アジアの独立
アジアの独立
1960年までなんとか世界各地の植民地を維持してきた英国であったが、その栄光も消え始めた。
英国の経済力の限界を越えてしまったのだ。
もう限界だ。
英国政府は大規模な方針転換を強いられた。
結果として維持費がかかるアフリカ諸国の独立を決定した。
そして、マレーシアだ。
マレー半島の独立はEATOの経済力をさらに上昇させてしまうことからあまり乗り気ではないイギリスであったが、独立後のマレーシアを統括する日本はマレー半島に英国利権を残しても良いと考えていたので日英で密約が交わされた。
英国はマレー半島を独立させる代わりに英国権益は英国企業が引き継ぐこと。
マレーシアの港に対する英国の優越権などだ。
また、シンガポールも独立することになった。
シンガポールもまた英国の優越権が認められた。
結果としてシンガポールは、英国とアジア諸国、オセアニア諸国との間の経済、交易の拠点になるのだがそれは別の話。
1961年に独立したマレーシアとシンガポールそれに、ブルネイ、ボルネオの4つの共和国はその年のうちにEATOに加盟した。
この年に、12ヵ国に増えた。
ちなみに、あれ?もう一ヶ国どこだ?と思った人は正解だ。
フィリピンは1952年に加盟している。
まぁフィリピンには在比米軍がいるのでEATO諸国軍はいない。
そして、もめに揉めたのがオランダ領インドネシアであった。
1961年の11月。
オランダのインドネシア植民地継続に反対するインドネシア人達が拠点であるジャカルタで反乱を引き起こした。
彼らは次々と独立していくアジアやアフリカに感銘を受けて、その考えに同調した人達だった
オランダ政府はさっさと独立させればいいのにと考えている英国や、日本と反対に徹底的に独立運動を抑え込んだ。
まぁこれは当たり前の話で、アジアに新たな市場ができる日本と、既に植民地は独立して、英領本土編入されたセイロン島、香港、太平洋諸島、その他の島々しかない英国は賛成して当たり前なのだ。
さらに、英国と日本はそれぞれ米国に秘密裏に密約を交わしており、英国はアジア市場にその他の国より優先的に入れるのだ。
これは、当たり前ながらオランダからインドネシア(EATO)のものになった方がいいに決まっているのだ。
ちなみに、日本はインドネシアを一つの国として独立させる気はなく、ティモール地方や、マルク諸島、スラウェシと辺境はそれぞれで独立させるためにJIAや、帝国保安庁公安局外事部などが独立運動を煽っていた。
さらに、日本政府中枢にはジャワとスマトラで国を分ける案も浮上していた。
まぁ国を分けるどうこうの前に、オランダが独立を認めないので話にならなかったが。
さらには、アチェ族も独立運動を始め、インドネシア情勢はかなり混沌とした。
国家社会主義連盟は、アジア地域の新たな市場を求めてバレンパンの反政府勢力を裏から支援していた。
逆に日本はジャワ島の反政府勢力を支援していた。
そして、ここで事態をややこしくしてきたのがアメリカだ。
アメリカ政府はジャカルタの現在のオランダ政府の総督府を支援したのだ。
まぁこの隙に日本は外縁部を次々と独立させることに成功した。
1962年にマルク、スラウェシ。1963年にアチェとティモールだ。
また、日本政府はとりあえず一時的に現地情勢を落ち着けたい事情があった。
そう、東京オリンピックだ。
東京オリンピックに日本は沸いており、アジア初のオリンピックとして注目度が高かったからだ。
1964年を迎えても日本の外交努力のお陰が、独立はされないまま、東京オリンピックは始まり、大成功で終わった。
さて、オリンピックが終わると日本は一気にどうでも良くなった。
アメリカとドイツの代理戦争が再びはじまることが明白であったからだ。
日本が支援していた勢力はデンパサールを中心にジャワ島東部を起点に独立し、EATOに加入した。
もう日本は海峡の安全を除いてどうでと良くなった。
スマトラ島南部とジャワ島西部では双方が激しい戦闘を繰り広げることになった。
既にアチェ、東ジャワがないので小さな範囲で戦闘が繰り広げられた。
当該海域はある程度治安が悪化したが、シンガポールに日本海軍の空母機動部隊が到着するとそれも収まった。
オランダ政府はもうどうにもこうにもいかなくなって遂に独立を認めたが、既に米独間の代理戦争になっていたため戦争は終わらなかった。
結果としてドイツの義勇軍10万とスマトラ軍50万VS米軍20万とジャカルタ軍40万の間で戦闘になった。
戦闘では核兵器は使われないものの高性能爆弾等が使われ、戦闘地域は灰になってしまった。
ここでは、史実のベトナム戦争で使われたような、枯れ葉剤を米軍がスマトラ島南部に大量散布してゲリラを見つけ出そうとしたが、これがまた難しく、地域が汚染された上にたいした効果が上がらなかった。
また、インド洋上ではドイツの秘密輸送船とその護衛潜水艦VS在インド洋米軍の空母機動艦隊と米国の攻撃原子力潜水艦の間で激しい攻防が繰り広げられていた。
戦争はかなり長期化して、ドイツもアメリカも疲れが見始めた。
1967年には米国世論が撤退に傾き、大統領も無視できないぐらいの運動になった。
ドイツでも総統府が大赤字の政府予算を見て、軍部に対して速やかな撤退を命令していた。
そう、ドイツでは戦争景気を越えて、財政赤字の拡大がはじまっていたのだ。
アメリカでは、増え続ける死傷者に対する厭戦気分が高まっていた。
1968年初に米軍は現地のドイツ軍と講和。
現地のスマトラ政府とジャカルタ政府の了解なしに双方の軍隊が引き上げたのだ。
当然、当事者達は突然いなくなった、支援してくれていた国が消えて戦争継続ができなくなってしまう。
結局、ジャカルタ政府が大損する形で、スマトラ島政府と講和を結び、スマトラ島は北部をアチェ、南部をスマトラの各政府が統治することになった。
オランダ系を引き継ぐジャカルタ政府はジャワ島東部のみの領有になってしまった。
しかし、この講和によって幾分かの平和なときが訪れることになる。
なぜなら世界の超大国ドイツとアメリカが戦争どころではなく、国内の経済問題にかかりきりになって双方の核弾頭削減条約で軍事費削減に進んだからだ。
独米日英仏の核保有5ヶ国は核の新造を抑えることに合意したのが1968年末。
いわゆるストックホルム核条約だ。
アメリカや、ドイツは核兵器の新造をやめたし、他の核保有諸国も新造を一時的にやめた。
世界は少し平和になったかのように見えた。
しかし、そんなに簡単にいかなかった。
こうして1969年を迎えた。
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