1 一輪の花
二〇一八年七月、日本に施行された法「禁読法」。健全な児童の成長を願う大人たちの余計なお世話により、すべてのポルノメディアは所持を禁止された。
しかし、エロ媒体という新たな密売品の出現により、法外な売買が流行した。これにより、資金を蓄えたマフィアが急成長してしまう。
第一章 銀天街
二〇二五年。禁読法が施行されてから、約七年の日月が経った。禁読法によりポルノ作品に法外な値段が付き、マフィア達がその美味い汁を吸うようになった。ここ愛媛県松山市も例外ではない。
夜の銀天街に、ローファーの足音が響く。銀天街は、松山市で一番栄えている商店街である。
春の夜道、その冷えたアスファルトをかかとで叩く男がいる。彼の名は獅子丸。つり上がった濃く細い眉毛、ギラリと光る眼光は、その名のごとくライオンを連想させる。いや、その荘厳さは、もはやライオンが直立二足歩行をしていると言っても過言ではない。
ほとんどの店は営業時間を終え、シャッターが閉まり、街は半分眠りについている。この閑散とした道を照らすのは、約一五メートルごとに立てられた古い街灯だけである。あたかも海底の砂から伸びるチンアナゴのようである。
狭い路地裏からは、タバコの煙を纏いながらベタベタと体を絡ませ合う男女の囁きや、たむろする若いゴロツキどもの声が聞こえてくる。獅子丸はその雑音を聞き流し、路地を進んでいく。
獅子丸はスーツのポケットに手を入れ、冷えたそれを温めた。まだ冬の寒さが残る季節、スゥーと凍えたような息を吐きながら、獅子丸は思いを馳せた。物騒な世の中だ。こんな時間に外に出るやつは、マフィアかゴロツキかアホしかいない。
そんなことを考えていると、前方からアホがフラフラと歩いてきた。ネクタイを緩ませ、スーツを着たおっさんだ。おおかた、飲み会帰りであろう。千鳥足で獅子丸に近付くと、そのまま彼の肩にぶつかって、フラフラと揺れながら肩をどついた。
「おう、兄ちゃんよお」
明らかに酔っぱらいの口調である。
獅子丸は振り返り、そのおっさんの顔を見下げた。おっさんも真っ赤な顔で獅子丸を見上げた。相変わらずフラフラしている。
「メトロノームの物真似か、三点」
獅子丸が意味不明な点数を付けると、それが気に食わなかったのか、おっさんは獅子丸に顔を近付けた。
「おおーん。いいねえ若いもんは、こんな夜中まで遊んでんのかい? 俺ァ明日もビジネェス」
おっさんは言い終わると同時に、右手に持ったビジネスカバンを振り上げ獅子丸の頭めがけて叩きつけようとした。獅子丸はその腕を掴むと、右足で相手の足をすくい上げた。おっさんは腰の抜けた子どものように尻もちをついた。
獅子丸がおっさんを見下げると、
「ヒェー」
と台本に書いたかのような声をあげる。
獅子丸は、崩れたおっさんが持っているカバンを見た。シンプルなデザインの牛革製カバン。獅子丸には分かる。ゾンネのカバンだ。田舎の小金持ちめが、器の小ささがその言動に表れている。
「高価なカバンが泣いているぞ」
獅子丸は吐き捨てると、みすぼらしい酔っぱらいに背を向け、夜道を歩き始めた。
**
銀天街の路地裏、とある建物の二階にあるバー・ブロッサムは、獅子丸の行きつけのバーである。
獅子丸は建物の外側にある階段を上ると、慣れた手つきでバーのドアを開けた。ここブロッサムの店内を照らすのは、キャンドルのわずかな光と、弱い照明である。室内は若干オレンジがかって優しい色に見える。
「獅子丸君、いらっしゃい」
バーテンダーの女、佐倉が、カウンターの奥から声をかけてくれた。獅子丸は佐倉を一瞥すると、カウンター席に腰かけた。
「カシスオレンジを頼む」
図体に似合わない可愛らしい酒を注文する。佐倉がぶっと吹き出したので、獅子丸は彼女をまた一瞥した。
「だって、獅子丸君の見た目に甘いお酒は似合わないでしょ」
「今に始まったことじゃない」
「そうねえ」
佐倉はふふと笑いながら縦長のグラスを持ってきて、氷を数個入れ、カシスの瓶、オレンジジュースのパックを持ってきて、酒をつくり始めた。
獅子丸はその様子を眺めた。カシスを流し、その上からジュースを注ぎ、マドラーでかき混ぜる。一対三の均等な割合、美しいバランスは、この女性の容姿、性格的な安定を暗示しているかのように見える。
佐倉が円形のコースターの上に酒のグラスを置くと、獅子丸は「ありがとう」と言ってそれに手を伸ばした。
「ちょっと待って」
佐倉がそそくさともう一つグラスを持ってきて、同じようにカシスオレンジをつくる。
つくり終えると、グラスを手に持ち、獅子丸のグラスに近付けてきた。
「はい獅子丸君、乾杯しましょ」
獅子丸はグラスを片手で持ち上げ、カウンター越しに乾杯した。お互いにいくらか飲む。ゴクゴクと喉を通る甘い香り。
獅子丸がグラスを置くと、佐倉もグラスを置き、長く美しい黒髪をかきあげ、ふふと笑いかけてきた。
獅子丸も口角を上げ答えた。獅子丸が笑うなど、珍しいことである。普段の口の形状は逆三角形に近く、真顔でいるだけで怒っていると思われるほどだ。
獅子丸は紫色の酒に浮かぶ氷を眺めながら、この和人形を人間大にしたような美しい女のことを考えた。
獅子丸も大概だが、この女も変わり者だ。獅子丸はマフィア人生を歩んでからというもの、普通の恋愛や結婚などはすべて諦めている。佐倉とは長い付き合いで、「俺は結婚する気もないし、できないから、君は他の男を探すんだ」と何度か言った。
しかし佐倉はずっと獅子丸と付き合っている気らしい。いわく、「私、結婚願望全くないのよね。その方が気楽でしょう。それともあなた『結婚こそ女の幸せだ』なんて、古めかしいこと言うんじゃないでしょうね」らしい。佐倉がそれでいいなら、ということで、獅子丸も特に口出ししなくなった。かのソクラテスの名言にも、「結婚はしてもしなくても、後悔する」とあるのだ。
佐倉は、昼は喫茶店に行き、バーと掛け持ちで働いている。そんなに客と関わるのが好きなのだろうか。それとも、稼いでからやりたい何かがあるのだろうか。そう考えた獅子丸は、唐突に佐倉に質問した。
「君は、誰かをもてなすのが好きなのか?」
選んだ言葉がおかしかったのか、聞き方が唐突だったからか、佐倉はきょとんとした。
「何それ、セックスの暗喩? 悪いけど、私って文学的な表現には疎いのよね」
などと言うので、獅子丸は口に含んだ酒を吹き出しそうになった。
獅子丸がゴホンゴホンと咳をしていると、少し離れていた佐倉がまた正面に寄ってきて、カウンターに右手を置いた。左手には、新しい酒を入れたグラスを持っている。このバーテンダー、客よりも酒を飲むスピードが早い。
獅子丸は、佐倉が持っているグラスを見た。白みがかっており、牛乳のように見えるが、ココナッツのような甘い匂いも感じる。
佐倉は獅子丸の視線を感じたのか、
「マリブミルクよ」
と言うと、マリブミルクを素早く半分ほど飲み、そのグラスをカウンターに置いた。
突然、外から男の叫び声が聞こえてきた。深夜の銀天街で、叫び声が聞こえることなど珍しくはない。それほどに治安が悪い。ただ、今回は知っている者の声だったのだ。
「この声……確か」
佐倉が首を傾げた。
獅子丸も、眉をピクリと動かす。徳川だな、と獅子丸は思った。徳川は、獅子丸と同じ秋本ファミリーに所属しており、後輩である。
獅子丸は高椅子から立ち上がった。スーツの胸ポケットに手を突っ込んで財布を取り出そうとすると、佐倉が声を発した。
「いいわよ、代金は後で。仲間がピンチなんでしょ」
ブロッサムを飛び出して階段を降りた獅子丸。路地裏の闇の中、四人の男が見えた。一人は白いスーツに茶髪の男だ。白スーツの男は、徳川だ。ガラの悪いジャージ組三人に取り囲まれ、ひれ伏している。びくびくと弱々しく震える後ろ姿から、もうやつだと分かる。
獅子丸は走って駆け付けた。
「徳川」
その名を呼ばれた徳川は、顔を上げた。
「あ、獅子丸の兄貴!」
顔の左側にアザがある。すでに殴られたか。
「金をたかられてたんすよ」
泣きべそをかきながら、徳川は言った。
「めそめそ泣いてないで早く金出せ」
チンピラのひとりが言う。
「うるせえ! お前らにやる金はない!」
徳川は言い返したあと、ズズズと鼻をすすった。獅子丸は徳川を庇うように前に出て、チンピラたちの顔を見下ろした。身長一八九センチ、体重八〇キロの獅子丸は、相手の目の前に立つとほとんど顔を見下ろすことになる。
「代わりに俺が相手をしてやろう」
獅子丸はチンピラどもを睨みつけた。チンピラどもは獅子丸の巨躯に一瞬怯みを見せたが、数的余裕からか、各々ケンカをする構えをとった。
「へっへっへ。三人に勝てると思ってんのか。さてはお前、三本の矢の話をご存知ではないな」
一番小柄なやつが言った。意外にも義務教育を受けているようである。
獅子丸は表情を変えず、左右に軽くステップを踏む。
「あと十倍連れてこい」
「ふざけるなよオラァ!」
襲い掛かってきた小柄の男に、獅子丸は正面からパンチを浴びせた。右拳が鼻に当たり、骨が潰れる音がする。男は顔を押さえて叫びながら尻餅をつき、しめやかに失禁。股の間から漏れる汚水が、春先の冷えたアスファルトを温めた。こんな汚水ですら大気と化し、やがて雨となり地球の裏側で咲く一輪の花の栄養分となるのである。すなわち、世界平和への希望を捨ててはならないのだ。