第八話 演劇部の歓迎にアンダーライン(前編)
一話で終わりたかったのですが、思いのほか内容が膨張してしまったので、分割して、とりあえず前半部分だけ書きました。
翌日の放課後、クラスでの作業を早々に終え、演劇部の練習が行われているという体育館へと急いだ。
部長の有川から、出来るだけ早く集合するようにと、昼休みに呼び出しがかかっていたのだ。
その時まで、昨日の出来事は全て夢だったのではないかと思い込もうと、必死に暗示をかけていたところだったので、
「ホームルームが済んだら、走って来い」
という有川からの半分脅迫のような命令によって一気に現実に引き戻された薫だった。
いつもなら、堂野と共に一階の昇降口から帰るのだが、名残惜しくも今日はそこを素通りし、さらに先、渡り廊下を進んだ。
体育館の入り口は半分ほど開いていて、中から声が聞こえてくる。どうやら既に練習は始まっているらしい。
その声には本番に向かう覇気のようなものが漂っていて、薫は少し臆してしまう。
普段なら、この辺りまでバスケット部や、卓球部の練習に励む声が届いてくるのだが、この時期だけは特別に演劇部が場所を譲ってもらっているということだった。
短い練習期間であるため、それだけ熱が籠もっているのだろう。
「出来れば、あの扉をくぐりたくないんだけど」
渡り廊下で歩きながら、薫は隣の堂野にそんな弱音を吐く。
「でも、いまさら逃げられないだろう?」
「そりゃ、そうなんだけどさ」
もちろん、堂野が正しいのは分かっていた。しかし、もしかすると、じゃあ逃げるか? と提案してくるかもしれない、という淡い期待を抱かずにはいれなかったのが薫の弱さだった。
このまま、文化祭に出て、女役を演じなければならないと思うと、憂鬱になる。
いくら、人助けのためとは言え、自分にはずいぶん荷が勝ちすぎている気は否めなかった。からかいの恰好の標的になることだってあるだろう。
有川は大丈夫だと言ってくれているが、本当に自分で勤まるのだろうか。
そんなことを思っているうちに、体育館の入り口に着いていた。上履きのまま、人のいないただっ広い空間へと足を踏み出す。
節電のためか、それとも、本番の雰囲気に似せるためか、明かりが点いているのはステージ場だけだった。そのため、辺りは暗い。
そして、そのステージでは、まさに今から薫が加わろうという劇の最中だった。
不安を煽るようなどろどろとした暗いBGMが流れ、魔女役らしき、紺色のマントを羽織った少女が巨大な鏡を前に囁いている。白雪姫では、言わずもがなの有名なシーンである。
ステージ斜め上方から差すスポットライトの青い光がその様子を怪しく照らし出している。
以前、君恵の練習を見に来たときにはここまで本格的な演出はしていなかったので、薫はふっと立ち止まって一瞬見とれた。舞台ってこういうものか、と改めて思ったのだ。
まるで、どこか別次元の光景を切り取って、この世に再現するかのようだった。
すると、突然、スポットライトの明かりが消え、ステージ場の明かりに切り替わった。
「はーい、ストップ。一旦休憩ね。新人さんが来たみたいだから」
有川の声が舞台袖から聞こえる。それと同時に、演劇部員が了解する声が聞こえる。
「うーい」とか「へーい」そんな具合だ。
新人さん、とはつまり自分のことだろうから、どうすればいいのか、辺りを見回していると、ステージの上から有川が姿を現した。
片手をついてひょいと舞台から降り、こちらに歩いてきた。
「どう思う?」
彼女は開口一番、薫にそう訊いた。
「へ?」
「今の場面、劇のことを訊いてるの」
「ああ、いいんじゃない、かな?」
薫はこめかみの辺りを指で掻きながら答えた。すると、有川は腕を組み、ふうんと目を細めて薫を見た。
「10点ね。誰にでも言える、ほとんど参考にならない無味無臭な感想。そんなもの必要ないわ」
突き放すような言い方である。
「……左様ですか」
げんなりして薫は俯く。
「次、堂野君は?」
彼女は隣の堂野に視線を向ける。堂野は少し首をうごかしてから、
「ううん、そうだな、俺はあんまり演劇なんて見ないけど、上手く魔女のおどろおどろしさが強調されてたんじゃないかなと思う。けど、気になったのはBGMの音量を少し控えめにしたほうがいいかも。役者の台詞が少し聞き取り辛い」
有川は大きく頷く。どうやらその意見の仕方は気に入ったらしい。
「なるほど、それは舞台袖から聞いていたんじゃ分からない点ね。もう一度調整する必要がありそうだわ」
そして、振り向くと舞台の横の扉から出てきた少女を手招きして呼んだ。
「奥山さん。ちょっと来て」
はい、とよく通る返事をして、奥山と呼ばれたその少女が走ってきた。少し小柄で、ショートカットの髪を揺らしている彼女は、有川の前で立ち止まると、
「なんでしょうか?」
と訊いた。
「音響のボリュームのことで相談なんだけど……」
有川は彼女の耳元でそう小さく囁いている。どうやら、堂野に指摘された点をすぐに改善するように指示しているらしい。
彼女の方を見ていると、薫はふと誰かの視線に気がついた。それは、有川に耳元で囁かれている奥山という少女からで、有川が言葉を切るたびに、薫の方をちらちらと見ているのだ。
おそらくだが、彼女は薫が君恵の代役であることが分かったのだろう。ああ、間違いない。彼女の視線はどこか珍しそうな物を見ているようだったのだ。
薫は恥ずかしくなって体の向きをそっと反対側に向けた。きっと彼女は本当に代役が男子だと分かって、驚いているに違いない。嘘でしょ、と心の中で後ずさりしていることも考えられる。どっちにしても友好的な感情を抱いている可能性は低いと見ていいだろう。
でも、聞いてくれ、俺だって好きでやるわけじゃないんだ。やらないと秘密をばらされると脅されてるんだ、薫はそう弁解したい気持ちで一杯だった。
だから、変なやつだなんて……。
「小野村君」
「え?」
急に呼びかけられて振り向く。
「今から彼女が舞台の袖まで案内してくれるから」
有川が隣の奥山を親指で差す。すると、彼女は腰を折って丁寧な会釈をした。
「一年二組の奥山紗江と言います。よろしくお願いします」
「こ、こちらこそよろしく。二年の小野村薫、です」
おずおずと頭を下げる薫。
「えっと、こっちは同じクラスの堂野亮介」
「どうも、堂野です」
聞き覚えのあるとぼけた挨拶にツッコミたくなるのを必死で押さえる薫だったが、奥山はにこやかな笑顔のままで「よろしくお願いします」と再び会釈しただけだった。
もしかすると、冗談は通じないタイプなのだろうかと薫は思う。
「どうぞ、こっちです」
そして、彼女は先に見えるドアの方へ向かって薫たちを促し歩き出した。
しかし、そこで、薫は有川がついて来ていないのに気づく。
「あれ? 有川さんは来ないのか?」
「私は今から少し顧問の先生と話をしないといけないの。だから案内を奥山さんに頼んだのよ」
「ああ、なるほど」
顧問の先生への報告も部長の大切な仕事なのだろうと薫は納得する。
「じゃあ、しっかり彼女の言うこと聞くのよ。いい? すぐに戻ってくるから」
そして、有川は聞き分けのない子供に釘を刺すように言うと、体育館の出口に背を向けて歩き出した。
「ええっと、こちらが舞台の横なんですけども」
手を伸ばして示しながら、先に歩いている奥山が説明する。
「このドア?」
「ええ、そうです。どうぞ」
「俺が開けるの?」
訊くと、立ち止まった彼女は頷く。そこに彼女のなんらかの作意が見えた気がするが、薫は構わずドアのノブに手を伸ばした。
「こんな場所、普段入らないからなあ。中がどうなってるのか気になってたんだ」
「同感」
堂野も首肯した。
ふっと息を吸い込んで薫はドアをゆっくりと開ける。
僅かに軋んだ音を立てて、ドアが開いた先は、短く細い通路が伸び、その先が舞台の高さまでの階段となっていた。どこか倉庫内に入ったようなほこりっぽい匂いがする。
「階段を上ったところが舞台の袖ってことか」
確認するように薄暗い通路に踏み出す。
そして、階段を上りきろうとしたときだった。
突然、全ての明かりが消え、辺りが真っ暗になった。これでは、真っ直ぐ歩くことが出来ず、薫はすぐ横の壁を手探りで探す。
「あれ、停電?」
「そんなまさか、誰かが消したんだろ?」
堂野は落ち着いている。
「奥山さん、電気のスイッチは?」
しかし、背後にいた彼女からの返事はない。
「あれ? いない」
そう言ったのと同時に、暗闇の中で何かがこそこそと動いているのを薫は察知する。板張りの床の上を上履きが擦る音が聞こえるのだ。それも、一つや二つではない。他の演劇部員だろうか。
「すいません、誰か……」
言いかけて、急に強い光が現れた。
「うわっ」
まぶしくて目を押さえる。
細めた目から垣間見るにどうやら薫たちはライトに照らされているのだ。正面に大きなスポットライトが見える。カラーフィルムが貼り付けられた盤が回転し、色とりどりに薫たちを光らせている。さらに続いてドラムロール。
「なにこれ?」
そう口走った途端、今度はステージのライトが灯った。そして、薫たちはいつの間にか複数の人間によって周りを囲まれているのに気がつく。
「演劇部へ、ようこそ!」
誰かが高らかに大声で言うと、一拍置いて、クラッカーの炸裂する音が鳴り響いた。そして、拍手が巻き起こる。
「え、え、え?」
突然の事態にその場から薫は動けなくなった。複数のクラッカーのカラーテープを頭から被り、身動きが取り辛いという理由もあった。身体を揺すって振るい落とす。
見渡せば、十数名の生徒たちが目を輝かせてこちらを見ている。
「見よ、勇者のご登場だ」
大げさな素振りで、体格のいい男子が歩み寄り、薫の頭にポンと手を置いた。
「我らがヒロイン、君恵嬢が不慮の事故で動けなくなってから、すでに五日。ああ、おいたわ
しきや、君恵嬢。そして、それにより、我ら演劇部もかつてない存亡の危機に見舞われた」
舞台中に響き渡る声で彼はオーバーなほどの身振り手振りで悲しみを体現していた。
「嗚呼……」
その場の演劇部員が仰々しく全員悲しげに胸に手を置いて目を伏せる。
なんだこの茶番は。
薫は心の中でつぶやく。
「ろくに飯も喉を通らず、練習もどこか上の空、そこへ女王有川の怒声が飛ぶ。絶望の日々は我らを打ちのめし、不幸の懸崖から無慈悲にも突き落とした。雷鳴轟き、川は氾濫。もはやこれまでと誰もが思ったとき、黒雲割れ、一筋の光が地上に降り注いだ。そうだ、彼こそ、我らの救世主、小野村……」
「やめんかい」
ぽかん、と軽い音がして、台詞が止まった。見ると薫の隣の男子を背後から叩いた人物がいた。
先ほどの案内役、奥山である。
誰かの飲みかけのペットボトルを手に持っている。どうやらそれが凶器らしい。
「何すんだよ、奥山。せめて最後まで台詞言わせろって」
叩かれた彼は後頭部を押さえながら抗議する。
「小野村先輩が困ってるでしょ。空気読みなさいよ。それに他の皆さんもですよ、先輩たちも調子に乗り過ぎです」
すると、彼女は薫を向いて申し訳なさそうに頭を下げる。
「すいません。私はこんなはちゃめちゃな演出は最初から反対だったんですけど、多数決でこうなってしまって」
「いや、別にいいけど」
平常心を装っていた薫だったが、内心、とんでもないところに来てしまったものだと、若干後悔し始めていた。
「自己紹介、すればいいのかな?」
その場の全員の目が自分に集中しているのに耐えられなくなった薫は視線を泳がせながらそう切り出した。
「いいえ、そんなもの必要ありませんよ。小野村さんのことは皆よく部長から聞かせてもらいましたから。すごい才能をお持ちなんだそうで、あの部長が言うんだから間違いないんでしょう」
薫は自分の頭に手を乗っけたままの男子生徒からの言葉に首を振った。
「大したことじゃないよ」
「またまたぁ、ご謙遜なすって」
ぐりぐりと上から押さえつけてくる。薫はこれ以上背が縮んではたまらんと、隙を見てその魔の手から抜け出した。
「いろんな人の声まねが出来るんだってね」
部員たちのちょうど真ん中辺りに立っていた女子生徒が訊いた。
「ああ、うん」
「ねえ、聞かせてよ」
すると、彼女に続くように周りの生徒たちが口々に「聞かせてくれ」とせがんできた。
「ストーップ。今はそんなことをする時間じゃありません」
後ろで見ていた奥山がすかさず注意する。
「先輩はこれからしなくちゃいけないことがあるんですから。そういったリクエストに答えている暇はありませんので、悪しからず」
「ちぇ、奥山はいちいちうるせえな。人生には余裕を持つことが必要だぞ」
不平に口を尖らす部員に、彼女は堂々と毅然とした態度で返した。
「何と言われようと構いません。小野村先輩のことは部長から一任されているので、私には責任があります」
「分かったよ。じゃあ、せめて俺たちから自己紹介だけ簡単に済ますから。おい、皆一列に並べ」
今度は奥の方に立っていたひょろっとした男子生徒が号令をかける。見覚えがあるので、おそらく同じ二年の生徒だろう。
全員が了解の返事をして、即座に薫の前で横一列に並んだ。こういったチームワークがいいのはやはり日ごろの練習があるからに違いない。
すると、目の前の一人が薫と握手をして、クラスを言い、名前を名乗る。それが終わると一人ずれた。そういった具合に次々に自己紹介が行われていく。
薫は出来るだけ顔と名前を覚えようと必死になっていたので、返事が少しおろそかになっていた。途中からは「よろしく」しか言っていなかった気がする。
演劇部は男子と女子の割り合いはちょうど半分ほどのようだった。三年は夏に引退してしまっているので、二年生と一年生しかいない。
そして、最後に握手をしてきたのは先ほど、薫の横で啖呵を切ったあの男子生徒だった。
「一年二組の馬場浩太といいます。さっきはいきなりあんなことをしてすいませんでした」
言いながら愛想よく笑ってくれた。
「いいって、気にしないから」
すると、彼は手を握りながら、口を薫の耳元に近づけてきた。
「奥山、気をつけてくださいね。いろいろとルールに厳しい奴ですから。俺たちの間じゃ、次期部長は間違いないって専らの噂です」
「……分かる気がする」
薫は苦笑いだ。
「ですよねえ」
見渡すと、既に他の部員たちは散らばっており、次の練習場面の調整に入っているようだった。そう言えば、奥山の姿が見えない。
「その奥山さん、どこ行ったんだろ?」
「ああ、きっと衣装でも取りに行ったんですよ」
「衣装?」
「先輩の衣装ですよ」
彼はなんでもないことのように言う。
それを聞いて薫は額に手を乗せた。
自分のこれからの運命を思い出したのだ。
演劇部の友好的な歓迎ムードに浮かれていたが、自分はこれから姫役をやるのだ。
それを思って暗澹たる心持ちになる。




