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南米危機とキューバ危機

    南米危機とキューバ危機



 アルゼンチン軍は国境線ギリギリで停止した。

 そこから横に広がっていくアルゼンチン軍はその後探し続けたが、三人は見つからなかった。

 既にブラジル軍が遺体を確保していたからだ。

 その日のうちにアルゼンチン国防省にブラジル国防省から領土を侵犯した軍人射殺してしまったとのことが伝えられた。

 もちろん、双方ともに殺気だっていて危険ではあったが、遺体の引き渡しが翌日行われた。

 しかし、緊張状態は緩和しなかった。

 アルゼンチン軍側の警戒レベルが引き上がったからだ。

 その3日後には、国境付近で双方の空軍が空中戦をして、アルゼンチン軍2人、ブラジル軍1人の死者が出た。

 双方の緊張レベルが高まっていた。

 10月14日には、アルゼンチン海軍とブラジル海軍のにらみ合いにまで発展した。

 翌日夜にはアルゼンチン海軍の応援にスペイン海軍艦隊が到着し、緊張はさらに増大した。

 スペイン連合はブラジルに備えよと連合各国に通達していて、コロンビア、ペルー、エクアドル、ウルグアイ、パラグアイ等がブラジル国境に軍隊を大小はあれど派遣し始めていた。

 もちろん、戦争は望むものではなかったがアルゼンチン政府は強硬だった。

 10月16日には事態を重く見たアメリカ政府が動き出した。

 アメリカの裏庭と呼ばれる南米。

 南米の親米派は、ブラジル。そして中米のパナマなどであった。

 このまま戦争が拡大すれば、アメリカのブラジル利権が侵されると考えたのだ。

 別にスペイン政府はそこまで戦争をしたくないというのはアメリカ政府もつかんでおり、そこで妥協できるだろうということが分かっていた。

 よって、1970年の10月18日にアメリカのニューヨークでスペイン政府代表団とアメリカ政府が協議を開始した。

 アメリカ政府は地域戦争に落とし込んで、戦争当事国同士の痛み分けで終わらせないかという提案をした。

 アメリカ政府や、スペイン政府、スペイン連合各国を介入させないようにしない?ということであった。

 協議は21日に結論が出た。

 戦争当事国には停戦勧告を行い、その他の関係国は戦争に介入しない。

 ということが決められたのだ。

 24日まで、双方のブラジル軍とアルゼンチン軍はにらみ合いを続けていたが、アルゼンチン側が海軍を自国領海まで戻したことによって、25日には南米戦争危機(一部紛争)は終結した。

 結果として、ただただチキンレースをアルゼンチン、ブラジル両国が行っただけの話であった。

 












 1971年2月


 11日に北米で激震が走った。

 キューバでカストロ将軍によって革命が起こったのだ。

 NATOの設立から親米政権がキューバで続いていた。

 これは、キューバ、ジャマイカ、ハイチ等のカリブ海がアメリカの領分であり、裏庭であり、それらの国々にアメリカ政府が支援していたことからずっと親米政権が続いていたのだ。

 しかし、1950年頃からキューバ政府はアメリカからの援助を受け取っていたのだが、60年を過ぎる頃には国民にそれらは配布、還元されず、政府高官や、汚職軍人等が自らの私腹を肥やすために使ってしまっていた。

 もちろん、不正、賄賂が横行し、政治は停滞。

 さらには、そのような横領をしている人達が、国の経済を動かしたため、キューバ経済は疲弊し、国民の不満は高まっていた。

 さらには、キューバにはアメリカ資本の企業が多く進出し、特に製糖業が盛んであった。

 そこでは、シュガーメジャーによって多くの労働者が劣悪な状況で働かされていた。

 このような状況では民衆は不平不満を訴え、デモを引き起こしていた。

 そして、軍人も同じく不満を抱えていた。

 それは、政府が国防予算を支払わなかったこともそうだが、兵士の多くは平民出身のため家族などが苦しんでいるところを見て不満が高まっていたからだ。

 結果として、それを見ていた独裁思考のカストロ将軍がクーデターを引き起こしたのだ。


 カストロ将軍の政策は反米であり、米国企業の資産の現金化を進めていた。

 これは、アメリカ企業はもちろん、そこから支援をしてもらっているアメリカ政府にとって大問題であった。

 そもそもアメリカの裏庭のカリブ海で反米政権ができるだけでも大問題である。

 そこに、アメリカの資産を没収して現金化するなんて、冗談じゃないというのが、アメリカ政府の考えであった。

 事実、12日のニューヨーク証券取引所では、キューバに進出していた企業、特に砂糖関連企業の株価が一気に下落した。

 同時に、それらの企業から早急な介入を政府は求められていた。

 当然、アメリカ政府はキューバ政府に対して、すぐに現金化の中止を打診した。

 同時に軍事介入を示唆した。

 アメリカ政府はかなり焦っていた。

 経済危機の原因になる可能性があるからだ。

 アメリカ発の経済危機なんてシャレにならないというのがアメリカ政府の本音であった。

 


 13日のキューバ政府の回答ははっきりいって拒絶であった。

 カストロは、アメリカ政府の要求を蹴ったのだ。

 もちろん、その日のうちにアメリカ政府はキューバ政府がアメリカ国内に保有する資産が凍結された。

 事実上、アメリカとキューバは経済戦争になったのだ。


 アメリカ国防総省は、キューバ攻撃プランを練り始め、テキサス、フロリダを含めた南部の州のアメリカ空軍が臨戦態勢に入ったのも13日の夜であった。

 戦争の危機である。

 アメリカ軍参謀司令部は、空爆によってキューバが持つ戦力をほぼすべて殲滅できることを大統領に伝えた。

 アメリカ合衆国第37代大統領であるニクソンは空爆実施の許可を出さなかった。

 はっきりいって、反米政権であるが、こちらから空爆するのはあまり良くなかった。

 しかし、甘い対応をするのはよくないので、キューバとの断交と、キューバ保有のアメリカ資産の凍結という措置をとったのだ。


 はっきりいって、ここまでは世界の国々にとってもまぁそうだろうなという予知可能なことであったし、アメリカの裏庭で戦争が始まらなくてよかったという国々が多かった。

 なんなら、ドイツも日本もアメリカも戦争準備万端ではなかった。

 しかし、ここでカストロがドイツに接触し、ドイツ製核兵器の輸出を打診したのだ。

 ようするに、アメリカにばれないように、キューバを核武装しようとカストロは考えたのだ。

 アメリカ本土を攻撃可能なv7ロケットの配備してくれと頼んだのだ。

 中距離核ミサイルのキューバへの配備はドイツ政府内でも議論になった。

 しかし、米独冷戦の期間において、ドイツにとってこれほど有利な場面は少なかった。

 ここで、配備しておくのが得策と判断したのだ。

 ちなみに、ドイツ軍部は考えていなかったが、ドイツ総統府は、ベルギーや、オランダ、フランス(イギリスは除く)にある米軍の短距離ミサイルの規模縮小を条件としてアメリカと交渉することも考えいた。

 

 



 そして、2月28日に、ドイツ軍の第一団が偽装船でキューバに向けて出港した。

 キューバ危機の始まりである。

 

 

 

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