スペイン内戦
スペイン内戦
フランコ将軍が死んでからというもの、スペイン政治は混乱していた。
彼に最も近かった実務型の軍人が彼の後を継ぎ、必死に治めようとしていたが、その彼も高齢であり、寿命が近づいていた。
軍部はもちろん、様々な派閥に分かれており、軍部独裁派から、王政復古、共和国樹立派まで様々であった。
国民は景気の回復を願っていたし、人気があったフランコ将軍の威光は既に弱っており、新たな指導者を求めていた。
そして、王族はこの国の現状を憂ていた。
そして、1983年1月にフランコ将軍の後を継いでいた将軍が死ぬと、スペインは大きく混乱してしまった。
臨時政府はスペインをまとめることができなかったのだ。
しかし、ここでカリスマ的な指導者が出てきた。
ファンカルロススペイン国王である。
ファンカルロス1世は、フランコ将軍の下で帝王学の教育を受け、将来の指導者になるために、邁進していた。
彼はフランコ将軍が認めた後継者であった。
それまで、実務を仕切っていた、ルイスカレーロブランコは、彼を遠ざけていたが、彼に秘密裏に接触していたものが、マリアデルカルデンフランコである。
故フランコ将軍の娘である。
彼女はフランコ将軍の考え方をかなり引き継いでいた。
フランコ将軍は、自身が40年程度の独裁政権を築いた結果から、自分が死んだあとのスペインを独裁政権が制御できるものは考えていたかった。
国際情勢は、流動的であり、独裁では乗り切れないと判断したのである。
そして、スペインでは、共和制は実現しても安定せず、この国の国益を損なうと考えていた。
ようするに、彼が築いたスペイン連合が崩れてしまうと考えていた。(既にボロボロ)
そのため、彼は王政復古を考えていた。
しかし、彼が突然病死した結果、政権は彼の腹心であったルイスカレーロブランコに引き継いでしまった。
マリアは、ここで動き出すと、スペインが分裂してしまうと、水面下で彼の即位の準備を始めた。
しかし、スペインの崩壊はフランコ将軍も、マリアも、ルイスすらも、想定しないスピードで進んでしまっていた。
スペイン連合各国からはそっぽを向かれ、フランスからは、国境沿いに軍隊を並べられ、バスクでは独立運動が始まり、軍部は独自の方向性を持って動き始めた。
スペインに手を差し伸べたのはイタリアとそのバックにいる日本であった。
イタリアは近辺で騒乱が起こるのを望んでいていなかったからだ。
様々な思惑によって謀略が行われる中、スペインは1983年、スペインの歴史にとって二度目の内戦の年を迎えるのである。
1983年1月11日
新年明けてすぐに、ルイス将軍が心筋梗塞で亡くなったのだ。
それは突然のものであり、誰もが予想していなかったことだった。
しかし、準備を進めていた勢力が二つあった。
ナチスドイツから支援を受ける軍部独裁派、マリアが率いる王政復古派である。
最初に動き始めたのはマリア率いる王政復古派であった。
11日の深夜にはファンカルロス1世が王政復古を宣言した。
同時に、スペイン海軍黄金艦隊司令官が彼への支持を表明した。
スペイン軍マドリード駐留部隊は王政復古派であり、首都警備を厳格化した。
また、ファンカルロス1世を支持していたのはバルセロナ市も同じであった。
海軍と一位二位の経済都市からの支持を背景にマリアは、国政の支配権を確立しようとしたのだ。
しかし、12日の午前7時に軍部独裁派のシュターチュロス将軍がクーデターを実行した。
彼らはスペイン第三の都市であるバレンシアを拠点にした。
こうして、近世スペイン2回目の内戦が始まってしまったのである。
13日から、バレンシア攻撃のため、王政復古派の首都警備部隊と、バルセロナ駐屯部隊がバレンシア方面に軍隊を進めた。
空軍の多くは王政復古派であるし、バレンシアにはスペイン海軍が海上封鎖を開始した。
軍部独裁派は、なんとか状況を改善しようと指揮下の陸軍を進めたが、あっという間に突破されてしまった。
しかし、ここで、スペインにとって、悪い情報が入る。
フランス軍が仏蛮国境を共和国樹立派と連携して突破したという報が入ってきた。
こうして、フランスの介入でさらに、混沌としてしまったのである。
21日
「なんで、私は間違ってしまったのだろうか?
私が一番、スペインの覇権を守ろうとしていたのに。
我が国はどうなってしまうのだろうか。」
このような言葉を言い残したシュターチュロス将軍は拳銃自殺した。
まるで、史実のヒトラーのような最後であった。
スペイン史において、最後の反逆者と呼ばれるシュターチュロス将軍はある意味でスペインの姿であった。
しかし、旧来のスペインではなく、この国が変わろうとしていたことを彼は読み切れなかったのだ。
スペインの威光はフランコ将軍がスペイン連合を結成してから10-30年程度であったのだ。
そして、真にこの国を憂ていた人を失った軍部独裁派は、急速に瓦解していく。
彼にしたがっていた人の多くは軍の利権に与ろうとしていた人々なので、まとまりがなかったのだ。
30日には反乱軍すべてが鎮圧されてしまった。
そして、北部戦線にも動きが出ていた。




