第1話「転生─テンセイ─」(プロローグ)
2億6千万人が死んで、彼が生まれた。
覚醒。三日三晩寝込んだように怠い。
視界は暗い、周囲を見渡しても、見えるのは闇ばかりだ。水の流れる音が聞こえる、近い、すぐそこだ。突然、鼻に痛みが走った。
胃液が逆流して、吐き出した。
臭いだ、汚物を煮込んで、さらに汚物に浸した臭いがする。鳥肌が立つくらい臭い。二度、三度と吐いて、ようやく吐かなくなった。
正確には、胃液すら無くなったので吐けなくなったが正しい。
ここは、どこだ?
記憶が朧げだ。靄がかかったみたいにハッキリとしない。考える、考えろ。どこでもない場所を眺めながら思い出そうとする。
少し経って、微かにだが、自分が何者かぐらいはわかってきた。
今はそれしかわからない。
寒い。冷たい壁に背中を預けている。
ようやく目が暗闇に慣れてきた。
服は着ているようだが、オンボロで、もはやただの布切れだ。なぜこんなものを?
「ぐっ……痛い」
頭痛が、酷い。脳味噌を鋸で削っているのかと思った。
おや、今なにかおかしくなかったか。
頭痛よりも、疑問が強い。
「あ、あー、あ、あ、あーあー」
声が高い。ヘリウムガスでも吸ったのか、これでは幼児の声だ。幼児? おかしなところはまだあるはずだ。そう、身体だ。小さい。
こんなに小さいはずはない、自分は大人のはずだ、25歳くらいで、身長は180センチはあった。だが、どう見ても100センチあるか、ないかだ。それに、手足が細い。まるで小枝か、骨のようだ。
「グゥぅ、うう」
痛みが酷くなる。頭が割れそうだ。
身体が横に倒れる。地面にのたうち回る。
痛みが限界に達した頃、全てを思い出した。
「……なぜ、僕は生きている?」
日本人の男だった。生まれも育ちも東京。
子供の頃は普通の人間だった、だが、いつからだろう。
この世が不条理に思えてきて、何もかもを壊したくなって、破壊して、殺した。
人生の結末は、悲惨だった。
いや、当たり前の結末だ。
銃で撃たれ、棒で叩かれ、首に縄をかけられ、石を投げられ、死因はわからないが、とにかく酷い死に方をしたのは間違いなかった。
死んだはずだ。
「なぜ、生きている?」
同じ言葉を繰り返す。
唖然としながら、胸をまさぐる。
穴が空いていない。胸を撃たれたのに。
腕も折れていない、足も折れていない、首も折れていない、鼻がある、目がある、耳がある、男性器もある。
疑問が沸いて、解消しないうちにまた沸く。
「ここは、地獄なのか?」
真っ暗闇のこの空間が地獄とは、想像する地獄とは何もかも違った。もっと熱かったり寒かったり、鬼がいたりするものだと思っていた、だが、酷いのは臭いぐらいだ。
寒さも、我慢はできる。
人を殺めすぎた男が行き着く場所にしては、随分と生易しくないか。
もしかしたら、そのうち閻魔の大王だかが現れるんじゃないかと待っていたが、シンと静まり返ったままで、誰かが現れる気配すらない。
気が付いたことがある。
腹が減ってきたのだ。
死者の癖に、腹が減るのか。
まるでゾンビではないか。
「死んだ後にまで、空腹に悩まされるとはな」
身体が満足に動かない、寝そべったままだ。
このまま、移動しよう。
歩く体力がない、身体を引きずる。
食べ物があるとは思えないが、探し出さなければ餓死するだけだ。
結論から言えば、肉があった。
肉というか、人間だった。
女だ、女が倒れている。
痩せ細り、皮が骨に張り付いている女。
仰向けで、虚空を見ている。
目も頬も窪んでいた。
唇は乾いて、肌が灰色だ。
死んでいる。見ただけでわかる。
なぜ、死体が。
ゾッとする、これは自分の末路だ、いずれ自分もそうなる。この暗闇で、誰にも看取られず死ぬのだ。
「二度も、死んでたまるか」
あの行為に、抵抗はない。
生前、何度もやったことだ。
女の屍に近付いて、舌舐めずりをした。
目覚めてから、どれくらい経過したのか。
三日? 三ヶ月? 三年?
時間の感覚がない。朝なのか夜なのか。
そもそも昼夜が存在するのか。
女の屍は、もう無い。
骨もない。
近くから聞こえる水の音、その正体は汚水だ。
ここは、おそらく下水道だ。
床、壁は石で出来ている。
微かに斜めになっていて、上流から汚水が流れていた。僕はそれを飲んで、生きている。
人を殺めすぎた男の行き着く場所に相応しいところだ。
ここは、たしかに地獄かもしれない。
今日の分の汚水は飲んだ。
あとは横になって寝るだけだ。
毎日そうやって過ごしている。
これを生きていると言えるのか、自信を持って、言える、とは答えられない。
だが、怖いのだ、二度目の死が。
死ぬことは、多分慣れない、生き物ならば。
例え、なんど生を繰り返しても、死には慣れないだろう。
この日、日というには日時もわからないが、いつもとは違うことが起きた。聞き慣れない、何かを叩くような音。コツコツ、コツコツ。
叩いている、違う、これは、足音だ。
瞼を開く。そこには暗闇……だけではない。
男だ。男がいる。見たことのない男。
外国人か、金髪で青い瞳、高級感のある仕立ての良いスーツ、ダークブルーのネクタイ、身長は190センチ近くある。かなりの長身だ。顔も整っているように見えた。
そんな男が、見下ろしている、口角があがって、笑っているのか、何に。
男は片膝を下ろした、こんな汚い場所に、服が汚れるぞと言いたかったが声が出ない。声帯が退化してるのかもしれなかった。
「君を探していたよ」
なぜ? と返したい。声が出ない。
「君は、運命の子だから」
運命? こんな場所で、しかも同性に口説かれるとは思わなかった。
「ははは。口説いてるわけじゃない」
男は、心を読んでいるかのように答えた。
「本当に読んでいるのさ、君の心くらい、読める。わたしにはそういう力があるから」
そう言って、男は寝転がってる僕の首を絞めた。
息苦しくなって暴れると、すぐに手を離した。
「これで喋れるようになったろう?」
「お、まえ、は、だれ、だ」
しゃがれた声だ。喉を潰したらこんな声になるのだろうか。不思議と、確かに喋れるようになった。まずは問う、お前は誰だ。
「わたしのことは、どうでもいい。わたしが君に質問をするよ」
男は笑った。ずっと笑っていたが、違う。
邪悪な笑みだった、もしかしたら、この男が閻魔大王なのか。それとも死神か。死神の方が似合う、そんな男だった。
「君の名前は?」
名前を問われた。沈黙を貫くつもりだった。
怪しげな男に名乗りたくはない、神話だったか、怪談話だったかは定かではないが、名前を答えたら不幸な目に遭う、というものがあった。
そんな記憶があったから、答えるつもりはなかった。
だが、なぜか、意思に反して、口は動いた。
「僕の、名前は──」
なんと答えたのか、覚えていない。
気が付いたら、建物の中にいた。
「は? え?」
まばたきしただけで景色が変わった。
民家の中にいるようだった。
大勢を呼んでパーティが出来るくらいには広い、ただ、窓がない。どこか息苦しさを感じる部屋だった。木製の扉が一つと、透明な扉が一つ、透明な方はバスルームのようだ。不思議な間取りの部屋だ。
長い間暗い場所にいたから、急に明るい世界を見せられて目が潰れるかと思ったが、そんなことはない。目に異常はない。困惑が口から出てくる。意味がわからない、自分は先程まで下水道らしき場所にいたはずだ。なのに、どこだここは。
「君の名前は、今日からカンケルだ」
男が座っている。長テーブルに足を投げ出して、不遜な態度でこちらを見ている。
カンケル? 何故だか、自分の本当の名前が、それ、であるかのように思えたのだ。
懐かしいような気分。
子供の頃に失った宝物を見つけたときみたいな嬉しさ。ある意味、不気味な感情だった。カンケルなどという名前は知らない、なのに心は歓喜している。頭と心にズレが生じている。それがたまらなく気持ち悪い。
自分には、れっきとした本当の名前がある。
「僕は、僕、は……」
僕の名前は、なんだったか。
思い出せない、名前だけが、その記憶だけが綺麗に閉じ込められている。
鍵をかけられている。
いったい、なにをした。と、問うつもりが。
「……シャワーを浴びる」
「どうぞ」
考えていたこととは、別の言葉が出た。
違和感を覚えたのは一瞬だ。
どうでもいいではないか、名前なんて。
シャワーを浴びて、汚れを落とそう。
久しぶりの暖かな液体が全身を伝う。
原理はわからないが、真っ黒に汚れた身体がすぐに綺麗になった。健康的な肌色が見える。
このシャワーを浴びていると、気持ちがよくて何もかもどうでもよくなった。ここがどこなのか、自分が何を考えていたのか、あの男の目的もどうでもよく感じた。なぜだろう。
バスルームから出ると、真っ白な服が畳まれて置いてあった。着替える。
男はスプーンを弄って暇を潰していた。
「やぁ、カンケル。待っていたよ、ほら座って」
対面の席を指差す男。僕は素直に着席した。
テーブルの上には料理が並んでいた。
いつの間に調理したのだろう、湯気が立ち上っている。良い匂いだ、下水道の臭いとは天と地、いや、宇宙とマントルの差があった。
腹が鳴る。
情けない音が鳴ったので顔が熱くなる。
「食べなさい」
まるで飼い主と犬のようだった。
文句を言う暇など、ない。どうでもいい。
僕は料理に食らいついた。久しぶりの肉、久しぶりの魚、久しぶりの野菜、久しぶりの汚れてない水。料理を頬張り、泣いた。悲しくもないのに涙が出てきた。男は口角をあげたままその様子を見ていた。男は、一口も料理に手をつけなかった。
「君にはここで暮らしてもらうよ」
満腹になった頃、男は言った。
ここで暮らす? なぜ? 混乱する。
今日は困惑することばかりだ、目の前の男は笑う。
弄っていたスプーンは折れ曲がっていた。
「ここは君だけの空間だ。君が望めば、まぁ、大抵の物が手に入る。だから不自由はしないはずだ。食事がしたいと願えば、まばたきする間に料理が用意される。服が欲しいと願えば、新品の衣類が、ほら」
テーブルの上に、いつの間にか白い服が畳まれて置いてある。何となく、言われた通りに願ったのだ。男の言葉は、事実らしい。
「ここは天国なのか」
願えば叶う世界。殺人鬼には贅沢すぎるのではないか、生前に良い事をした覚えがない。
死後にこんな場所に来られる徳を、積んでいない、まさか、死者はどんな行いをしてもこんな所に連れてこられるのか。
「君は勘違いしているようだから訂正するよ、ここは死者の世界ではない。そうだな、確かに君が以前にいた世界ではないけれど」
「どういうことだ」
「異世界転生。いや、君の場合は、異世界憑依。死者の身体に、魂が乗り移った。幼い身体になっているのはその為さ。鏡を見たかい?」
鏡は、見ていない。鏡の存在自体忘れてた気がする。
それにしても、異世界憑依だと。
突拍子すぎて言葉にならない。
日本で、異世界に転生する、だとかそんなアニメが流行っていたのは知っていた。
自分が現実で当事者になるとは思いもしなかった。と、考えたたところで、男の言葉を素直に信用している自分に驚いた。普通は信じない、だが、理由はわからないが、嘘を言っているようには聞こえなかった。
なんだかおかしい、おかしい? なにが?
僕は信じることにした、異世界に来たのだ。
「良い子だ」
男は笑うと立ち上がり、木の扉の前まで歩みを進めた。そのまま背中を扉に預ける。
「外は、君が知っている世界とは何もかもが違う世界だ。見たいかい?」
「あぁ」
「今はダメだ」
なら聞くな、とは言わず、男の言葉を待つ。
「いつか、この部屋から出るときが来る。そうしたら、二度とここには戻れない。君は願えば叶う世界から、自ら勝ち取らなければならない世界に身を投じることになる」
「自ら、勝ち取る世界」
そんなの、どんな世界でもそうだろう。
幸福を得る為に、望む未来を手に入れる為に、人々は努力し、栄光を勝ち取る。
その過程で弱者は切り捨てられる。
人間の世界は、そんなものだ。
「望むところだ」
望むところだ、と思考と言葉が同時に現れた。
二度目の人生というアドバンテージを生かし、今度こそ、満足できる人生を送ってやる。
「そうかい、それはよかった。……それじゃあ、わたしは行くよ」
「待てっ」
まだ、聞きたいことがある。
男を呼び止めた。
「色々尋ねたいことはあるが、アンタは話してくれないだろう」
「そうだね」
「ひとつだけ教えてくれ。外の世界は、どんな世界だ?」
男は扉を開いた。光り輝いていて、外は見えない。男は振り返らずに言った。
「殺意が蔓延る世界」