第九話 演劇部の歓迎にアンダーライン(後編)
それから、薫と堂野はとりあえず邪魔にならない場所まで歩き、置いてあったパイプ椅子の上に座った。皆が準備をしているのを見ておこうということである。やることがなく、暇なのか、馬島もついてきていた。
「なんだか、意外だったなあ」
薫が天上を見上げながらぽつりとつぶやいた。
「何が?」
堂野が首を傾ける。
「こんなこと言ったら失礼かもしれないけど、思っていたより、みんな友好的だったから。男子が女子の役をやるなんて馬鹿にされると思ってた」
「そんなことありませんよ。先輩」
口を挟んできたのは馬場だ。
「役を演じるのに性別は関係ありませんから」
彼はあっけらかんと言う。
「え?」
「舞台の上では役者は役者であって、役者ではなくなるんです。表現したい他の何かになるために、そこではこの馬場浩太は消える。登場人物と自分を重ね合わせ、現実には存在しないその登場人物となって観客に見せるんです。そこで性別は関係ありません。むしろそれを捨て、この体全体でもってどれだけ自分が表現したいものに近づけるかが問題だと思うんです」
「へえ……」
意外といえばまた失礼だが、薫は彼の強い意思のこもった言葉には感心した。薫から見える彼の横顔が先ほどの何倍か聡明になったようだったのだ。
すると、それは予想外だったのか、馬場は慌てて片手をぶんぶんと振り、
「まあ、これはほとんど有川部長の言ってたことの受け売りですけどね。皆それを分かってるから、君恵さんの代役が、たとえ小野村先輩でも特に気にしてないんだと思いますよ」
「ふうん、そうなんだ。だったら安心した」
それを聞いて、薫は安堵の溜息をつく。
「でも、それを聞くと今度は演劇の世界なんてよく知りもしない自分が、このままヒロインなんて重要な役を演じていいもんかなって思う。皆そうやって自分の表現したい対象に向けて日々練習してるわけでしょ。でも俺は突然出てきて、こんな……」
薫の目の前に君恵の顔が浮かぶ。
彼女だって、毎日練習して、他の演劇部と同じだったのだろう。不慮の事故で動けなくなったとはいえ、その役を自分が代わりにするというのはなんだか失礼な気がしたのだ。
「そんなことありませんて。だって、小野村先輩が引き受けてくれなかったら、最悪の場合、劇自体が中止になってたかもしれないんですから。もしそうなっていたら、誰も役を演じれなかった。それこそ最悪です」
「……そうなのか。うん、それもそうだよな」
薫はマイナス思考を振り払い、顔を上げる。
「だから、そんなこと気にしないでください」
彼は明るく薫の肩を叩くと、どこかから名前を呼ばれたのか、「はい」と元気よく返事をしてそのまま駆けていってしまった。それによって場が急に静かになる。
こうなると、薫たちとしては奥山が帰ってくるまで手持ち無沙汰に適当な世間話で時間を潰すしかなかった。テレビのこととか、ゲームのこととか、適当に話していることにした。
しばらくしてから、どこからか、今度は自分の名前を呼ぶ声がしたのに気がついた。
「ちょっと、小野村君、それに堂野君も」
見ると、椅子に座っている薫のすぐ横に誰かが立っている。すらっとした長身、細面に若干の吊り目をした少女がいた。腕を組んで余裕に満ちたその様子は、どこか上品さを漂わせている。
「あれ、吹奏楽部の芦沢千葉さん? だよね」
彼女とは以前、山下が村松先生にいたずらをした件で世話になっている。
薫は演劇部とは関係ないはずの彼女がどうしてこんな場所にいるのか気になった。見た感じ、周りに他の部員がいるわけでもなく一人のようだ。手にも何も持っていないから、楽器の演奏に来たわけではないのだろう。
「どうしてここに?」
「文化祭で吹奏楽部も演奏するから、楽器をここへ運ぶときにきちんとスペースをとれるか確認に来たの。それだけよ」
「ああ、なるほど。部長ってそういう仕事もあるんだ」
薫が言うと、彼女は少し落ち着きがなさそうに視線を泳がせた。そして、こんなことを言う。
「そんなことより、本当だったんだ」
「何が?」
「だから、劇で須藤さんの代役をするって」
「……誰かから聞いたの?」
薫は心当たりがあったので、恐る恐る聞いた。
「教室で山下君が他の男子に極秘事項だってふれ回ってたのよ。まあ、あれだけ大きな声で話してたら極秘もなにもないだろうけど」
あの馬鹿。
薫は心の中で毒づいた。
「あいつもついに何か吹っ切れたみたいだな、とか言ってた」
「ああ、そうなんだ」
考えてみれば薫は山下と一度喧嘩のような言い合いをしてからきちんと謝罪をしていなかった。そのため、彼がもしかするとまだ怒っているかもしれないと薫は危惧していたのだが、それを聞いて大丈夫だろうと安心した。いつもの山下に戻っているようだ。
「じゃあ、今日からここで練習なの?」
芦沢が訊く。
「うん、今衣装が来るのを待ってるとこ」
「でも、大丈夫なの?」
彼女が急に不安そうな顔をするので、薫はどうしたのか、疑問に思った。
「何が?」
「いや、これも山下君から聞いたけど、この間のいたずらのこと。っていうか、あれ本当なの? 井上先生の声で村松先生を誘惑したって」
薫はそこで一度堂野の顔を見てから頷きあった。芦沢は呆れたように肩をすくめる。
「男子って本当に馬鹿ね。一時の享楽のためにリスクを背負ってそんなことするなんて。後の危険を考えたら私は絶対にそんなことしないわ」
「とんでもない。俺と堂野を山下と一緒にしないでくれ。俺たちは別にそんなことしたくてやったわけじゃない。なんて言うか、そそのかされたんだ」
芦沢の眉がぴくりと動いた。
「だったら、もっとお馬鹿さんね」
「ぐう……」
芦沢の言葉は容赦がない。あの有川もかなりずけずけと発言するタイプだが、芦沢はもっときつい性格かもしれない。
堂野は全く気にしていないのか、隣で鼻歌を歌っている。
「まあ、ともかく先生にはばれないように気をつけてるよ。目立つ行為をしなければ、怪しまれないだろうし、先生もそのうち忘れるだろうしさ」
「そ、それはそうかもしれないけど、それを承知した上で演劇部に来たの?」
「うん? それはどういうこと?」
薫には彼女が眉間に皺を寄せている意味が分からない。
「だって、ほら」
彼女は何気なく舞台の向こうを指差した。そこは先ほど薫たちがやってきた体育館の入り口。そして、そこには部長の有川と誰かもう一人立っている。
「え、村松先生?」
あの顎鬚と黒縁眼鏡は見間違えようがなかった。目をこすってみるが、幻ではない。
「どうしてここに?」
これには堂野も目を丸くしている。
「まさか、本気で言ってるの?」
「俺にはさっぱりだけど?」
「村松先生は演劇部の顧問よ」
嘘だろ。初耳だった。ふらつきそうになって椅子の背もたれを掴む。
「知らなかったわけ?」
彼女は素っ頓狂な声を出す。
「これでも、だてに帰宅部やってないからね。教師がどのクラブの顧問をやっているかなんてさっぱりだよ」
言いながら、薫はある視線に気づき、はっと身構える。
「はあ……先が思いやられるわ、ってちょっと、何してるの?」
「何って、隠れてるんだよ。目立つとまずいだろ。だから、真っ直ぐ立ってよ」
薫はパイプ椅子に座ったままちょうど芦沢の影に隠れるように移動していたのだ。
「何してるの。やめなさいよ」
芦沢は注意しながら薫から逃れようと体の向きを変え、後ずさる。しかし、薫はと言うと、その度にくるくると彼女の後ろに回りこんだ。傍から見れば飼い主とその子犬がじゃれているような恰好だ。
「ちょっと、そんなことしてたら逆に目立つでしょ。それに全然隠れてないし」
「分かってる。ただの冗談」
薫は動きをやめて、椅子に座りなおす。
「はあ?」
「いや、芦沢さんは冗談って通じるかと思って。純粋な好奇心だよ」
険しい表情になり三白眼で睨んでくる彼女に薫はにやりと笑う。
「亮介、じゃあいつもの挨拶してやって」
薫が指示すると、堂野はいつもの無表情で立ち上がった。そして、ぺこりとお辞儀する。
「どうも、堂野です」
そこでさらに薫が畳み掛ける。
「今の堂野、どう思う?」
「意味が分からない……あなたたちって正真正銘の馬鹿なの? 人を怒らせてそんなに楽しい?」
さすがに彼女の顔がすさまじい剣幕に変わりそうだったので、薫はこのくらいでやめておこうと、素直に謝った。
「いや、ごめん。そんなつもりはなかったんだよ。村松先生が俺たちがこそこそしゃべってるところを怪しんで見てるみたいだったから、ごまかすためにふざけただけなんだ」
薫がそう言ったときにはすでに体育館の入り口から村松先生は消えていた。薫はそれを見計らって悪ふざけをやめたのだった。
「自意識過剰じゃない? 村松先生が私たちの話してる内容を察知してたとでも言うの?」
「ううん、よく分からないけど。なんだか嫌な予感がしたんだ。第六感っていうの? 先生に目をつけられていたような」
「代役がどんな生徒か、見てただけじゃない? ともかく、私、厄介事は嫌いだから。これ以上巻き込まないないように、山下君にもきちんと釘を刺しておいてよね」
それだけ言って、怒ったように彼女はすたすたと歩いていってしまった。彼女には申し訳なかったが、やはり不穏な空気を感じていたのだ。
しばらくの間、薫は村松先生が消えていった入り口を見つめていた。
芦沢がいなくなってから、入れ違いになった形で今度は有川と奥山が戻ってきた。奥山の手には薫が想像したとおりの衣装があった。
白雪姫のドレスだ。
ひらひらとした柔らかそうな材質の白のスカートに、身頃部分は青い生地の上に花柄の刺繍が施されている。それに動けばきらきらと風に揺れはためく赤いマントも付属され、さらにプリンセス濃度を高めるためか、リボンのついたカチューシャもあった。
「はい、これ」
ハンガーに吊るされた状態で有川から薫に手渡される。
「すぐに着てみて。君恵とそれほど体格差はないと思ったから特別新調はしてないわ。それでも万が一きつかったら言ってね」
しかし、そう言われても、薫は衣装を恨めしそうに見つめたままその場から動こうとしない。妙な唸り声を出している。
「うう……」
「どうしたの? 向こうに更衣室があるからそこで着替えて」
「いえいえ、僕も一応男ですしね。この衣装を着る前にはそれなりに心構えが必要でして」
「大丈夫よ、きっと小野村君なら似合うから」
「そうです。間違いありません」
奥山も便乗して頷く。
「そういう問題じゃないんですけど、この汗が見えませんかね」
そして、薫は前髪を手で押さえて額の部分を有川たちに見せた。
「知らないわよ、そんなこと。心構えなんて着替えながらして、時間ないんだから」
乱暴な言い方にうんざりしながら、薫は溜息をつく。
「ほら、堂野君、突っ立ってないで彼を連行しなさい」
「ああ、はいはい」
すると、彼は言われるがまま、薫の脇に手を入れ、まるでわが子をあやす父親のようにひょいと持ち上げた。
そんなことをされたのは初めてだったので、薫は驚きながらじたばたと抵抗する。
「お、意外と軽いな、薫」
「や、やめろ。本当に子供みたいに見えるから」
傍からはどんな風に見えるのか薫には分からないが、きっと無様には違いない。一刻も早く地面に下ろして欲しかった。
「自分の足で歩く! 歩くってば!」
その声はほとんど悲鳴だった。
「それで? もう着替えた?」
それから五分後、更衣室のドアの向こうから有川たちが呼んでいる声が聞こえている。
「着替えたことには着替えたけど」
薫は自分の姿を足元から眺め、茫然自失と立ち尽くしていた。
特に衣装で入らないところはなかった。少しカチューシャがごわごわと頭を締め付けてくるので、微妙に位置を調整する。
「いい? 開けるわよ」
「どうぞ……」
覇気のない返事の後、待ちかねた様子で勢いよくドアが開き、有川と奥山、それから堂野が入ってきた。
そして、すっかりお姫様となった薫を一目見るやいなや、女性二人は口元に手を当て、息を呑んだ。そして、大げさに拍手をして、
「に、似合う。すっごい似合うー!」
と黄色い声を出した。
「本物のお姫様みたい」
目を閉じて、体中から湯気が出るほどの恥ずかしさを必死に耐え抜いた薫はぽつりと、
「死んでもいいですか?」
とこぼした。
「却下、それは出来ない相談よ。死ぬなら演技中、舞台の上で死ぬことね。その方が華があるってものよ。ああ、それにしてもこれほどマッチするとは」
有川たちは薫の様子を360度様々な角度から矯めつ眇めつ眺めながら、溜息をついている。そして、時折服に触れては微妙に調整をしている。
「いいわ、舞台に映えること間違いない」
そんなことを言っているうちに、有川たちの声を聞きつけた部員たちが続々と更衣室の入り口から顔を出す。そして、皆一様に相好を崩す。
「おお、似合ってる」
「小野村君、かわいい」
そして、いらぬ気遣いをした誰かが鏡を持って入ってきた。
見たくもない自分の姿がそこにはあった。
堂野は同情気味に見ている。
普段、男らしさを追及している薫にとってはそれと全く逆方向に向かう部員の反応にただただ、成す術もなく、されるがままに翻弄されていた。
こんな、こんな衣装が似合ってしまう自分って。自分って。
彼が自らの羞恥からくる体熱でふらふらしながら、本気で自分の将来を案じていたのは誰も知らない。
薫が白雪姫となって部員たちからその洗礼を受けてから、また十分ほど経った。衣装が似合うことが分かったので、薫は再び着替え、いつもの制服姿に戻っている。
今は舞台の上に上がり、有川から劇についての説明が始まるところだ。
「あのまま着ててもよかったのに」
舞台の端に立っている有川は名残惜しそうに言う。
「別にいいでしょ、その話は。それよりこれから演技について話してくれるんでしょ?」
「ああ、そうだったわね。それじゃ、始めましょうか」
そして、彼女は舞台の端から少しだけ中央に向かって歩いて振り返る。
「まず第一に承知して欲しいのは、演技は一朝一夕で出来るようになるものじゃないってこと」
「それは、さっき聞いたよ。でも今回はそれでもやらないといけないんだろう?」
「そうね、普通は演技をするのには基礎体力をつけるところから始まるの。毎日運動場を走って、ストレッチして、腹筋、腕立て伏せ……」
薫は彼女が話すことに呆気に取られた。
「ちょっと待って。それじゃ運動部じゃないの?」
「確かに、演劇部はそう言われても不思議じゃないかもね。でも、プロの舞台俳優、女優をいている人たちは私達よりもずっと動いて舞台向きの体作りをしていると思うわ」
「それが必要なの?」
「舞台に立って、お客さん全体に声を届けて、柔軟で多彩な動きで演技をするためにはね。実際の舞台ってかなり体力がいるのよ」
「……」
薫は口を噤んだ。演劇というものは自分が思っていたよりずっと大変なものなのであることを認識したのだ。ただ舞台に立ち、台詞をつらつらと喋ればいいのではないということだ。
「小野村君は運動は出来る方?」
「まあ、普通の人よりは出来るかな。小学校の頃はサッカー部だったし」
「でも今は何もしてないわよね。だったら、この二週間は毎日ランニングして、ストレッチ、あと発声練習も。少しでもよりよい演技をするためだから、協力してくれるわね?」
こればかりは拒否しても始まらないので、薫はすぐさま了承した。
「まあ、お姫様の役だから、それほど気負い込まなくてもいいと思うわ。大胆なアクションシーンがあるわけでもないし、むしろ、あまり動かずお淑やかな雰囲気が出るほうがそれっぽいと思う」
「なるほど、分かった」
「それと、台詞を言うときだって、そう簡単にお客さんに聞こえるほど大声が出せるようになるものじゃないわ。だから、これ」
彼女がポケットから出したのは小さなピンマイクだった。ワイヤレスのため、小型テープレコーダーのような機械にマイクのコードが繋がっている。
「声が大きい人は極力使わないことにしてるんだけど、中々大きな声も出ない人がいるから、そういう人のためのマイクよ。これでスピーカーから声を出すから、本番では付けて」
「ああ、了解」
「高い物だから数が少ないし、扱いには気をつけてね」
薫は有川からそれを受け取って珍しそうにいじっていたが、それを聞いてすぐに彼女に返した。
「もういいの?」
「下手にいじって弁償したくないからね」
彼女は再びそれをポケットに入れる。
「それで、これからが問題なんだけど」
「問題?」
急に有川は深刻そうな顔になって腕を組む。
「二週間で台詞を覚えて、どういった演技をするのか身につけられるかってこと」
「それは俺も思ってた」
これは堂野だ。
「なんと言っても薫は演劇に関してずぶの素人。演劇部なら台詞を覚えることも慣れているかもしれないが、二週間というタイムリミットで全て出来るようになるのはきついんじゃないかな。ヒロインだと台詞の量も多くなるだろうし」
堂野は心配そうに薫を見る。
しかし、これに薫は首を振った。
薫にはそれを何とかできるかもしれないという秘策があったのだ。
なにしろ、彼には他人の声を完璧に記憶し、忠実に再現できるという能力がある。今回はそれを応用すればいいのだ。
「大丈夫だよ。台詞もその言い回しも、須藤さんがやっている通りに再現できる。それもすぐに」
「本当に?」
有川は胡乱な目つきで薫を睨んだ。
「妙に自信たっぷりね。それだけ言い切れるなら問題ないのかしら?」
しかし、薫は静かに二人の顔を見ながら静かに頷く。大丈夫だという確信があったのだ。
「ただし、そうは言っても、一つだけお願いがある」
「何よ?」
言いなさい、と有川。
「それには須藤さんの協力が必要なんだ」