第26話「幕切─マクギレ─」
微睡から引き摺り下ろされて、現実世界に意識が帰ってくる。
赤く点滅するコックピットの中で、血と吐瀉部に塗れた少女の意識が覚醒した。
心臓はまだ動いている、弱々しくも全身に血液が流れているのを感じる。
身体全体が冷え切っていた、真冬の雪積もる中、外で延々と待たされたように、手足が痙攣していた。
わたしは、なにをしているんだっけ。
プエラは何度か瞬きをする。頭がぼんやりとしていて、意識を手放す前の記憶があやふやだった。額から垂れる血が眼球を真っ赤に染めていた。彼女の視界はいま、ただひたすらに赤い。狭苦しいコックピットの中は酸っぱい臭いと鉄の臭いが充満している。自分がなぜここにいるのか、こんなところでなにをしているのか、プエラにはわからなかった。不意に身体がよろける、すると右手の甲に何かのボタンが当たった、それと同時にモニタに映し出されたものを見て、プエラは声にならない悲鳴をあげた。そうして、記憶が甦る。
両手、両足を斬り倒されて、倒れるカンケルの左胸に刺さる刃、そして、黒い男。半狂乱になって身を乗り出すと、前席に身を沈めた。そして操縦桿を握り締めて、叫んだ。
「あああああああああああ!」
「なに!?」
デュエランにとってそれは、予想外の出来事だ。
無人だと思っていた人機が動き出し、突撃をしてきたのだから。カンケルの左胸に沈む刃を引き抜くと、迫り来る人機の振るう拳を剣で受け止めた。
「中にまだ機士がいたとはな。馬鹿な奴だ、黙ってやり過ごせば死なずに済んだものを」
「あああああああああ!」
プエラにデュエランの声は届いていない。
彼女の心にあるのは、怒り、憎しみ、殺意であった。
それだけではない、カンケルがひとりで戦っていたのに、それを助けられなかったことに対する後悔。悲しみ。それらの感情が爆発して、いまのプエラを動かしていた。だが、そんな少女の気持ちだけでどうにかなるほどデュエランは弱い男ではない。
一瞬の内に、ガエンの両腕が斬り落とされた。
切断面から精密機械が露出して、ばちりばちりと火花が散る。だが、プエラはそのまま半壊した両腕でデュエランを押し潰そうとペダルを踏み込んで、ガエンのブースタが青白い火を噴いた。
「強引だな、さては、乗っているのは機士ではないな。お行儀の良い機士共はこんな操縦はしないからなぁ」
デュエランは軽口を叩くも、余裕はない。
脇腹を抉られ、血を失い、激痛によって体力は確かに削られているのだ。だが、素人が操縦する人機一機程度であれば、容易く斬り倒すことはできる。それぐらいの力は残されている。
だから、さっさと全てを終わらせて、退散したいと考えていた。
もし増援がやってきたら、さすがに辛い、いくら強靭な肉体を持つとはいえ、ここまでボロボロにやられては、命にかかわる。
本来なら楽な任務のはずだった、と、デュエランは、全体重で押し潰そうとしてくる巨体を前にして思う。王国内の不穏分子を焚き付け、王都の混乱を誘い、自滅に追い込むだけの仕事だ。結果的にそれは半分成功で、半分失敗だった。ドラゴンの襲撃によって混沌とした王都は、意外にも再起が早かった。これは想定外であった。というよりも、ドラゴンの被害が想像とするよりも遥かに軽微だったのだ。そして計画遂行の為に強行した結果、人機部隊はほぼ壊滅、焚き付けた活動家集団もほとんどが死亡した。削れた王都の戦力は微々たるもので、最優先目標の王族や、デルタ・スキエンティアなどの貴族を抹殺することも叶わなかった。故に、作戦は失敗といってもいい。
そのうえ、齢14ほどの子供によって重傷を負わされた。これは恥ずべきことであった。デュエランは自身を神に選ばれた人間であると自負している為にプライドが高く、傲慢な人間であったから、このようなことは予想だにしていなかった。そう、何もかもが想像の範疇を超えていたのである。
それは何故かと考える。どんなイレギュラーが発生したのか、麻薬に似た脳内物質が滲み出ている頭で思う。王国最強の機士、エースパイロットであるアクィラ・ケントゥリアを抑える為の策は用意していた、搦手のような手段から正攻法まであらゆるとだ。だがどこかで算段が狂ったのだ。計画が正しく行われていれば、王城にてアクィラを討ち取れたはずであると。だが、もしアクィラ以外に、番狂わせを行える者がいたとしたら、そう考えて、デュエランは背後に違和感を覚えた。
暖かな、何かが、竜巻のように渦巻いている。
「なんだ……? なにが……?」
デュエランの額から頬に垂れた汗が、蒸発した。
「炎、獄よ、我が……下命を、受け、入れろ、真なる者を、召喚し……全てを、焼き尽くせ……!」
デュエランの後ろから、微かに、まるで羽虫の羽音のような、それでいて邪悪な怨霊の怨嗟みたいな、寒気と怖気が迸る声が、鉄の匂いに乗ってやってきた。その呪言のような囁きになんの意味があるのか、それはデュエランの悲鳴によって明らかになった。
「ひっ、ひぃいぃっ!?」
傲慢で、プライドが高く、神に選ばれた人間を自称する者の情けない悲鳴は炎に飲まれた。デュエランの背後に佇む者、それは。
「イフリートォッ!」
カンケルは叫んだ。四肢を失い、心臓に裂傷が刻まれた男の絶叫は、この世ならざる者を召喚した。
それは、イフリート。炎の魔神である。
筋骨隆々で、悪魔の化身のように醜悪な容姿をしていた。全身に紫色の炎を身に纏いながらも、死を予感させる冷めた眼差しでデュエランを睨め付けている。
「なぜ、こんな、魔神!? 馬鹿な、いったいなんなんだ、どうして……!?」
デュエランは混乱していた。ルナのように一部例外はあるものの、本来であれば魔神を呼び出す為には数十もの人間の魔力と命を引き換えにして、なおかつ召喚の儀を数日間行わなければならない。こんな、瀕死の子供が行き当たりばったりに召喚できるような安い代物ではなかった。
それはデュエランも心得ていた、だからこそ、なぜ、どうして、と困惑が止まらない。
万全の状態ですら、魔神相手であれば苦戦は必至、重傷を負った状態では勝てるはずもない。
いま、とてつもなく、普通ではない出来事が起きている。汗も、血液も、酸素すら蒸発していく灼熱の中で、いよいよおかしくなり始めた頭をフル回転させて、辿り着いた結論は、ただひとつ。
「うおぉあぁああ!」
叫ぶ。
ガエンを強引に、力技で引き剥がす。
腕の筋肉が破裂しそうなほどに膨張し、もはや鈍器を振るうように剣を横薙ぎに払った、技術など糞食らえの腕力に頼ったものであった。突き飛ばされたガエンは後ろに倒れ、背中を地面に打ち付けて、動かなくなった。その代償は両腕だ、度重なる戦闘によって疲弊した腕で無理矢理鉄の塊を押し退けた結果である。骨が砕け、関節がボロボロに成り果てた左手の中に収まるのは、先程まで振るっていた剣とは別の、黒に紫色のラインが入った刃、マーテルの頭部を取り出したときのように、黒い球体から引き抜いたその剣は、こんなところで使う予定のなかった、ある種特別な武器であった。この剣を使うことをプライドが許さなかったが、しかし今更そんなことを言う余裕はない。デュエランは振り返ると同時に、背後の魔神へと斬りかかる。そのときである。
遥か遠くから放たれた光の塊が、デュエランの左手に持つ、黒く紫色のラインが描かれた剣に直撃、爆発を伴い、左腕を粉砕したのだ。
それは、人機の小銃から撃たれた弾丸であった。カンケル達のいる場所から数百メートル離れたところ、一機の桃色にカラーリングされた弍式が片膝立ちで、長距離用にカスタマイズされた小銃を構えている。銃口から白い煙がふわりと空に溶けていた。その弍式の右肩にはパーソナルマークがマーキングされている、それはスキエンティア家の家紋である山羊であった。
──機士は、ステラ・スキエンティア。
「があぁあぁああ!?」
左腕が爆散し、全身を焼かれた痛みに悶えるデュエランには、頼みの綱であった刃が吹き飛ばされ、無傷で地面に突き刺さっている光景が見えた。遠くに、遠くに離れたそれを拾いに行く余裕も猶予もない。目の前で佇む魔神を見上げたデュエランの視界が黒く染まった。
魔神が、デュエランの頭部を握り締めたのだ。
それも、握り潰さないように、一思いで死なないように。一瞬にして、デュエランの肉や骨が焼かれ、声帯をも焼いたのだから悲鳴も上げられず、バタバタと死にかけの昆虫のように手足を意味もなく動かして、跡形も無く燃え尽きて消えた。そして、役目を終えた魔神は、なにごとも発することはなく、無感情の表情で消滅した。あまりにも呆気ない幕切であった。
一瞬の静寂、機械音が鳴り響いた。
倒れたガエンのコックピットハッチが開いて現れたのは、満身創痍のプエラの姿だった。ガエンから飛び降りることも叶わず、地面に身体を打ち付けるが、もはや身体の痛みは感じない。操縦するだけで大量の魔力を吸収するガエンは、彼女の肉体から全ての魔力を吸い尽くしていたのだ。そのせいで、目や鼻、口からはドロリとした血液が流れ出ていて、魔力の欠乏症を引き起こしていた、臓器の機能不全を起こし、瀕死の状態だ。プエラは微かに残った力を振り絞って、カンケルの元へ向かう。地を這い、爪が削れ、折れても、指先が裂けても、止まることはなかった。
「カンケル……」
ようやく倒れているカンケルの元まで辿り着いて、縋り付くように彼の胸元に顔をうずめ、名前を呼んだ。それに応えは返ってこない。
浅い呼吸、弱い心臓の音、まだ生きているのが不思議なほどに、カンケルは死の一歩手前まで来ている。プエラは涙を流した、病気を患って以来、枯れ果てたと思っていた涙が、溢れて止まらない。
「神様、どうか」
プエラの視界が少しずつ霞んでいく。
抗えない眠気が襲ってきていた。
「私の命を使って、カンケルを助けて」
やがて、静寂が訪れた。




