒に届き、酒を吸って湿っているのが、その色の変化で分かった。あとで火をつけるために、ハンカチは全て沈めてしまわず、先だけ数センチほど瓶の口から出しておいた。これで、火炎瓶の準備はほぼ完成だ。悪い子は絶対に真似しないで欲しい。

「徳川。ハンカチの先に火をつけたら、俺が三秒数えて、車に向かって瓶を投げる。そしたら、この駐車場から一気に走って、車に乗って逃げるぞ。いいか、三秒だからな、三秒」

 獅子丸は改めて確認した。

「はい、分かってます」

 徳川は言いながら、ライターを取り出した。そして、瓶に詰められたハンカチに無事引火させると、ライターをポケットにしまった。獅子丸は、ハンカチの先に小さく燃える火を見ながら、カウントダウンを始めた。

「よし、いくぞ。三……」

 ハンカチの先が燃え、だんだん黒ずんでくる。

「二……」

 火はだんだん大きくなり、ハンカチが黒く縮んでいく。

「一……」

「お前ら何してる?」

 何者かに駐車場の入り口から声をかけられたときには、獅子丸の手から火炎瓶は離れ、弧を描いて宙を待っていた。見事、その瓶は開けられた車のエンジンルームに落ちた。

 獅子丸と徳川は、予想外の敵の出現にあっけにとられていた。

「おい、お前ら何してる?」

 語気を強め、スーツの男が近付いてきた。さっきまでバーの中にいた、春山ファミリーの男だ。運悪く、このタイミングで駐車場に出てきてしまったのであった。

「おい、怪しいな。お前ら、どこのファミリーの者だ。今、俺の車に向かって何か投げただろう。え? 何してたんだ、言え!」

 そのとき、けたたましい爆音と暴風が巻き起こり、黒塗りの高級車の前方から、ごうごうと炎が燃え上がった。ハンカチの火が瓶の内部に到達し、爆発したのである。

 燃え盛る自分の車を見て、男はあんぐりと口を開けた。獅子丸は肩をすくめ、口を開いた。

「説明するより、見せた方が早いかと思って」

 獅子丸の発言に、徳川が「ぶっ」と吹き出した。

「てめえ! 地獄送りにしてやる!」

 男が顔を真っ赤にし、獅子丸に向かって走ってきた。そのままパンチを繰り出してきたが、獅子丸は易々とその拳を受け止める。返しに、正拳突きを相手の腹に繰り出した。男は体をくの字に折り、消化されかけていた何らかのものを口から吐き出した。そして腹をおさえて倒れ、ピクピクと痙攣したあと、動かなくなった。

 だが、敵はこれで終わりではなかった。

「おーい、なんかあったのか」

 そう言って、ネイビーカラーのスーツを着た男が、耳の穴をほじりながら駐車場に現れた。春山ファミリー最強の男、一条寺である。隣にはひとり、仲間を連れている。

「あれ、獅子丸じゃねえか」

 一条寺はそう言ったあと、徳川の顔を見、ゲロを吐いて地面に倒れている仲間を見、燃え盛っている車に視線を移し、最後に獅子丸の目を見た。あらかたの状況は把握したらしい。

「へえ、昼間から花火かい」

 小指を耳から抜き、指先に着いた耳クソを吹く一条寺。仲間の車が破壊されたことに対しては、なんとも思っていないようだ。

 一条寺は、隣に立っている仲間に声をかけた。

「川口、お前は童顔の男を始末しろ。こっちのガタイの良い男の相手は、俺がする」

「はい!」

 川口と呼ばれた男は、すぐさま徳川に接近した。

「徳川!」

 獅子丸は徳川を心配し、その前に立とうとした。しかし、一条寺が獅子丸の目の前に立ちはだかる。

「おいおい獅子丸、お前の相手はこの俺! 一条寺だ。覚えているか、一条寺だ!」

 こんなに主張の激しい男を、簡単に忘れるはずなどない。だというのに、一条寺はわざわざ二度も、名を名乗った。

「ああ、覚えているとも」

 獅子丸の言葉を聞き、一条寺が心底嬉しそうに、にんまりと笑った。

「まあ、俺のようなイケメンは、そうそう忘れられんだろう」

「は?」

 獅子丸は困惑しながらも、両腕を前に構え、胸をガードするとともに、いつでも正拳を繰り出せる構えをとった。

「先制攻撃マン!」

 一条寺は意味不明な言葉を叫びながら、近すぎず遠すぎずの微妙な距離から、腕をしならせて掌底を放ってきた。この男の独特の、弧を描くような掌底だ。右、左と、順番に掌底を放ってくる。

 獅子丸は手のひらを出し、その掌底を順番にいなした。だが完全にはいなしきれず、手のひらや手首に鈍い痛みが残る。獅子丸は痛みから、反射的にぐねぐねと手首を揺らし、手をほぐすような動作をした。

 それを見て、一条寺がニヤニヤと話す。

「痛むか獅子丸。ふふふ、それこそが、掌底の強さだ。掌底は体の外部よりも、内部にダメージを与える技だ。相手の内臓や骨まで揺らし、その振動はじわじわと体を弱らせる。持続的にダメージを与えることができるんだ。

 正拳や蹴りのように、すぐに重傷を負わせるには向いてないが、戦いが長引くほど、相手の体はボロボロになっていく。ハハハハァア!」

 最後の方が上がるような、おかしい笑い方だ。

 正直に言って、獅子丸は一条寺が苦手だ。何か、うっと思わせるような、一歩退かせるような、抵抗感がある。スピリタスを飲んだときに喉を詰まらせたような、あの抵抗感があるのだ。ある意味で反射的で、潜在的意識に働きかける、微妙な気持ち悪さ、不安感である。今、その理由の一つが分かった。この笑顔だ。何か面白いものや、好きなものを見て笑うような笑顔とは、明らかに違う。獅子丸には、なぜこの男がこんなにも楽しそうなのか、理解しかねるのである。

「一条寺、俺は前から疑問だった」

「ん?」左右の細かいステップを踏みながら、一条寺が返事をした。

「お前、なんでそんなに楽しそうなんだ。なんでそんなに笑顔なんだ」

「え? 俺って今笑顔なのか?」

「ああ、ずっとニヤニヤしているよ」

 驚くべきことに、一条寺は自分の表情に気付いていなかったのだ。一条寺は数秒間きょとんとしたが、やがて、だんだんと口角があがり、満面の笑みになった。

「そうか、俺はずっと笑顔だったのか。それはな、間違いなく俺の本心だ」

「なに?」

「俺はな、お前を待ち望んでいたんだよ、獅子丸! お前のような強者(つわもの)と命を削り合うのが、楽しくてたまんねえんだよ。知らず知らずのうちに笑顔になってしまうくらいな! 楽しくて! 楽しくて! 楽しくて! たまんねえのさァー!」

 一条寺は、ゲラゲラと笑い始めた。その姿に、獅子丸は唖然とすると同時に、なんとなく腑に落ちた感じがした。戦闘狂、バーサーカー、そういう類の男なのだ、一条寺は。

 彼にとっては、しのぎを削るバトルこそ至高なのだ。浅はかな。あまりにも野性的な。血を求める野生動物のようだ。俺には共感しかねる、獅子丸はそう思った。

 しかし一方で、この男とまたタイマンを張れることに、謎の嬉しさを感じていた。一瞬、また巡り合うことができて運が良かったとすら思えたのだ。そんな感情を抱くことに、なんだかムシャクシャしてしまう。

 だが、考えるのは後で良い、まず、なんとかして一条寺を倒してからだ。獅子丸は構えを崩さない。

「ふん、その楽しいバトルも、いつまで続くかな?」

「お前の方こそ、簡単にくたばるなよ」

 一条寺がほくそ笑みながら答える。そのまま距離を詰め、掌底を数発打ってきた。獅子丸は手のひらでそれをいなす。一条寺の掌底は威力が高いが、大きく弧を描いて遠心力を利用しているため、腕の引きが甘い。そこに注目すれば、つけ入るスキを発見することができる。

 獅子丸はバッティングセンターで一四〇キロの球をすべて打ち返すことができるほどの動体視力を用いて、一条寺の掌底を見切った。相手の攻撃を横に数センチ避け、伸びきった腕を掴んだ。一条寺はヤバいと思ったのか、すかさず腕を引こうとしたが、獅子丸のゴリラ級の握力がそれを許さない。

 獅子丸は空いている方の腕で拳を繰り出し、一条寺の顔面を殴った。一条寺は少し顔をそらしたが間に合わず、頬にヒットした。

 獅子丸がすぐさま二発目を放ったが、一条寺は掴まれていない方の腕でガードした。そして掴まれている腕を振り払い、獅子丸と距離をとった。

 獅子丸は握った拳を胸の前に出し、詰め寄った。一条寺はまともなダメージを受け、戸惑っているかもしれない。今のうちに追い打ちをしかければ、一気に勝負を決められる可能性もあるのだ。獅子丸は右、左、右と正拳を三発放った。

 だが、一条寺は至って冷静。一発目は手のひらでいなされ、二発目は腕でガードされ、三発目はまたいなされた。一条寺は戦闘に興奮しながらも、同時にリラックスした冷静な精神状態を維持しているのだ。

 瞬間、一条寺はガードに使っていたはずの腕を横にひらき、上半身にスキを見せた。追撃を誘っているようなものだ。いや、実際誘っている。

 獅子丸は危険を予知し、拳を引いて一条寺と距離をとった。今のは自然に生じたスキではない。獅子丸に攻撃をさせるため、わざとガードする腕を遊ばせたのだ。今攻撃を仕掛けたら、なんらかのカウンター攻撃をくらうだろう。だんだん、一条寺の思考回路が分かるようになってきた気がした。一条寺は、相手の心理を利用する男なのだ。

「へえ、さすがは獅子丸、学習が早いね。俺の思惑を読んで、退いたのか」

 一条寺は、自分の攻撃が読まれたことに気付いたようだが、気にする様子もなく余裕の笑みを浮かべている。

 ふと、フラフラとダンスを踊るように回転すると、右足でキックを放ってきた! 避けきれず、獅子丸は腹にそのキックを受けた。これすらも一条寺の作戦だったのだ。

 相手が近付いてくればカウンター攻撃で迎え撃つ。カウンターを警戒して相手が離れれば、範囲の広い足技で一気に畳みかけるのだ。獅子丸がどちらの行動をとろうとも、それに回答が用意されていたのであった。

 一条寺の長い足が、二発目のキックを放ってきた。

「うっ!」

 獅子丸はその攻撃を胸に受けて唸った。だが、反撃のチャンスは見逃さない。倒れないように何とか踏ん張り、その足の裾を掴む。相変わらず攻撃のあとの引きが甘いので、攻撃に怯まず持ちこたえられれば割と簡単に体を掴むことができる。

 獅子丸は足を掴んだまま一気に接近し、一条寺の顔に頭突きを浴びせた。一条寺は衝撃に怯み、退く。獅子丸は掴んでいた相手の足から手を離し、左腕で正拳を一発、右腕で正拳をもう一発、相手の顔面へ放った。頭突きで怯んでいた一条寺は反応が遅れ、もろにその二発をくらった。すかさず三発目の正拳をうったが、これはガードされた。

 一条寺は後ろに数歩下がり、獅子丸と距離をとった。その口の端から、血が垂れてきた。一条寺は手の甲でそれを拭い、そこへ付着した自分の赤い血へ目を向けた。獅子丸の拳を食らい、口が切れたのだ。

「へへへ、今のは効いたぜ」

 まだ一条寺のニヤニヤは消えない。

 獅子丸は気を緩ませず、拳を握って構えた。それを見て、一条寺がまた口を開ける。

「俺の本気の蹴りをくらってまだ立てるとは、頑丈な体してるなお前」

 奇遇にも、獅子丸も同じようなことを考えていた。獅子丸の正拳を二発顔面に受けて、まだ戦闘を続けられる体力があるとは驚きである。

「兄貴! 俺も戦います」

 そのとき、徳川が獅子丸のそばへ駆け寄ってきた。見ると、右の鼻の穴から血を垂らしている。その徳川の後方に、川口が倒れているのが見えた。鼻血を垂らしながらも、川口を始末したらしい。徳川も、その辺のゴロツキくらいは頑張れば倒せるのだ。

「ありがとう。だが、お前は車を出して逃げる準備をしろ」

 獅子丸はそう言った。車を破壊するという当初の目的は達成しているので、もうトンズラしても良いのだ。そもそも、一条寺さえいなければ、今頃は全員ボコボコにして帰ることができていただろう。

「は、はい!」

 徳川は頷いたあと一条寺を一瞥し、走って駐車場から出ていった。道路に停めていた車のところへ向かったのだ。そのとき、一条寺のそばを通ったが、一条寺は目もくれず、ただ獅子丸の方を見ていた。春山ファミリーの者としての役目を果たすなら、徳川も逃がさずに捕まえただろう。だが、一条寺はそうしなかった。

「俺の仲間を見逃してくれたな。あくまでも一対一にこだわるのか、一条寺」

「それもある。てか、雑魚に興味がないのさ。見えるところにマグロが泳いでいるのに、スズキを釣ろうとするか?」

 獅子丸は、自分に向けられた凄まじい熱意を感じ、その気持ち悪さに鳥肌がたった。かつて、マグロに例えられたことなどあっただろうか。

 獅子丸は一瞬で目玉を動かし、辺りの状況を確認した。スキと経路さえあれば、徳川の後を追って、戦闘を離脱したいのだ。しかし、入るときに確認した通り、駐車場は三方を壁に囲まれ、出入りできるところはひとつしかない。しかもその方向に、一条寺が立っているのだ。最悪の立ち位置、一条寺を倒さなければ、ここから出られない。

 獅子丸が攻撃のタイミングを計るように、一定の緩やかな速度で横に動いた。一条寺も、それに合わせて反対方向に動く。そうして、上から見ると円の形になるような足取りで、二人は間合いを計りあっていた。

 やがて、獅子丸はその足取りを止めた。それを見て、一瞬遅れて一条寺も足を止める。そして、一条寺はニヤニヤと獅子丸の顔を見た。次はどんな攻撃が来るのか楽しみだ、そう思っているのが、顔から伝わってくる。

 獅子丸も、ふっと息を漏らして口角をあげた。その次の瞬間、一八〇度体の向きを変え、走り始めた! ぐるぐると動いているうちに、一条寺が出入り口側、獅子丸が奥の方に立っていたのが、ちょうど逆転したのだ。今きびすを返せば、獅子丸は容易に駐車場から出られたというわけだ。

「あ! 獅子丸てめえ! 待て!」

 という一条寺の声を無視し、獅子丸は全速力で走った。何の得にもならんし人情も義理もないケンカなどに、命を賭けてられるか。

 歩道沿いの先には、白い高級車エレメントが、エンジンの音を静かに鳴らしながら待機している。徳川が運転席に乗り、獅子丸を待ってくれていたのだ。

 獅子丸はそこへたどり着くと、素早くドアを空け、後部座席に座った。それを見るやいなや、運転席にいた徳川は前を向き、

「ぶっちぎるぞ獅子丸!」

 と言うと同時に一気に車を走らせた。

「どさくさに紛れて呼び捨てにするな」

 獅子丸は言いながらため息をつき、シャツのボタンの二つ目を開けた。一つ目は元から開けている。

「あれ?」

 運転しながら、徳川が急に上に目を向けた。

「どうした、徳川」

「いや、今、車の上からドンって音がしませんでした?」

「俺には聞こえなかったな。気のせいじゃないか」

 確かに、獅子丸には聞こえなかった。徳川の気のせいか、そうでなかったら、何か風で飛んできたゴミでも当たったのだろう。

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